第11話 辺境での病


 リディアーナは世話になったエリカとフィオと別れ、宿の部屋の荷物を回収して引き払う。

 そのまま歩いて街から出て、夜が訪れ、人気のない場所まで来てから、ヴァルターはフェンリルの姿に変わった。


「リディ、どうぞ我が背に」


 ヴァルターに促され、銀色の毛をつかみながらその背に登った。

 表面の毛は少し固いが、内側の毛は柔らかくてあたたかい。


 ヴァルターが駆け出し、風となる。

 速度は速いがまったく揺れがない。安定していて、落ちそうな気配すらない。リディアーナは安心しながら寝ころんで、毛皮に抱き着く。


(誰かに見られたらどうしよう)


 魔狼フェンリルの姿を人間に見られたら、きっと大騒ぎになるだろう。


「誰もいません」


 リディアーナの不安を読んだかのようにヴァルターが言う。


「ここには俺たちだけです」


 その声の響きは優しく、どこか嬉しそうだった。

 思いっきり走ることができて嬉しいのだろうとリディアーナは思った。


 気がついたら涙が零れていた。

 リディアーナはこの世界では異物だ。人間の身体に、魔族の記憶。そして権能。傍には最強の従魔フェンリル。

 きっとどこにも安息の地はないのだろう。


 そしてそれはずっと昔からだった。

 母が死んだ十歳の時からずっと、リディアーナの平和は壊れていた。いまさら悲嘆に暮れることはない。


「辺境に――バルトロイ領に行くわ」


 ――王都には戻れないからその逆方向に。

 そして魔族領と接している辺境は、魔族との戦いの最前線でもある。魔王の記憶を持つリディアーナにとっては興味深い土地となる。知っておきたい場所だった。


「あなたと再会した場所から更に北西へ。場所はわかる?」

「もちろんです。お任せください」


 フェンリルは月夜を駆ける。北西へと。



◆ ◆ ◆



 オリゼンの街から辺境領へはすぐだった。もともと辺境からそう遠く離れていない。そしてフェンリルのスピードならば、移動は一瞬のことだった。


 夜のうちに辺境の街に辿り着く。街の名前はモンデント。だが夜はどこも固く門が閉ざされている。魔族は夜こそ活発に動くからだ。


 篝火がいくつも燃えている街を遠くから見ながら、リディアーナはフェンリルの毛皮に埋もれ夜を過ごす。


「これからいかがいたしますか」

「冒険者なのだから、冒険者登録をして働くわ。でないとお金が稼げないもの」

「路銀なら俺も持っています」


 ヴァルターはSランク冒険者だ。当然報奨金もたくさん蓄えているだろう。


「いつなくなるかわからないものよ。多いに越したことはないわ」


 だが冒険者として働いている間、ヴァルターはどうさせようと悩む。

 人間として傍に置くか、従魔として影に控えさせておくか。


 傍に置く場合は、同じ冒険者として登録するのが一番だろう。ずっと共に行動していても不自然さはない。


 しかしヴァルターはSランク冒険者だ。Sランク冒険者は数が少ない故に目立つ。しかもこの容姿。貴族の中でもこれほどの美形はいなかった。絶対に目立つ。リディアーナとしては影に控えさせておきたい。だが。


(せっかくヴァルターなりに冒険者として頑張ったのだから、私が認めてあげないと……ううん、ヴァルターがどうしたいか、よね)


 リディアーナはヴァルターの顔を見上げる。


「ヴァルター、あなたはどうしたい?」

「御心のままに。俺はあなたの隣にいられるだけで満たされるのです」

「そう……なら、これからは影には入らず私の隣にいなさい」


 少女の一人旅も目立つ。そして危険だ。どのようにしても目立つのならば、危険度が低い方がいい。





 夜が明けてから街に入り、食堂で山盛りのベーコンクリームパスタを食べてから冒険者ギルドを探す。


 その途中で、教会から出てきた疲れた顔の女性とすれ違う。ふらついた足取りに青い顔。肩から掛けた重そうな荷物。心配になって振り返ると、その目の前で女性が倒れそうになった。


 リディアーナは女性を支えようとしたが、それよりも早くヴァルターが動いて女性を支える。


「あ、ありがとう……」

「いえ」


 ヴァルターは軽く微笑み、女性をちゃんと立たせてから手を離す。

 その光景を見てリディアーナの胸が震えた。


(ヴァルターが人間社会になじんでいる……! 後で褒めてあげないと!)


 だがその前に、リディアーナは女性に声をかけた。


「だいじょうぶですか? よかったら家まで送りますよ」

「まあ。ご親切にありがとう。でもまだ仕事があるから。薬師が休むわけにはいかないもの」


 青い顔で気丈に微笑む。


「何かあったんですか?」

「……悪いことは言わないから、早くこの街から出て行った方がいいわ……」


 薬師の女性は表情を暗くし、声を潜めてそっと囁く。


「この街にはいま伝染病が広まりかけているの」

「伝染病?」

「風邪によく似ている病気なのよ……熱が出て、倦怠感があって、咳が出たり喉が痛くなったりする……でもそれがいつまでも治らなくて。どんどん衰弱していって、やがて命を落としてしまうの」

「それはもしかして、黒風邪ですか?」


 薬師は驚いたように目を見張り、ため息をついて頷いた。


「よくご存じね」


 ――黒風邪。


 魔族領の瘴気の沼からの風が原因の病だ。瘴気を吸った人間は自然治癒力が大幅に低下する。瘴気は人間の中で増殖し、咳によって拡散される。

 最初の発症率は高くないが、ひとたび人間が感染すると爆発的に広まっていく。そして弱い個体から犠牲になる。


「治療法はあるんですか?」


 薬師は首を横に振る。


(まだ治療法が確立されていないんだ……)


 リディアーナはこの病気の治し方を知っていた。黒風邪は魔族もかかる病気だ。ずっと症状は軽いが。


 治す方法は簡単だ。体内に入り込んだ瘴気を浄化する――それだけだ。浄化は神聖力のある聖女の得意分野だが、当代の聖女セレスティア・エシュトー侯爵令嬢がこの地まで来ることはないだろう。


 彼女はいま王太子の婚約者だ。そんな彼女を辺境に派遣するなんて、王家は許さない。


「亡くなった方はいるのですか?」

「いまはまだ……でも、時間の問題でしょうね」


 ならばすぐに体力のない老人や子どもから死んでいくだろう。死者が出始めれば、一気に感染拡大するだろう。時間がない。だがいまならまだ間に合う。


 リディアーナは薬師と別れ、細い路地へと移動した。人目につかない場所へと。


「ヴァルター、魔族領へ行くわよ」


 ヴァルターの顔を見て、言う。


「黒風邪を治すのには、魔族領に咲く花が必要なの。それを取りにいくわ」

「人間のためにですか?」


 ヴァルターは心底不思議そうに言う。

 悪気はない。純粋に不思議なのだ、彼は。《氷の魔女》が人間のために動くのが。《氷の魔女》は人間に対してまったく興味を抱いていなかったから。


「私もこの国の貴族だったのよ。民を見捨てることはできないわ」

「――リディ。俺はあなたの願いを叶える存在。すべてお任せください」

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