第18話 朝のバラ園


 モンデントの街から辺境伯の屋敷のある辺境都市アルベルクまでは馬車で丸一日。

 到着したのは夜遅くだった。夜も遅いため話はまた明日にということで、リディアーナは用意されていた部屋に通された。専属メイドたちに身の回りの世話と着替えもさせてもらう。


 夜着も小物も、使用人も、リディアーナのために用意されていたものだった。

 リディアーナは元からここに身ひとつで嫁ぐ予定だったのだ。花嫁のためにあらゆるものが準備されていて当然だった。


 広い部屋、高価な家具、清潔なリネン、大きなベッド。

 ひとりになって、リディアーナは懐かしさと寂しさを覚える。王都の伯爵家と雰囲気がよく似た部屋だった。だが、宿屋の狭い部屋に慣れていたリディアーナには広すぎる。


 ヴァルターには客間が用意されて、ミルルリカはリディアーナの影にいる。


「……ヴァルター」

「はい」


 うわごとのように名前を呼べば、当然のように声が返ってくる。そのことに安心する。姿は見えないが、ヴァルターはリディアーナの影にいる。

 ヴァルターに頼めば、あっという間にこの屋敷から連れ出してくれるだろう。ここではないどこかへ。


 だが、それはしない。できない。この屋敷は、この部屋は、居心地がいいとは言えないが、外で眠るのはやはり怖い。


「おやすみなさい」

「ええ、良い夢を」


 リディアーナは眠りについた。



◆ ◆ ◆



 ――翌朝。


 少し年上の専属メイドに着替えさせられて、リディアーナはバラ園に面したテラスに案内される。赤に黄色、ピンク、白――色とりどりのバラが咲き乱れる中に、花がら摘みをしているルギウス・バルトロイ辺境伯の姿があった。


「おはようございます、リディアーナ様」

「おはようございます、バルトロイ様」


 ドレスのスカートをつまんで、頭を下げて挨拶をする。

 テラスのテーブルに朝食が用意されていた。柔らかい焼き立てのパンに、あたたかいオムレツ、しっかりと出汁の取ってあるスープ、新鮮な果物の数々。ミルクにハチミツにバター。


 バルトロイ辺境伯と向かい合って贅沢な朝食を食べながら、リディアーナはバラ園を眺めた。

 清廉で瑞々しい香りが漂ってくる。


「見事なバラ園ですね」

「妻が好きだったもので」


 少し照れたように言う。亡き妻の愛したバラ園をいまも手入れして守っている――なんて素敵なんだろうと思った。

 そして思い出す。王都のフォーデルハイド伯爵家にもバラ園があったことを。母が愛していたその場所が、リディアーナも好きだった。バラ園はいつも庭師によって美しく保たれていた。


 美しさと懐かしさに胸が満たされていたそのとき、ふっと雰囲気が変わる。使用人に連れられてテラスに新しい人物がやってくる。貴族の服に身を包み、銀色の髪を整えた青年――ヴァルターが。


 リディアーナは目を見張った。あのヴァルターが完璧な貴公子になっている。

 貴公子のような冒険者から、どこか野性味のある貴公子に。

 黙って立っていれば誰も冒険者だとは――中身が魔族だとは――フェンリルだとは――思いもしないだろう。


 ヴァルターは無言のまま、当然のようにリディアーナの後ろに回り、立つ。一介の護衛のように。背後を守る気配に安心し、リディアーナの緊張が少し緩んだ。


「ヴァルター殿もいかがですか」

「結構です」


 ――ヴァルターは人間の食べ物を必要としない。下位の魔物は死肉を好むが、高位魔族は食事を取らない。高位魔族は誕生した時点ですでに完成されている。食事も睡眠も必要としない。

 バルトロイ辺境伯は気を害した様子もなく、食事を続ける。


「リディアーナ様、お口に会いますか」

「はい。とてもおいしいです。このような食事は久しぶりです」

「いままでご苦労が多かったでしょう」


 バルトロイ辺境伯の気遣いに、リディアーナは曖昧に笑って答えた。


「ありがとうございます。でもヴァルターがいてくれたので、そこまでは……」


 出会ったときは殺されかけたとはいえ、ヴァルターがいなければもっと苦労が多かっただろう。リディアーナは世間知らずで、自分の身の回りのこともほとんどできなかった。エリカやフィオにも多くの迷惑をかけてしまっていただろう。


「私は運がよかったのです。皆様に助けられていなければ、とっくに……バルトロイ様もありがとうございます。ハイポーションのお礼は必ずいたします」

「それこそ気になさらないでください。リディアーナ様は王国の宝。あなたをお守りすることができて本当によかった」


 バルトロイ辺境伯の言葉にはあたたかみしかない。

 リディアーナは迷った。彼に本当のことを話すべきか。

 辺境への移動中に護衛団に捨てられたことを。ご丁寧に銀貨まで供えられて、魔物寄せの香木を焚かれたことを。


 リディアーナは話せなかった。いまはまだその事実は口に重く、いまはまだ辺境伯を信頼しきれていなかった。


「……バルトロイ様にお聞きしたかったのですが、どうして嫁入り道具を持ち込まないようにおっしゃられたのですか」

「王都からの荷には、王都の魔物が紛れ込んでくる可能性がございますので。リディアーナ様にはご不便をおかけしました」

「荷に、魔物が?」

「時折いるのですよ」


 ――バルトロイ辺境伯は隠れている魔が見えるという。

 リディアーナとヴァルターの正体にも勘づいている。きっと影にいるミルルリカのことも気づいているだろう。


 そしてそうやって隠れて入り込んできた魔族による被害をいくつも見てきたのだろう。


「……バルトロイ様。やはり私には、この地を治めることはできません」

「ふむ……ヴァルター殿はどうです。ここに根を下ろすつもりはありませんか?」

「…………」


 ヴァルターは何も答えない。

 ヴァルターはリディアーナに仕えることしか考えていない。人間社会の地位も身分も彼には関係ない。リディアーナが望むのならばそれに従うだけだ。

 彼に意志はない。


「旅を続けるというのは過酷なものです。安息の地をつくってあげるのも騎士の役目だとは思いませんか」


 バルトロイ辺境伯が目配せをすると、控えていた執事が剣を二本持ってくる。

 一本を辺境伯に渡し、一本をヴァルターの前に差し出す。


「ヴァルター殿、あなたに騎士の剣を教えましょう。それはいつか必ずリディアーナ様を守る力となる」

「……ヴァルター、いい機会よ。胸を貸してもらいなさい」


 リディアーナが促せば素直に剣を取る。


「リディがそれを望むなら」


 フェンリルに剣は必要ないが、人間の姿を取っているときは剣に意味がある。

 剣は力の象徴だ。持っているだけでも力がある。それを正しく振るえば、それは敵を圧倒するだけではなく、味方への鼓舞になる。

 人間社会で生きていくのなら、騎士の剣を覚えていて損はない。


 バルトロイ辺境伯は場所を移し、バラ園の前でまず剣の握り方からヴァルターに教えた。

 ヴァルターは素直にそれに従い、剣を握り、構えを取る。お手本であるバルトロイ辺境伯とまったく同じように。


「ではまずは、遊んでみましょうか」


 ヴァルターは貪欲だ。

 生まれたときから完璧な存在であるのにもかかわらず、そうと決めたら、あらゆるものを学ぼうとする。己の血肉にしようとする。その向上心は人間が使う騎士剣でも例外ではなかった。


 もちろん辺境伯の方が一枚も二枚も上手だ。

 剣術というものは腕力や体力だけで決まるものではないのだとわかる。何より呼吸、そして相手の動きを読む力、自分の意志を通す力、腕力の不足を補う技術――……


(しばらく学ばせるのもいいかもしれない……)


 最強の騎士から剣を直接学べるのだ。こんな機会はめったにない。

 このまま騎士道や騎士としての在り方を学んでくれるなら、人間への理解も深まるだろう。


 ――そう、のんびり希望的観測を抱いていたときだった。

 大きな影が上から落ちてくる。大きな風を切る音と共に。風が吹き、バラの花びらが舞う。

 顔を上げると、そこには黒い飛竜がいた。その背中には人が乗っている。


 飛竜の背から人が飛び降り、リディアーナたちの前に着地する。


「爺様! これはどういうことですか!!」


 若い男性の怒声が、朝のバラ園に響き渡った。


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