第13話 エイリスの花


 魔界を出て、モンデントの街に戻る。その頃にはすっかり夕刻となっていた。

 リディアーナはヴァルターの嗅覚を頼って、朝に出会った薬師を探す。ヴァルターが示したのは街の教会だった。


 教会の周囲は慌ただしいながらも雰囲気が暗い。中に入ると、寝かされている患者がたくさんいた。

 ほとんどが小さい子どもだ。若い女性や老人も多い。


 看病をしている人の中からあの薬師の女性を見つけて、リディアーナはそっと声をかける。


「こんばんは。少しいいですか」

「あなたたちは……」


 振り返った顔は疲労の色が濃かった。休まずに看病し続けているのだろう。このままでは薬師の方が先に倒れてしまう。

 リディアーナは薬師を教会の裏手に連れ出し、ヴァルターに麻袋を広げさせた。中にはエイリスの花がいっぱいに詰まっている。

 薄闇の中で、花は白く輝いていた。


「まあ、これは……なんていい匂いなんでしょう」

「これはエイリスの花です。この花をお湯で煮て、薬湯を患者に飲ませてあげてください」


 薬師は驚いたように顔を上げる。その瞳には一条の光が宿っていた。希望の光が。


「私の住んでいた地域では、この花の薬湯を飲んで黒風邪を治していました。きっと効くはずです」


 エイリスの花には瘴気を浄化する力がある。

 体内の瘴気が浄化されれば、必ず快方に向かっていく。


 リディアーナも協力して、さっそく教会内で湯を沸かし、薬湯をつくる。まずは自分たちで試し、危険がないことを確認してから、重症の子どもたちに、少し冷ました薬湯を飲ませた。


 効果が表れるのは早かった。飲んですぐに苦しそうな呼吸が落ち着き、熱が下がり始め、顔色が良くなっていく。


「ああ……神様……」


 薬師の女性も、他の看病をしていた人々も、驚きと喜びの声を上げて神に祈った。

 薬湯はまだたくさんある。それを全員に飲ませていく。教会内の暗い空気は鳴りを潜め、やわらかくあたたかいものに変わっていく。

 このまま一晩様子を見て、明日になれば皆、家に帰ることができるはずだ。


 黒風邪終息の兆しが見えたことを確認し、リディアーナは再び薬師を教会の裏手に連れ出した。


「あなたたちにはなんてお礼をしたらいいのか……」

「当然のことをしただけです。でも、ひとつ、お願いをしてもいいですか」

「何なりと言ってください」

「それではこれを。エイリスの花の苗です」


 いっしょに持って帰ってきた、土がついた苗を薬師に渡す。


「いつまた黒風邪が蔓延するかわかりません。この花をこの地で育ててもらえますか?」

「……ここまでしていただけるなんて……」


 薬師は涙をとめどなく流しながら、震える手で苗を受け取る。


「せめてお名前を……」

「名乗るほどのものではありません。あなたもゆっくり休んでくださいね」



◆ ◆ ◆



 夜でも空いていた宿で二人部屋を取れたので、リディアーナはヴァルターと共に宿屋で休む。


「やっとゆっくり休めるわね……ヴァルターも今日はお疲れ様」


 リディアーナは荷物を置きながら、部屋の中を見る。出口近くの壁に鏡がついていることに気づき、鏡の前に行く。


「…………」


 リディアーナは鏡の前で、笑ってみた。

 エリカやフィオ、薬師の女性の、それぞれの素敵な笑顔を思い出しながら。

 だが鏡に映るのはぎこちなく口端を上げただけの、不格好な笑顔だ。


(表情筋が死んでいる……)


 リディアーナがため息をつくと、ヴァルターが不思議そうな顔をする。ティーセットでリディアーナが好きなハーブティーを淹れながら。


「いかがなされましたか」

「笑顔の練習……でもやっぱりうまくいかないわ。笑顔がぎこちなさすぎる……」

「そのようには思いませんが――どうぞ」


 淹れたばかりのハーブティーがリディアーナに出される。

 ヴァルターはすでにリディアーナの好みを熟知している。温度も濃さも、甘さの引き出し方も。そんな彼の淹れるお茶は完璧だった。


「ああ、やはり。リディの微笑みは花が咲くようです。鏡の前でうまくできないことは些事でしょう」

「そう? 私、うまく笑えている?」

「ええ、いつも」


 ヴァルターの声にも表情にも、世辞や気遣いは見えない。当然のようにリディアーナを肯定する。


(自然に浮かぶ表情がちゃんと笑えているのなら、無理に練習する必要はないかしら……ううん。練習は必要よ。自然にこぼれる笑みはまだしも、笑うべき場面で不自然な笑顔になったら大変よ)


 屋敷にいたころはまったく気にしていなかったことだ。見せるための表情など。


 ――あの頃は何を考えて生きていただろうと、いまとなって思う。

 母の仇を取ることだけを考えて、魔物を倒す魔術の練習をすることだけを考えて――もちろんほかの教育も受けていたけれども――父親からすればさぞかし不気味だっただろう。


 無表情で、感情を見せず、魔術に傾倒する娘なんて。


「…………」


 思い出すのは苦い日々ばかりだ。


「淹れなおしましょう」


 お茶が冷めたから顔をしかめたと思ったのか、ヴァルターが新しいお茶を淹れてリディアーナに渡す。


(――甘い……)


 新しいお茶を飲んで、リディアーナはほっと息をついた。

 ヴァルターはどうしてこんなに気が利くのだろうかと思いながら。



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