第9話 別れの準備


 ――リディアーナは、さっと身を隠した。窓から見えない位置に。壁際に。

 盗み聞きなんていけないことだとわかっている。だが止められなかった。一体中にいるのは誰かのか、確認しなければならない。


「――はい。リディアーナ・フォーデルハイド様は王家の血を引く姫君であり、由緒正しき伯爵家のご令嬢であります。そしてこれより辺境伯に嫁がれる御身です」


 中から聞こえてきたのは、聞き覚えのない男性の声だった。


 リディアーナの背筋に冷たい汗が流れる。そこまで事情を知っていて、そこまでの事情をあっさりと明かしてしまうなんて。

 いったい何者なのか。どこの手のものなのか。


「でも、リディアちゃんは記憶がないって……」

「貴女方がフォーデルハイド令嬢とお会いしたのはどちらですか」

「辺境の……蒼き森だよ」

「やはり。令嬢の護衛隊は、そこで消息を絶ちました。生きていてくださったとは……」


 涙ぐんでいる声が聞こえてくる。演技には聞こえない。

 本気で心配していたような声だったが、やはり聞き覚えがない。


「――あなた方に、どうかお願いしたい。リディアーナ様を突き放してはいただけないでしょうか」


 リディアーナの心臓が大きく跳ねる。


「リディアーナ様は王家の血を引く伯爵令嬢……なんの苦労も知らずに過ごしてきたあの方に、これ以上危険なことをさせたくないのです」

「突き放すって……あたしたちの方からパーティから出ていくように言えってこと?」

「そんな回りくどいことをせずとも、あなたが普通にリディアさんを迎えにいけばいいでしょう」


 エリカは戸惑い、フィオは機嫌が悪いようだった。


「ええ。そのとおりなのですが、それだと残念ながら反発される恐れがあります。リディアーナ様はどうやらいまの生活を楽しんでいらっしゃるご様子。初めて覚えた自由に夢中になっていらっしゃる」


 リディアーナはひたすら困惑して話を聞いていた。


 いったいどこの手のものなのか。

 王都の父親は、二度と戻るなと言った。

 叔父である国王も、リディアーナが戻ることを望んではいないだろう。

 唯一可能性があるとすれば、夫となるはずのルギウス・バルトロイ辺境伯だろうか。だがその線も薄く思える。


「あなた方から突き放されて、居場所がなくなってこそ、元の生活に戻る決心もつくというもの。どうかお願いします。リディアーナ様の、ひいては辺境と、この国のためなのです」

「…………」

「勿論謝礼は用意しております。口止め料も含めて、充分な額を」

「ううん、それはいらない。そのお金は、リディアちゃんのために使ってあげて」


(エリカさん……)


 エリカとフィオは既に心を決めたようだった。リディアのために、リディアと別れると。

 リディアーナにはその選択を止めることはできない。


 家の中からゴトゴトと物音がする。客人が帰ろうとしているのだろう。リディアーナは音を立てないように気をつけながら、玄関から見えない位置に移動する。


 玄関ドアが開き、灰色のローブを着た人物が家の中から出ていく。リディアーナは物陰からその後姿を見送った。

 少しして、家の中から声が聞こえてくる。


「あっはは……損な役回りだなぁ」

「私から言いましょう。エリカは嘘が下手なので」

「ううん、あたしが言うよ。リーダーだしね」

「……本当にいいのですか?」

「うん。リディアちゃんのためにも、この方がいいんだよ。きっと」


 諦めたような声が、リディアーナの胸を締め付ける。痛み。苦しみ。悲しさ。寂しさ。様々な感情が湧いて、消えることなく胸に渦巻いていく。


(――私は《氷の魔女》だったんだもの……心を凍らせなさい。リディアーナ)


 冷静さが戻ってくるのを静かに待ち、リディアーナはこっそりと移動した。家の裏手へ。

 そこにはヴァルターがいた。フェンリルの姿となったヴァルターが。

 リディアーナはその銀の毛並みにしがみつく。


(まったく……誰かに見られたらどうするの)


 フェンリルが街中に現れたとなったら大騒動が起こる。


「誰もいないところへ連れていって」


 こっそりと囁き、ヴァルターの背に乗る。ヴァルターはリディアーナの願い通り、一瞬で街を飛び出し、すぐ近くの森へと移動した。

 人の気配のない、小さな生き物の気配しかない森の中で、ヴァルターは背からリディアーナを下ろして問うてくる。


「――いかがいたしますか。宿には、先ほどのものの手先の人間が三人、潜んでいます」

「エリカさんの家の周辺は?」

「あの家の周辺にいた人間は片づけました」


 どう片づけたのか。


「無力化させただけですので、時間はそう稼げません」

「そう……」


 許可なく人間を傷つけてはいけないという言いつけを守ってくれているのか。


「相手は人間だったのね?」

「はい」


 魔族ならばともかく、人間となれば事態はより複雑となる。

 だがいまは考えるだけの材料も時間も心の余裕もない。一つ一つ片づけていこうと決めて、リディアーナはまず手紙を書くことにした。


『エリカさんとフィオさんへ。昔のことを思い出したので、家に帰ります。いままでお世話になりました。エリカさんとフィオさんに出会えてよかったです。このご恩はいつか必ず返します。リディア』


 小さい紙にさらさらと短い文章を書き、二つ折りにしてヴァルターに渡す。


「部屋の荷物を取ってきて、これを宿の人に預けてきて。二人が来たら渡すように、と」

「よろしいのですか」


 ちゃんと別れを言わなくて――そうリディアーナは解釈した。


「いいの。嫌な役回りなんてさせたくないわ」


 本心は別のところにあった。あの二人にはたとえ演技でも不要と言われたくない。


「わかりました。少々お待ちください」


 ヴァルターが姿を消す。

 一人になったリディアーナは、森の中で静かに佇んだ。もし魔物が出てきても、この付近の魔物ならばリディアーナでも十分対処できる。

 ヴァルターなら一瞬で戻ってくるだろうが。


 それでもいま森の中にいるのは、か弱い人間であるリディアーナだけだ。リディアーナは日傘をぎゅっと握りしめた。


「あなたはもしや、リディアーナ様!」


 背後から男性の声が響く。驚きと感動の混じった声が。振り返るとそこには灰色のローブ姿の人間がいた。

 リディアーナはじっとその姿を見つめた。


「あなた、人間の真似がうまいのね。ヴァルターの鼻も誤魔化せるぐらいに」

「……はて、どのような意味でしょうか。わたくしは貴女様をお迎えに上がっただけでございます」


 男は困惑しながらも、背を曲げて挨拶の姿勢を取る。

 リディアーナは構わず続けた。


「孤立させて心を弱らせようとでも思ったの?」

「……おっしゃられる意味が」

「いいわ。するなら早くして。私の忠実な従魔が戻ってくる前に」

「…………」

「復讐したいのでしょう? あなたの目、とっても昏いわ。お父様や伯父様と同じ――……」


 同じ炎が燃えている。

 恨み。憎しみ。悲痛。怒り。慟哭。リディアーナを壊してしまいたいという衝動。

 人間はそれを理性で押し止めることができる。理性や倫理観、体裁、地位、世間の目――あらゆる束縛によって、その衝動を胸の内にとどめ続けることができる。


 だが魔族はもっとシンプルだ。

 怒りの衝動のままに対象を屠ることができる。

 なのにこの男は――……


「いまの魔族は、人間に溶け込むのが本当にうまいのね。由々しき事態だわ」


 リディアーナとヴァルターもまったく人のことは言えないが。


「――すべては――すべては魔女様のために……!」


 信念と憎悪のこもった低い声。それに応えるかのように森がざわめく。影が揺れ、魔物が生まれ、リディアーナを取り囲む。

 男の手から魔法が放たれる。強い炎の魔法が。



女王の氷華オートデバフ



 空から花弁が舞い落ちる。雪のようにひらひらと。自覚すればよく見える。きっといままでも同じように花は降っていた。

 炎の魔法が霧散する。

 魔物はみるみる弱体化する。形を保てず、精気を失い、ただ地を這うだけの泥となる。


 ローブの男も同様だった。見かけも中身も人間だとしても、ほんの少しでも魔を帯びていれば弱体化する。


(これが――私の権能)


 敵の力を奪い、弱体化させる力。強力であり、恐ろしい力。まさに魔王の名にふさわしい。たとえ魔族にしか効かずとも。

 自分の力を理解した刹那。隣からやさしい声が響く。


「そうです。――我が君、それこそがあなたの権能。あなたが王である何よりの証」


 ヴァルターの声。


「凍てつく風よ――私の敵を破壊して」


 氷と風の複合魔法が森に吹き荒れ、魔物のみを破砕する。木々の葉一枚さえ傷つけずに。


「魔女……様……」


 灰色のローブの男の身体が澄んだ音を立てながら凍り、そして砕けた。

 残ったのは、聖職者の証である光のアミュレットだけだった。

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