第23話 女王の氷華


 リディアーナは二人だけでごくささやかな結婚式を挙げるつもりだった。けじめとしての、儀式としての結婚式を。


 だがルギウス・バルトロイ辺境伯がそれを許さなかった。ヴァルターを養子にして後継者にするお披露目も兼ねているため、結婚式は盛大に行われることとなる。


 結婚式は二十日後。そしてもはや辺境全土を上げてのお祭り騒ぎになっていた。


 ウエディングドレスはリディアーナが辺境伯の屋敷に到着した時点から用意が始まっていた。――正確には王命で婚姻が決まったその時点からだが。


(そういえば、私はここに嫁ぎに来たのだった……)


 ドレスのサイズ合わせに付き合いながら、リディアーナはぼんやりと思う。


 ルギウス・バルトロイ辺境伯とリディアーナ・フォーデルハイドとの結婚式のために用意されていた白いドレスが、リディアーナ用に細かく手直しされていく。


「……本当にこれでいいのかしら」


 部屋に一人になったリディアーナは、窓から外の景色を眺める。小高い丘の上に立つ辺境伯邸からは、街の姿がよく見えた。


 結婚式の準備は滞りなく進んでいく。もの凄い速さで。リディアーナの戸惑いなど、川底を流れる小石に過ぎない。


「マリッジブルーね。よくあることみたいよ」


 猫のミルルリカが言う。


「そう。よくあることなのね」

「それに結婚は勢いらしいわ。この勢いに乗ったまま一気に攻め込んでしまいましょう」

「まるで戦闘のようね。確かに、冷静になってしまったらできないわ」


 ミルルリカは人間の心情にも詳しいので頼もしい。感受性のかなり強い魔族のようだ。


「それにしても、フェンリルと人間が番うなんて。まるで神話のようだわ」

「形式的なことだけれどね」


 だが人間社会ではその形式が大切なのだ。


「私はヴァルターのことを全然理解できていないし、番いと言うのはおこがましいわ」

「あれほどわかりやすいやつはいないわよ! マスターのことしか考えていないじゃない! マスターに捨てられないように必死になっているだけの、図体がでかいだけの可愛い子犬よ!」


 ミルルリカの姿が消え、部屋のドアがノックされる。


「――リディアーナ」


 部屋の外から名前を呼ばれ、「どうぞ」と返す。

 ドアを開けたのはカインだった。不思議そうな表情で室内を見て。


「……誰かいたのか?」

「ひとりごとです」

「お前はひとりごとが多いな……」


 呆れて言う。

 カインはそのまま部屋の外に立ち、中に入ろうとはしなかった。一線引いた場所からリディアーナを見ている。


「カイン様? いかがなさいましたか」

「……おれはまだ諦めていないからな」


 ぽつりと呟く。辺境伯の後継者の座のことだろう。


「嘘が形式上本当になっただけで、真実じゃない」

「カイン様……?」

「だが、勝負は勝負だ。当分はお前たちの補佐に徹してやる」

「それはとても心強いです」


 ――正直、いまでも実感がなかった。ヴァルターとともに辺境を治めていくなんて。バルトロイ辺境伯の考え方はいまでもよくわからない。


 リディアーナは窓の外を眺める。平和な光景を。


「私、失礼ながらアルベルクの街はもっと慌ただしいと思っていました」

「確かにここのところは平和だな。平和すぎるほどだ。偶然だろうが、お前たちが来てから魔物の襲撃は格段に減った」


 その理由にリディアーナは心当たりがあった。

 ヴァルターが周囲の魔物を毎晩掃除しているからだ。

 それと、リディアーナの権能――敵を弱体化刺せる力が発動しているため、弱い魔物は近づいてこないのかもしれない。


「黒風邪も流行のきざしだけで収束したし、今年は収穫量も増えそうだ」

「それはよかったです」

「……ああ、良いことしか起きていない」


 それは喜ばしいことのはずなのに、カインは警戒し続けている。緩みそうなときこそ引き締めているのだろう。豪胆なようでいて繊細だった。


「――カイン様。魔物の襲撃が減っているのなら、こちらから攻めていくことはできないのでしょうか」

「……何を言っている?」

「人間の生存領域を取り戻すことはできないのでしょうか」


 人間は魔族にずっと押されるばかりだった。魔界化した土地を取り戻すことができるなら、もっと住みやすい土地になるのではないか。

 魔族の報復はいまは考えにくい。

 いま魔王は不在だ。指揮官がいない状態では組織だって攻めてくることもないのだろう。


「……とんでもないやつだな、お前は」


 カインはおかしそうに言って、ドアを閉めて去っていった。



◆ ◆ ◆



「ねえヴァルター」

「いかがなさいましたか」

「この地に接している魔族の土地を、私のものにしてしまおうと思うの」


 カインとの会話の中での思いつきを、影にいるヴァルターに話す。


「そうすれば魔界化を食い止められる――さらには押し戻せるはずよ」

「リディが望むのなら」

「なら、早速試してみましょう」


 バルトロイ辺境伯に外出することと、ちょっとした頼みごとを伝え、リディアーナは外に出る。

 人目につかないところまで移動してから、辺境都市アルベルクの壁を超える。フェンリルの姿となったヴァルターの背に乗って。


 ヴァルターが本気で走れば、追いつくことはもちろん、その姿を捉えることさえ困難だ。


 リディアーナは魔族の領域に向かって走るフェンリルに座りながら、日傘を広げる。

 どれだけスピードが出ていてもフェンリルは絶対にリディアーナを落とさないし、吹き付ける風もリディアーナにはそよ風程度しか感じない。


「もうすぐ魔界との境です。冷気にはお気をつけください」

「だいじょうぶよ。ハイポーションも持ってきているし。バルトロイ様に頼んだら、快く貸してくださったわ」


 ハイポーションの入った瓶を服の上から押さえる。バルトロイ辺境伯は深くは聞かずにリディアーナにこれを貸してくれた。


 空の色が赤黒く染まっていき、草原が荒野に変わっていく。魔界との境界は荒野と化す。元の草木は枯れて、魔界の草木が生え始める。


 青と赤が混ざる暗い空の下、リディアーナは境界の地に降りた。この付近の土地はどこの魔族のものだろう。もしかしたらもういないのかもしれない。主の気配を感じない。もうヴァルターに倒されたのか。


 主が不在ならやることは簡単だ。

 早速土地の所有宣言をしようとしたとき、くしゃみが零れる。魔界からの風は相変わらず寒い。もう初夏だというのに。


 ふわりと、白銀の毛皮が背後からリディアーナをあたためてくれた。

 リディアーナは微笑み、双眸を大きく開いて大地に日傘の先を置いた。


「――地精霊たちよ、聞きなさい。この地を――リディアーナ・フォーデルハイドが支配する」


 名前を土地に刻む。

 その瞬間、空の様子が変わる。赤に覆い尽くされようとしていた空に、青い部分が広がっていく。周囲の気温がわずかに上がる。


(やっぱり――)


 人間であるリディアーナが土地の所有宣言をしたから、魔界がわずかに押し戻された。そしてリディアーナは気づいた。魔界側の方で影の魔物たちがざわつきながらこちらを見ているのを。



女王の氷華オートデバフ



 リディアーナの権能がかたちになったものが空から降ってくると、魔物たちは急いで逃げていく。だが逃がさない。魔物が逃げる速度よりも、リディアーナの領土が広がっていく速度よりも、花びらの範囲が拡大する方が速かった。


 花びらに触れた弱い魔物たちは、その場で霧散する。


「なんだか……いつもよりたくさん降っているわね」


 広がっていく青い空を見上げる。そこから降る黄金の花弁の密度も大きさも、普段よりも増していた。


「土地を得て、リディの力が高まっているのです」


 降り積もっていく黄金の花を眺めながら、一つ妙案が浮かんだ。


「この花を永続させられないかしら」


 リディアーナが去ったあとも花が存在して弱体化を撒き散らしてくれれば、魔族もきっと近づかなくなる。

 リディアーナは手を伸ばし、手のひらの上に落ちてきた花弁に魔力を込めた。


「悠久の氷よ――この花に、永遠の輝きを約束せよ――」


 氷魔法で黄金の花弁を凍らせる。永久に溶けることのないように。

 花の色が変わる。黄金から、光を帯びた白に。

 氷の花が地表に降り積もっていく。


(弱体対象は、人間に敵意を持つ魔族全般――このまま溶けなければ、永続的な結界ができる)


 魔族が近づかなくなる結界が。

 そしてこれからも結界を広げていけば、辺境での魔族による被害は抑えられていくかもしれない。

 そうすればもっと平和になる。


 全員が幸せになれる未来を思い描き、リディアーナは微笑んだ。


「さすがです、リディ。あなたの権能は本当に恐ろしく、美しい」


 ヴァルターは陶酔したように言う。


「ありがとう。さあヴァルター、帰りましょう」


 無理はしない。風邪を引かないためにも、計画は少しずつ進めていくことにした。


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