第30話 腐り落ちる王城


「死んで――?」


 現実感のない言葉が華やかな広間に響く。それはざわざわと伝染していき、踊っていた人々も何事かと戸惑いだす。


 白いドレスを着た王太子妃――セレスティアは死んでいた。

 苦痛に歪んだ壮絶な死に顔で床に倒れていた。しかもいまではなく、ずっと前に死んでいたかのように、その身体は腐り始めていて、腐臭を漂わせていた。


 アレン王太子は引きつるような悲鳴を上げ、セレスティアの死体から身体を離した。


 絹を裂くような悲鳴が上がる。

 逃げようとする人々が現れる。


「――近衛兵、この者を捕らえろ!」


 狂乱の中、アレン王太子がヴァルターを指さす。すぐに会場の警護をしていた近衛兵たちがヴァルターを取り囲む。ヴァルターはそれらを一瞥し、小さく舌打ちをした。


「下らん」


 心底下らなさそうに言う。

 貴族として、人間として勉強してきた成果はどこに消えてしまったのか。


「その女はとっくの昔に死んでいた。何をいまさら驚いている」

「そんなはずがない! 僕はセレスティアと永遠の愛を誓ったばかりだ! さっきまでダンスをしていたんだ! 貴様が触れるまで、セレスティアは生きていた!」

「なるほど。死体と睦む奇特な人間だと思っていたが、その目にはそう見えていたのか」


 揶揄ではなく淡々と言う。ヴァルターに悪気はない。だがリディアーナが何か言ったとしても状況が改善する見込みがない。それこそ、セレスティアが生き返らない限り。


 いっそこのまま逃げてしまおうか――……


 そんな考えが頭をよぎったとき、足に何かが絡みつく。長くて、なめらかで、硬いものが。思わずドレスの裾を上げて、リディアーナは目を見開いた。


 それは髪の毛だった。乳白色の髪の毛。


「リディ!」


 ヴァルターが焦った声で叫び、リディアーナに絡まっていた髪の毛をつかみ取る。

 しかし次の瞬間、その髪の毛がまるで生きているように蠢きヴァルターの口の中に入っていった。


「ヴァルター? は、早く吐き出して!」


 ヴァルターは吐き出そう、掴み出そうとするが、髪はどんどん奥に入っていく。そしてそのまま、ヴァルターは意識を失い倒れた。


「ヴァルター!」


 悲鳴が上がる。ひとつやふたつではなく、広間にいた人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。床から、壁から、天井から染み出してくる腐った肉の塊に怯えて。

 舞踏会の広間は瞬く間に腐肉の海となっていく。


「このやり方は、《静謐の魔女》――……?」


 リディアーナは覚えていた。三魔女のひとりである《静謐の魔女》――共に魔王を倒し、共に魔王の座を交代して回していた彼女の力を。死したものを自在に操る彼女の力を。



女王の氷華オートデバフ



 リディアーナの権能が発動する。

 だが腐肉の滲んでくる速度は衰えない。魔族そのものではないから効かないのか。それともリディアーナが《静謐の魔女》を敵だと思っていないから効かないのか。


 そして腐肉はリディアーナの足元にも迫ってきた。


「マスター!」


 影から飛び出してきたメイド姿のミルルリカがリディアーナを持ち上げ、走り出す。


「ミーちゃん待って! ヴァルターが……お父様が……!」

「ごめんマスター! あたしが抱えられるのはマスターくらいだから!」


 腐肉に沈んでいく城の中を、ミルルリカはリディアーナを抱えたまま走る。獣の耳も、獣の尻尾も露わにして。


「いまはとにかく逃げなきゃ! あれ捕まると絶対ヤバいやつ!」


 バルコニーに出て、しなやかに跳ぶ。

 手すりを乗り越え、夜の空を跳んで、一気に地上まで降りる。無事着地。そのまま庭を駆け、城壁を駆け上がり、飛び越える。鮮やかな動きだった。


 脱出した場所は幸いにも人目につかないところだった。城壁の物陰から周囲の様子を見てみると、城外は騒然となっていた。


 美しいデュンケ城が突如謎の泥に覆われているのだ。中から逃げおおせた人々や、貴族を送ってきた従者たち、異変に気づいて集まってきた人々で、大混乱だった。


 その場にいる人々の関心は、城からいまも噴き出し続けている異様な泥だ。

 実はそれは腐った肉だと誰が気づくだろう。気づいたとして、誰がそんな異常事態を受け入れられるだろう。


 人込みから離れたところから、リディアーナはその騒動を見つめる。ミルルリカに付き添われながら。

 胸に押し寄せるのは不安だった。


「ヴァルター……」


 名前を呼んでも、返事はない。

 気配もない。

 いつも呼んだらすぐに影から出てくるのに。千里先からも駆けつけると言ったのに。


「ヴァルターのばか……」

「マスター……」



女王の氷華オートデバフ



 無意識のうちに権能が発動し、夏の王都に雪が降る。永遠に溶けない弱体化結晶が、城を包むように降り積もる。

 ひとまずこれで腐肉も、中の魔族も、外には出てこられないはずだ。

 出てきたとしてもかなり弱っているはず。希望的観測を胸に抱き、リディアーナはミルルリカに言う。


「一度、バルトロイ家の屋敷に戻りましょう。このドレスでは戦えないわ」



◆ ◆ ◆



 屋敷にも、城の騒動はすでに伝わっていた。無事を喜ばれたが、リディアーナは部屋でゆっくり休みたいと言ってすぐに部屋に戻った。

 そしてまず身に着けていたサファイア――首飾りとイヤリングを外す。


「マスター、これからどうするの?」


 ミルルリカが不安そうに聞いてくる。リディアーナはサファイアを収めた宝石箱の蓋を閉め、答えた。


「ヴァルターを助けにいくわ」


 そして父も。

 可能なら他の人々も。

 王太子と聖女の結婚式が行われていた王城には、王族に貴族、城で働く人々、そして外国からの使者も来ているだろう。救出できなければ国が終わる。


「無理無理! あそこはもう魔王城よ。しかも魔女の。フェンリルもいないのに無謀よ! そうよ、あのフェンリルだって、もう匂いで死んでるって」

「ヴァルターは死なないわ」


 それはなんの根拠もない、ただの願いだ。

 信じたいだけの、愚かな願い。そんな儚い希望でもなければ、このまま崩れ落ちてしまいそうだった。


「でも、相手の正体もわからないのに――」

「《静謐の魔女》」


 リディアーナは確信をもってその名を口にする。


「それってもしかして、マスターと同格の、三魔女のひとりの?」

「そのとおりよ」

「えーっ?! ってことは、聖女が魔女? 魔族が聖女? 生まれ変わり? うそーー!」


 ミルルリカが絶叫する。

 リディアーナも魔族が神に愛された聖女になるなんてにわかには信じられない。


「どんな経緯があったかはわからないけれど、いまあの場所にいるのは《静謐の魔女》なのは間違いないわ。《静謐の魔女》がセレスティア様に生まれ変わったのか、乗っ取っていたのか、あの瞬間に乗っ取ったのかはわからないけれど」


 経緯は特に問題ではない。


(そして、私のことが大嫌いなのも間違いないわね……《氷の魔女》だった私を殺したのも、彼女かもしれないわ)


 その辺りはもう終わったことなのであまり気にしていないが。


(ヴァルターのことを好きだったとは、どういうことなのかしら)


 リディアーナが一番気になっているところはそこだった。

 しかも、番いつがいとまで言っていた。


「…………」

「マスターの顔が怖い……」


 ミルルリカが怯えたように尻尾を縮ませている。


「ミーちゃん。番いつがいとは、片側だけがそう思っていて、相手は何も思っていないこともあるのかしら――」

「片側だけの思い込みで番いとまで言うかなー……言う言う! ……言うやつもいるよ!」

「そう。それを聞いて安心したわ」

「……マスターが怖い……」


 両手で身体を抱えてぶるぶると震えている。

 リディアーナは自分でドレスを脱いで、着替え始めた。トランクに詰めていた、冒険者として生活していたときの服に。


「《静謐の魔女》は死体遣いの一族、ヴァルターを彼女のおもちゃにさせるわけにはいかないわ」


 母の形見の日傘を手に取る。白いレースの日傘は酷使してきたため、もうかなり傷んでしまっていた。この騒動が終わったら、修理に出そうと思った。


「行くわよ、ミーちゃん。魔王城へ」


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