第16話 魔界の冷気


 月明かりの下、フェンリルが魔王城の玉座の間から外に出る。壁を落ちるように走り抜け、城壁を飛び越え、荒野に降りる。


 その背後では先ほどまで健在だった魔王城が崩壊を始めていた。


 リディアーナはフェンリルの背に乗ったまま、崩れていく魔王城を眺める。立派な城は単なる瓦礫の山に変わっていく。元々の姿に。


 魔王城についてはこれで一安心だ。

 そして新しい問題がひとつ。フェンリル――ヴァルターの不機嫌さがまだ伝わってきていることだ。

 彼は主の判断に異は唱えないが、明らかに嫌がっていた。新しい従魔が増えたことを。


(しばらくは仕方ないわね)


 ヴァルターだけに頼っている現状は、長期的にはよくない。

 他に勢力や世界を広げていかないと、いつか行き詰りそうな気がする。

 ここでヴァルターにおもねって方針を変えることが一番よくない。あくまで毅然としておかなければ。主にふさわしい態度で。


 あっという間に街まで戻り、街を囲む壁を飛び越えて街の中へ。ヴァルターは空中でフェンリルの姿から人間の姿に変わり、リディアーナを抱きかかえて人気のない場所に着地する。

 そのままこっそりと宿屋に戻り、部屋に入ったリディアーナはベッドに横たわった。


 ――疲れた。


 昨日は魔界にエイリスの花を摘みに行き、今日は魔界の近くにまでいって魔王城を潰した。

 どちらも依頼を受けてでの仕事ではないので、報酬は当然もらえない。つまり金銭が貯まらない。この宿にもいつまで泊まれるだろうか。


 ヴァルターは無言でリディアーナのブーツを脱がして足を拭いている。

 機嫌が悪くても身の回りの世話は焼くのだから、真面目なことだとリディアーナは思った。


(……いつになったら機嫌を直してくれるのかしら)


 ぼんやりと思い、自分の身勝手さに呆れる。機嫌を損ねたのは自分だというのに。


(ああ、ダメだわ。毅然としていないと)


 主として気を強く持とうとしたが、どうにも身体に力が入らない。リディアーナはそのままベッドに倒れ伏した。

 身体が芯から震えている。


 ――寒い。


「リディ?!」


 ヴァルターが焦った声を出す。


「な、なんでもないわ。ちょっと疲れただけ……」


 もしかして黒風邪ではないかと疑ったが、エイリスの花の薬湯はリディアーナも飲んでいる。瘴気あたりではなく、単なる疲れだろう。


 それにしても、寒い。

 寒い。寒い。寒い。心臓から、指先から、凍り始めているかのように。


「呆れたー。フェンリルにはこーんな簡単なこともわかんないの?」


 そう言ったのはリディアーナの影――腹の下から出てきた猫、ミルルリカだった。


「マスターは魔界の冷気でやられたのよ。マスターは貴き魂を持っているけれど、身体は人間だもの。このままだと凍えて死んで、命の火も消えてしまうわ」


 ――死。


(《氷の魔女》が凍えて死ぬなんて……笑い話にしかならないわ)


 呼吸するごとに体温が奪われていく。

 このままでは遠からず、すべての体温を失って死んでしまうだろう。


(死にたくない……)


 すぐそばにまでやってきている死の気配に反抗しようとするが、その意志さえ少しずつ凍り付いていっている。死への恐怖が麻痺していく。


「言え。どうすれば治る」


 ヴァルターがミルルリカの首をつかむ。


「こ、怖い怖い……! に、人間はこーいうとき、ハイポーションを飲んでるみたい」

「ハイポーション……」


 それはとても高価な薬の名だ。オリゼンの街で売っているところを見たことはあるが、とても手の届く金額ではなかった。


「リディ、しばしご辛抱を。すぐにお持ちします」

「ま、待ちなさい。そんなお金はないはずよ」


 リディアーナは必死になって止めた。ヴァルターから預かっている金銭では、ハイポーションを買うのにはとても足りない。


「ご心配なく」

「心配しかないわよ……いい? 人を傷つけてはダメ。盗んでもダメ。奪ってはダメ。これぐらい気合いで治るから」

「強がりもいい加減にしてください! いまのあなたは脆弱な人間だ。簡単に死んでしまう。俺はあなたを絶対に死なせません」


 ヴァルターの目を見てぞっとした。これはどんな手段を使っても奪ってくる。魔狼であるヴァルターに、人間に対する罪悪感はない。


「それでも、人間社会のルールを破ってはいけないの。ルールを破ったものは罰を受け、排除されるのよ」

「どんな罪を犯そうとあなたを死なせはしない。どんな罰を受けようとあなたを諦めたりはしない」


 リディアーナは愕然とした。命令をまったく聞く気がないなんて。


「――ミーちゃん、ヴァルターを止めて……」

「むりむりむり~~!」


 ミルルリカの引きつった叫びを聞きながら、リディアーナは寒さで気を失った。



◆ ◆ ◆



 神の食べ物アンブロシア。

 神の飲み物ネクタル。

 それらはとても甘く芳醇な香りを持ち、口にするたびに完璧に近づいていくという。完璧な美、完璧な強さ、完璧な精神に。


 いまリディアーナの口を満たすのは、アンブロシアかネクタルか。甘さと熱に酔いながら、口に流れ込んでくるものに舌を絡めて啜り、飲み下していく。


 朦朧としながら瞼を開くと、微笑みを讃えた女性が目の前にいた。――薬師の女性だった。


「よかった。全部飲めたわね」

「これは……?」

「ハイポーションよ」


 ――これがハイポーション。なんて甘美な……


「彼が私の家に来たのよ。あなたを助けるためにハイポーションを譲ってほしいと」


 薬師は薬瓶を片づけながら、やさしい声で言う。


(ヴァルターが……?)


 ヴァルターの姿を探す。彼は薬師の後ろで心配そうにリディアーナの様子を見ていた。


「恩を少しでも返せてよかったわ」


 ヴァルターがリディアーナのために、薬師の女性に――人間に頭を下げて頼んだ。

 そのことに驚き、感激し、涙が出そうになった。


「もう大丈夫そうね。それでは、私はこれで」

「ありがとうございました……こんな夜中に……お代は必ずお支払いしますので……」

「気にしないで。もう領主様からも頂いているわ」

「領主様……?」


 寝ていた身体を起こし、帰り支度をする薬師の背中を見送る。開かれたドアの向こう側には、老紳士が立っていた。


 真っ白な髪。やさしげな目元。まっすぐな背中。

 老齢にしてはずいぶん若々しい印象だった。


「領主様、黒風邪の薬を持ってきてくれたのはこの方々ですわ」

「ありがとうございます。それではお気をつけて」


 老紳士の傍にいた兵士が薬師の後ろについていく。護衛のためだろう。


 老紳士は部屋には入らず、外からリディアーナに向けて軽く頭を下げた。


「お久しぶりです。リディアーナ・フォーデルハイド様。レティシア様に瓜二つですな」


 リディアーナの本名と母の名前を懐かしそうに口にした老紳士は、リディアーナに向かって頭を垂れる。


「私はルギウス・バルトロイ。辺境伯を任ぜられています」


 絵姿すら見たことのない結婚相手が、そこにいた。


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