第12話 魔族の領域へ


 フェンリルは走る。跳躍する。荒野を。峡谷を。森の上を。

 空はどんどん赤黒く染まっていく。まだ昼間だが、人間界と魔界の境に来ているためだ。魔界の空は赤い。その境の空は青と赤が混ざる。


 フェンリルの足取りに迷いはない。瘴気のにおいを辿って走っているからだ。その見事な白銀の毛並みの上に横乗りになって、日傘を広げたまま、リディアーナは流れていく景色を眺めていた。


(そろそろ魔界ね……)


 魔界は魔族が支配する土地だ。

 人間の生存領域とは陸続きだが、魔族の支配が及んだ土地は性質がまったく異なってしまう。それこそ空の色から風のにおいまで。そして気温も。


 魔族は自分の領地を広げるために人間の土地を奪おうとする。

 もちろん人間は対抗する。

 その最前線が辺境なのだ。


 魔界に近づくほど空は赤く、暗くなっていく。

 以前は心地よかった暗さだが、いまは不快感を覚える。この身体が人間ゆえだろう。

 空気がなじまず、ハンカチーフで鼻と口元を押さえる。だが意味がなかったのであきらめる。そのうち慣れてくるだろうと。



女王の氷華オートデバフ



 黄金の花がリディアーナの上から降る。すると空気の不快さがなくなり、呼吸が楽になる。

 便利なものだと思った。


「ヴァルターはだいじょうぶ?」


 ヴァルターはずっと走り続けている。リディアーナを背に乗せて、ずっと。


「問題ありません。もうすぐ到着しますので、ご準備を」

「わかったわ。……ここの領主は誰なのかしら?」

「誰であろうとあなたの敵ではありません」


 ヴァルターは誇らしげに言う。


(戦いたいわけではないのだけれど)


 出来れば穏便に済ませたい。

 リディアーナの目的は黒風邪を治す薬草だけだ。


 時折魔物の気配を感じるが、フェンリルに追いつけるものはいない。時々大きな魔物が壁のように立ちはだかるが、フェンリルはあっさりと飛び越えていく。


 そして戦闘のないまま目的地に到着する。


「ありがとう、ヴァルター」


 リディアーナはフェンリルの背中から降りる。

 到着したのは森の中にある緑色の沼の傍――白い花が咲き乱れる場所だった。花の名前はエンリス。瘴気の湧く沼の近くに咲く花で、この花が黒風邪の薬になる。


 だがリディアーナは花を摘まずに、沼の方に近づいていく。常に黄金の花を降らせ、寒さに顔を顰めながら。春ももうすぐ終わり、初夏の気配を感じる季節だというのに、魔界は肌寒かった。


 瘴気の沼のほとりには、住人がいた。女性型の魔物が、何体も水辺に座っていた。くすんだ緑色の長い髪、灰色の肌、ぎょろりとした黒い目。


 ――沼の魔物だ。

 その髪や口からは常に瘴気が溢れている。瘴気を放つこの魔物の数が増えることで瘴気の量が増えて、それを吸うと黒風邪にかかる。魔族も、人間も。


 この魔物の数を減らさなければますます瘴気が増える。沼の魔物の間引きは、土地の主の定期的な仕事のひとつだ。この地の主はそれを怠っているようだ。

 手早く片付けようとしたリディアーナだったが、沼の魔物の内の一体が不思議そうに言葉を紡ぐ。


「《氷の魔女》……?」


 リディアーナを見て、呟く。


「《氷の魔女》……」「フェンリル……」「《氷の魔女》……」


 呟きがさざ波のように広がっていく。


「おお、《氷の魔女》……どうか我らをお救いください」


 最も身体の大きな個体が、沼から出てひたひたとリディアーナの方へやってくる。


(私を知っている……? 私の従魔? ……ダメ、覚えていない)


 どうも記憶に欠けがある。転生しているのだから仕方ない。


(どちらにしろ無理だけれど)


 いまのリディアーナは人間の身体。魔物を救う力はない。


 たとえ力弱き魔族でも、いまのリディアーナを見ればわかるはずだ。人間だということも。力が弱いことも。なのにこうして縋ってくるということは。


「その権能を、我らに譲ってくださいませ」「慈悲深き《氷の魔女》……」「魔王の、権能……」


(そうくるのね)


 沼の魔物が求めているのは庇護ではなかった。

 他の個体も沼から上がってわらわらとリディアーナの前に集まってくる。


「もしかして、私を食べれば私の権能が得られるとでも思っているの? 魔族にそんな特性はないわ」


 リディアーナ自身は試したことはないからわからないが。

 魔族が魔族相手から奪えるのは、従魔と領地くらいのものだ。


「いまの《氷の魔女》は人間の器……なれば可能性はあるかもしれません」


 沼の魔物はうっとりと微笑む。

 そこには悪気も悪意もない。権力欲も。ただ力が欲しいだけだ。純真な子どものようなものだ。

 ――だが、奪われるわけにはいかない。

 リディアーナは沼の魔物の一族を敵と認識した。



女王の氷華オートデバフ



 黄金の花が広範囲に降り始める。その瞬間、沼の魔物たちの動きが緩慢になる。草がしおれるように、脱力して倒れていく。そしてそうなりながらも、リディアーナにすがるように手を伸ばす。


「お助けを……」「オタスケヲ……」


 リディアーナは沼の魔物たちを見下ろした。


「――ここはこれより私の地。私に従うならば良し。それが受け入れられないのなら――」


 沼の魔物たちは低い咆哮を上げながら蠢き、手を伸ばし続ける。言葉は聞こえていない。ただ力だけを求めている。

 リディアーナは瞼を伏せた。


「ヴァルター」


 一迅の風が吹いて、沼の魔物たちはいなくなる。浮いていた水のしぶきが落ちて、水面と地面を叩く。


 水音の残響が消えたころ、リディアーナは瞼を上げた。

 既にそこには誰もおらず、緑色の沼が水面を揺らすのみだった。

 瘴気は一層濃くなったが、これもすぐに薄れていく。しばらくすればまた新たに沼の魔物が生まれるだろうが。


 リディアーナは日傘の先を地面に当てた。


「地精霊たちよ、聞きなさい。この地を――リディアーナ・フォーデルハイドが支配する」


 名前を土地に刻む。

 これでもう他の魔物はここを住処にはできない。リディアーナが支配権を手放すか、死ぬまでは。


「さあヴァルター、花を摘みましょう」


 人間型になったヴァルターと共に白い花の群生地に戻り、麻袋を広げる。

 薬草採取をしていたときのことを思い出す。あのときの経験がこんなにすぐに役に立つなんて。


「花粉が薬になるから、零さないように慎重にね。あとは取りすぎないように。ちゃんと株を残さないと、絶滅してしまうわ」

「承知しました……」


 ヴァルターは慣れない手つきで慎重に花を摘んでいく。

 花からは澄んだ甘い香りがする。白い花弁は絹でできているかのようだ。


「きれいな花ね」

「……そうですね」


 返事はどこか曖昧だった。

 これはリディアーナの感想に同意しただけで、花を愛でる心は、彼の中ではまだ目覚めていないからだ。


 いつか美しいものを美しいと思える心の豊かさを持ってほしい――リディアーナは淡い願いを抱きながら、花を摘む。


「リディ」


 柔らかい声で名前を呼ばれ、顔を上げる。


「ああ、やはり。あなたの方が美しい」


 花とリディアーナを見比べながら、本当に幸せそうな表情で言う。


 リディアーナは心臓の音が早くなるのを感じながらも、平静を保った。


「……どこでそんな言葉の遣い方を覚えてきたの?」

「思ったままを言っただけですが?」

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