第5話 宿で一休み
馬車に乗って街道を移動し、やがてオリゼンという街に辿り着く。
街に入る直前で馬車から馬を放し、野に放つ。
「本当にいいの? 馬を放しちゃって」
「はい。馬の維持にはお金がかかるので……いまの私にはそんな余裕はないですから」
「でも、絶対いくら出しても買いたいって人がいるよ。あんな立派できれいで賢い馬」
「はい。私が買い取りたかったくらいです」
フィオが寂しそうに言い、エリカが顔を引きつらせる。
「どうやって世話するのさ……」
確かに買いたがる人間は多いだろう。だが売ることだけはできない。馬はヴァルター――リディアーナの従魔なのだ。売ったとしても人間の姿になってリディアーナの元へ戻ってくるかもしれないが、それをしたら詐欺になる。それ以前に、ヴァルターを誰かに売り渡すようなことはしたくなかった。
「それじゃ、ここからは人力でいきますか」
薬草の積まれた馬車を三人で引きながら街に入り、まずは冒険者ギルドに向かう。
王都からはもちろん、屋敷から外にすら滅多に出たことのないリディアーナにとって、目に映るすべてのものが新鮮だった。
行き交う人々の服装も、埃っぽい空気も、野良猫の姿も。
そうしているうちに冒険者ギルドに到着し、無事に薬草の納品を完了する。
「それじゃあ次はこの馬車を売りましょう。きっといい値がつきます」
「あの、この服も売って着替えたいのですが、買い取ってくれるようなお店はありますか?」
リディアーナは自分の着ているドレスに手を当てながら、ふたりに聞く。
「もちろんあるけど、本当にいいの?」
「はい。いまの私には必要のないものなので」
そうして商店に行き、馬車と一緒にドレスと宝飾品を売る約束を取り付けて、新しい服一式と着替え、日用品を買い揃えた。
母の形見の日傘だけは、杖代わりにすると決めて売らずにおいた。唯一の心のよりどころとして。
準備が整うと冒険者ギルドに戻り、冒険者登録を行う。ただのリディアとして。
「登録料は銀貨一枚だよ」
登録料にはリディアーナに供えられていた銀貨を使った。死者のための銀貨を、生きるために使うことに、何故か達成感を覚えた。
冒険者登録は問題なく終わり、パーティ申請書も提出する。
「よし! それじゃあ、いまから正式に仲間だよ。よろしくね、リディアちゃん」
「リディアさん、よろしくお願いします」
「エリカさん、フィオさん、こちらこそ未熟者ですが、精いっぱい頑張りますのでよろしくお願いします」
「よーし、それじゃあまず歓迎会だー!」
二人の行きつけの食堂へ行き、テーブルいっぱいの料理を注文する。二人はシードルで、リディアーナはジュースで乾杯する。
リディアーナはそこで食堂での注文の仕方と、冒険者流の食べ方のマナーを覚える。とにかくたくさん食べることが生き残るための秘訣らしい。
食事後は宿屋での部屋の取り方を教えてもらい、今日はここで休むことにする。エリカとフィオは街の外れに二人で小さな家を借りているらしく、そこへ戻っていった。
個室でひとりとなったリディアーナは、ベッドに座り一息ついた。小さく粗末なベッドだが、馬車の中よりも心地が良かった。
部屋もいままで暮らしてきた伯爵家のクローゼットよりも狭いが、いままでよりもずっと楽に息ができた。
窓に映るのは、いままでの自分とまったく違う自分だ。伯爵令嬢リディアーナ・フォーデルハイドではない。ただのリディア。駆け出し冒険者のリディア。
髪飾りは必要最小限だけになり、服はドレスから冒険者用の頑丈なものに。コルセットは防具にもなるのでつけたままだが、かなり緩めた。
その姿を見ていると、何もかも夢だったのではないかと思える。いままでの生活こそが――夢。
「ヴァルター」
戯れに、名前を呼んでみる。沈黙だけが応えることを期待して。
リディアーナの足元の影が揺らめく。
「お呼びですか、リディ」
影の中から銀髪の美しい青年が現れる。優雅な微笑みをたたえながら。
(夢ではないのね)
何もかも。
「なんでもないわ。ヴァルターもゆっくり休んで。疲れたでしょう」
馬の姿になって馬車を引くなんて、魔族だとしてもきっと疲れる。
「では」
ヴァルターはリディアーナの部屋から出ていく。そこは律儀にドアから出ていくのかと感心しながら見送る。自分もゆっくり休もうと靴を脱いでいると、湯の入った桶を持ったヴァルターが戻ってきた。
何をするつもりなのだろうかと黙って見ていると、ヴァルターは桶をリディアーナの足元に置く。
「人間の身体は脆い。労わらなければなりません。失礼します」
言ってリディアーナの足を手に取り、桶につけて洗い始める。汚れを落とし、疲れを落とすように優しくマッサージしながら。
「ありがとう、ヴァルター。気持ちいいわ」
少し歩いただけで足が疲れてしまっているのは事実だ。献身に感謝しながらすべてを任せる。
「……こうしてまたあなたに触れられるとは」
ヴァルターは嬉しそうにリディアーナの足を労わる。殺しにきた時とは完全に別人の表情だ。人間の肉体を脆弱と言って怒っていたあのときとは。
(あなたと比べれば、あらゆる生き物は脆弱でしょうに)
昔の《氷の魔女》もヴァルターに比べれば脆弱だった。なのにどうしてこんなに懐いているのかわからない。
思い返せば、最初に会ったときからフェンリルは《氷の魔女》に牙を向けることも爪を立てることもなかった。《氷の魔女》がフェンリルに解放を約束し、鎖を外した時も、自ら頭を垂れていた。
そして《氷の魔女》はフェンリルに己の従魔になるかと持ちかけ、フェンリルはそれを受け入れ、ヴァルターの名前と共に従魔契約を果たした。
自分のどこがよかったかなんて――主の側から聞けるわけがない。リディアーナは疑問を胸の中に押し込んだ。
「ねえヴァルター、私を殺したのは誰なの」
リディアーナは《氷の魔女》が死んだときの記憶はない。
問うと、ヴァルターはリディアーナの足先を見たまま答える。
「わかりません。その場にいたものは全員殺してしまいましたので」
「…………」
――そうしなければいられないほどの衝撃だったのだろう。
リディアーナはそっと手を伸ばし、ヴァルターの頭を撫でた。銀色の髪は柔らかく、触り心地がいい。昔と変わらない感触だった。
(ということは、その場で殺された魔族たちの中にも、私と同じように転生して記憶を取り戻しているものもいるかもしれない)
頭を撫でながら考える。
(ヴァルターと、主であった私に復讐しようとするかもしれない)
もしそんな連中がリディアーナを狙ってきたら、いまのリディアーナでは荷が重い。いまのリディアーナは、少し魔法が使えるだけの人間だ。
「……ヴァルターはそのときからいままで、何をしていたの」
「ずっとあなたを探していました。我が君の魂を」
「……そう」
一体どれだけの時間をそうやって過ごしていたのか。そうして見つかったのがすべて忘れていたリディアーナなのだから、ヴァルターの落胆は大きかっただろう。
「まさか人に転生しているとは思わず、時間を要してしまい……面目ございません」
謝ってほしいところはそこではないが。
再会してすぐに殺そうとしてきたところだが、主なので黙っておく。
「いいのよ。私も、人間に生まれ変わるとは思わなかったわ。それに、昔のことはずっと忘れていたもの」
魔女同士でかけあった、記憶封印の魔法で。
(ふたりの魔法も解けている可能性はあるのよね……)
再会したらどうしよう。しらばっくれよう。
ぼんやりと考えながら、ヴァルターの頭から手を離す。ヴァルターが顔を上げた。目をきらきらと輝かせて。
「リディ、魔族の王にならないのなら、人の王になられるのですか?」
「なりません」
きっぱりと言う。
「人の王になるのは、そんなに簡単なことではないわ。王を殺せば次の王様になれるわけではないの」
きちんと教えておく。そうしておかないと、明日にでもどこかの王の首を笑顔で持ってきそうだ。
魔族は力こそがすべてだが、人間はそうもいかない。血筋、後ろ盾、本人の資質。少なくともその二つは必要だ。民のいない、国も持たない王ならば宣言するだけでなれるが、ヴァルターの望むものはそんなものではないだろう。
(私も、一歩間違えれば王太子妃……そしていずれは王妃になっていたのよね……)
いま思えば恐ろしいことだ。
そしてリディアーナの母は王女だった。リディアーナにも王家の血が流れている。王になる資格がまったくないわけではない。恐ろしいことだ。
「なるほど。人の王などではなく、世界の王になると――」
「言っていません。ヴァルター、そんなに王に仕えたいのなら、どこにでも行っていいのよ」
「申し訳ございません! 出過ぎた真似を!」
ヴァルターはしゅんと小さくなる。いつの間にか飛び出していた耳と尾もうなだれている。
「人の世の王は、力がすべてではないのよ。それに、私ひとりの力では王にはなれないわ」
魔王となったときも、他のふたりの魔女がいてこそだった。三人の魔女で力を合わせてようやく一人の魔王なのだ。
「ならば俺が」
「ヴァルターが、なに?」
「俺がリディを玉座へお連れしましょう」
無邪気な笑顔にほだされそうになる。
リディアーナはぐっと息を飲み込んで、威厳を保とうとした。
「私の当面の夢は、玉座よりも安定した生活よ」
「金貨が必要ならばお持ちします」
「どこから?」
「何処からでも」
この雰囲気なら、本当にあるところから持ってくる。どこかの商人や貴族の金庫からでも。
「ヴァルター」
「はい」
「いまのあなたに必要なのは、人間社会の常識よ。私の従魔ならば、まずはそこから学びなさい!」
「はい!」
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