西暦2059年4月15日(火) 00:56

 思い出はずっとそこにある。

 ずっと側に居てくれる。

 大切な人とのいい思い出。

 それこそが、困難を乗り越えようとする時、己を支えてくれる心の杖だ。


 目を瞑れば、いのりはいつだって思い出せる。

 支えてくれる、思い出の日を。

 友と過ごした、想い出の日々を。






 もうそろそろ卒業か、という季節になった頃。


 誰も来ない屋上で、車椅子の少女と、眼鏡の彼女は、いつものように一緒に昼食を取っていた。


「へぇ。すーちゃんVliverになること決めたんだ。まあ昔からずっとそんな気配はあったもんねぇ。……許しませんよ! 配信者なんて収入が安定しないお仕事! もし人気が全然出なくて辞めるしかなくなったらそこから再就職どうするの!」


「にゃっちゃん急にお母さんになるじゃん~」


 2人の間にある友情は、互いの進路に気軽に口出しをして、それを不快に思わないような距離感を作り上げていた。


「お母さんになりもするわよ。顔良し乳良し頭良し。何だってできそうだし何にだってなれそうだと思ってた子が、人生大博打に出ようってんだからね。応援しながら心配しますとも」


 応援はしてくれるんだなぁ、と少女は微笑む。


 その手先が、車椅子の上の足に伸び。


「あはは~。でもね~」


 自信無き手先が、自身の足をなぞる。


「こんな足だよ~。何にでもはなれないよ~」


 自信ある言葉が、眼鏡の彼女の口より奔る。


「その足でもだよ」


 その言葉は明らかに事実ではなく、体が不自由な女の子は明らかに将来の選択肢が少ない。なりたいものになれないこともある身体であり、未来の選択肢が少なくなって当然の身の上だ。


 それでも、残酷な事実をただ述べるより、友情から生ずる未来の可能性への信頼を述べる方に、強く強く暖かな気持ちを感じられることはある。


 友がそう言っている。

 友がそう励ましている。

 友が信じてくれている。

 然らば、何を言っているかではなく、誰が言っているかによって、その言葉に宿る価値がある。


「……ありがと~」


「ポシビリティ・デュエルはやらないの? 憧れの人がやってる競技をやりたがるかとも思ってたんだけど」


「興味はあります~」


「興味しか無いんだねえ」


 眼鏡の彼女は、売店で買ったコーラを飲んだ。


「試合を見るのは~好きなんだけど~。どっちかというと~、YOSHIがしてる綺麗な体の動かし方を見るために試合見てたから~。実はゲームのルールすら全然分かんないんだ~」


「その辺の無知無知プリン現象は5000兆回説明されたからもう完璧に分かるわ、分かっちゃうわお姉さん。受動喫煙だけで教授になった気分よー」


「ふふふ~」


「YOSHIのこと好きすぎでしょ。PDルールは一切知らない完全初心者なのに、PDでトップクラスに強い人の立ち回りは覚えてて、強い人達の駆け引きは覚えてるって、なんとも不思議なスタイルの摂取よね……すーちゃん……」


 曖昧な笑顔で、少女は返答を考える。


「あのね~。なんかちょっとね~。YOSHIが綺麗で~。他の人もそれほどじゃないけど雲の上の人達で~、とっても体を動かすのが上手くて~。わたしが同じ競技始めるのは~、身の程行方不明みたいな~、恥ずかしいみたいな~、だから当分はポシビリティ・デュエルをやる予定はないのです~」


「最初からトッププロの試合ばっか見てたらそうもなろうよ! だからお母さん言ったでしょ! 初心者は初心者と遊ぶところから始めなさいって!」


「にゃっちゃんから生まれた覚えはない~」


「あたしも結婚した覚えねーわ。っていうか彼氏も居た覚えがないわね。伴侶無きままにたった1人で完結した究極の生命体……」


「作れば~?」


「彼氏ChatAIで?」


「か、会話で……」


 多少の忌避感程度の、どこか信仰のような、競技に対する気持ち。プロに対する野球評論から野球に入った10代の若者が、プロに好き勝手言った後、逆に自分で野球をプレイすることを避けてしまうような気持ちの動き。既知が挑戦を阻害する現象。それを理由に、少女はポシビリティ・デュエルを始めていなかった。


 彼女が『やったことがない初心者』であるのは間違いない。

 ただ、それは正確な表現ではない。

 『やらないようにしていた初心者』こそが、彼女なのだ。


 いつか彼と再会する日まで、彼女はずっと、で在り続ける。

 ある種の必然として。


「Vliverになりたいってのは……まあ、この辺ちょっと踏み込んで良いのか分かんないけど……」


「いいよ~」


「……自分の容姿を隠して生きていく方法を探す、みないな解釈でいいの?」


「……うん~」


 少女は、曖昧な笑みで頷いた。


「男の人はまだ怖い?」


「……そうだね~」


 少女は、曖昧に苦笑した。


「世界が、自分を見る人が、まだちょっと怖い?」


「……ちょっとは、治ってきたよ~」


 眼鏡の彼女は、車椅子の少女に見えない角度で、服の裾をぎゅっと握った。


「それでも、頑張っていくんだね」


「そうしたいからね~」


「いいじゃん」


 たった5文字に、眼鏡の彼女は万感の想いを込める。


 万感の想いの中で一際目立つのは、友に対する親しみとよく混ざった尊敬だった。


「あのね~。最近わかってきたんだ~。『自分を試す』ってどういうことなのか~」


「ああ……愛しの彼の口癖なんだっけ」


 む、と車椅子の少女の表情が変わる。

 思春期真っ只中の少女は、少し面倒臭かった。


「そういう不純な感情ではないです~。もっと純度の高い尊敬です~。わかって~」


「はいはい。で、何? 自分を試すのがどうとかって」


 こほん、と車椅子の上で咳払い1つ。


「あのね~。できるか分からないことに本気で挑戦すると~、できること~、できないこと~、頑張ればできそうなこと~、そういうのが見えてくるんだ~」


「それが自分を試すってこと?」


「そう~。それでね~。他の人が期待してくれるから頑張ろう~、って思うとね。ゆっくりと~、なんだか~、目に見えないものが変わっていくんだよ~」


「変わっていく……?」


 眼鏡の位置を直し、少女が怪訝な表情をする。


「気付いたらね~、『できないといけない』『できなかったら嫌だな』『期待通りにできるのかな』『期待に応えられなかったらどうなるんだろう』『自分は本当はどこまでできるんだろう』みたいなことを考えてるんだ~」


「ああ……なるほど……」


 納得したように頷く眼鏡の彼女。

 彼女にも思い当たるフシがあるようだ。

 留学生ともなれば、家族の期待を背負って頑張った経験もあるのだろう。


「そうしたらね~。気になっちゃうんだよ~。自分のどのくらいの可能性があるのかな~、って~」


「自分を試しておきたくなる?」


「そう~、不安になるの~」


 いのりの才能は創造性。

 『ある』と『ない』を見極め、そこから新しいものを生み出していくクリエイトの才能がある。

 他人がしない発想ができるということは、他人が気付けないことにも気付けるということだ。


「自分を試す人っていうのは~、きっと~、周りの人の期待の中で生まれるんだよ~。YOSHIも~、もしかしたらどこかで期待の中でああいう人になったのかも~」


「そんな無根拠な……いやでもこういう時のすーちゃんの感覚的な理解って外れたことないからなぁ……」


 『期待と可能性』。それは、彼女が生まれつき持っていた才能が気付かせた、憧れの人へと近付く手がかり。


「じゃあ、YOSHIも周りの期待とかそういうのを気にして、期待に応えられる自分なのかどうか試してる……みたいなことなの?」


「わかんない~」


「話の肝心なところで急にあやふやになるんじゃないよ!」


「わかんないよ~だって話したことも全然無いんだもん~! 宝くじよりありえない可能性でワンチャンYOSHIとお話できたら分かるかも~、分からんかも~、くらいの話だよ~! 一般人からすれば推しと話せるなんて夢のまた夢だから実質不可能なの~!」


「使えん女ね……」


「なんでわたしが責められるの~!」


 眼鏡の彼女の頬を引っ張ろうとする車椅子の少女。ひょいと回避する眼鏡の彼女。眼鏡の彼女が昼飯のホットドッグ3本の内1本を、車椅子の少女の口内にねじ込む。


 少し黙って、もぐもぐと食べ、飲み込んだ車椅子の少女は言葉を続ける。


「わたしみたいに~、できないことが多い子には~、『できないかもしれないけど挑んでみる』『本気の自分を試してみる』みたいな生き方が~、たま~に刺さったりするのかもと思います~」


「……そっか。うん。それは確かにそうかも」


「だからやってみたいんだ~。わたしがわたしのまま~、やっていけるのか~。どこまで行けるのか~、何ができるのか~。容姿が透けて見えない世界で~、わたし自身は他人に認めてもらえるのか~……わたしは~、どんな人間なのか~。わたしが~、あの両親と同じにならない人間なのか~、確かめたいんだ~」


 もう彼女は、自分の生きる道を、自分で決めていける。


 それが、眼鏡の彼女にとっては、この上ないほどに嬉しいことだった。


「じゃ、卒業したらお別れになるのかな。あたしは進学する予定だし」


「そっか~……寂しくなるね~」


「たまに連絡は取り合えばいいでしょー」


「それもそうだ~」


 眼鏡の彼女は、車椅子の少女の頭を撫でる。

 髪を梳き、屋上の風で乱れた部分を撫でつけ、整えていく。


「すーちゃんのやりたいことだもんね。上手くいくといいなぁ」


「上手くいくといいですなぁ~」


 車椅子の少女は、くすぐったそうに身をよじった。


 くすぐったそうにする少女を見つめ、眼鏡の彼女は複雑そうな表情で、発する言葉に迷う。


「やりたいこと、か」


 本当は、眼鏡の彼女にもやりたいことがあった。

 もう、やりたいことは決まっていた。

 だが、今すぐに踏み出す自信がない。

 まだ15歳。

 一般的には、人生の道筋を決めるには早すぎる。


 少しの焦り。

 少しの熱意。

 少しの願い。

 少しの不安。

 芽生えた夢。


 けれど、彼女は決断できなくて。


 だからこそ、決断した車椅子の少女を、眩しいものを見るように見つめる。


「すーちゃんはやりたいことが見つかったから偉いよ。あたしは……まず勉強してくる。ちゃんと自分の頭を良くしてから決める。子供の時に勢いだけで人生決めちゃうのは、なんか怖いわ」


「人生はなんでも怖いもんだよ~」


「実感こもりまくりね」


 眼鏡の彼女が苦笑した。

 車椅子の少女が陽のように微笑む。


 この"挫けない"笑顔を見るたび、『敵わないなあ』と、眼鏡の彼女は思うのだ。

 怖い人生の中でも、失われなかった陽の笑顔。


「怖いから~、一緒に歩いてくれる人を探すもので~。運が良ければ~、誰かが一緒に居てくれて~、それが嬉しい~。そういうものだと思うな~。色んな形で~、一緒に居てくれる人を探すのが人生~」


「そうだね」


 友達として、1人の女の子が祈る。


 "あたしは、この子が大好きだから"。


 "色んな人に、この子を大好きになってほしいな"。


 そう、祈る。


「本当にそうだ。すーちゃんが正しい」


「えへへ」


 無限の正しさが溢れる、この正しさの海の世界で。


 車椅子の少女にとっての正しさがあった。

 その味方をしてくれた友達が居た。

 いつだってそれは正しいと、応援してくれた人が居た。

 それが、どれだけ幸運だったことか。


 姉のような女の子と、妹のような女の子。


 それも、共に居られる時間は、あと少し。


「ほれ、ぎゅーっ」


「わーっ」


 眼鏡の彼女が、正面から車椅子の少女を抱きしめる。

 優しく、暖かで、ふんわりとしていて、包み込むように抱きしめてくれた、安心する感触。

 ただ、抱きしめる側に胸が無かったため、少女の額がうっすら骨に当たる感触があった。


「しばらく1人で頑張るんだよね、すーちゃん」


「うん~」


「頑張れVliver。あたしがファン1号だ」


「さんきゅ~、ファン1号~」


 しばらくして、卒業式の日を迎えて。


 泣かないと決めていたのに、泣いてしまった。


 2人して大泣きしてしまった。


 つられて、周囲のアメリカ人達も全員揃って大泣きしていた。


 教師陣も参観の家族も、一部号泣していた。


 こんなにも悲しかった別れの日は、彼女の人生に一度もなかった。


 こんなにも後悔の無い別れの日は、彼女の人生に一度もなかった。


 寂しさと感謝で出来た涙が、ただひたすらに流れ落ちていった。






 ポシビリティ・デュエルは、この世界を回している中心の競技である。何故なら、原作者がそう設定したから。


 ポシビリティ・デュエルのアバター作成は多くのコンテンツで使い回せる共通規格であり、多くのゲームや仮想世界コンテンツに同じアバター作成システムが実装されている。

 どこかで1つアバターを作れば、それをどこでも使い回せるのだ。


 少女は、2週間ほど時間をかけてゆっくりアバターを作り、それっぽい名前を付けてVliverとして活動を始めた。

 本名ではない。

 伊井野いのりでもない。

 2059年では使っていない、昔の名義で、この時代の彼女は活動していた。


 この時代のファンに、少女は一生ずっと感謝している。

 分からないことを教えてくれた。

 どうすればいいのかを教えてくれた。

 慣例を教えてくれた。

 流行りのゲームを教えてくれた。

 人気のジャンルを教えてくれた。

 一部は指示厨と呼ばれる者だったし、一部は荒らしや嫌がらせも行っていた。

 コメントとSNSの両方で、彼女のゆったりした喋り方を堂々とバカにするおかしな人間さえもいた。


 けれど、彼女がリスナーを嫌いになることはなかった。


 『そういう人も居る』で流していける。

 それもまた、彼女が持つVliverとしての飛び抜けた資質の1つであったから。



○一生雑談しててほしい

○お夕飯配信可愛かったです

○めちゃすき

○歌声好きです、マジ好き

○優しいゲームの進め方が好き

○切り抜きで爆笑しました

○家の造形すっげえ綺麗で良いですね!

○感性豊かなVliver好きなんですよ

○学校で友達と見てます~



 少女は、世界の醜い部分だけを見て、世界全てを嫌うような哀れな人間にはならないと、心に決めていた。

 ここは好きで回る世界だと、信じていた。


 どこの企業にも所属せず、自作のアバターなどを使ってVliverとして活動する人間を、『個人勢』と言う。

 伊井野いのりは当初個人勢として活動して、いわば『修行』を重ねることでレベルアップし、人気配信者に相当するステータスを手に入れてからエヴリィカに参入したのである。


 本番の前に、事務所に迷惑をかけないよう、現行環境で自分を鍛え上げようとしたところに少女の生真面目さが見て取れた。

 個人勢当時のファンはどこから聞きつけたのか、ほぼ全員が『伊井野いのり』も追い続け、かつ配信中に昔のことをコメントすることはなかったという。

 知らんぷりして、追いかける昔ながらのリスナー達が居た。


 力を付けてから、少女はエヴリィカの門戸を叩く。


 少女の可能性に期待してくれたYOSHIが居て、少女の未来に期待してくれたおじさんが居た。だから、行くならここだと、そう思ったのだ。


「来ましたよ~、竹取のおじさん~」


 社長室に通された少女は、社長の椅子に座って指を組む、懐かしい男の顔を見た。

 エヴリィカ社長、大奥。

 またの名をOh社長。

 白髪が増えて、昔より疲れた顔をしていると、少女は率直にそう思う。

 余程の苦労があるのだろう。


 だが少女を見た瞬間、男の顔から疲れの色が吹っ飛んだ。理由は言うまでもない。


「背、少し伸びたんじゃないかい」


「車椅子なので伸びたのは座高です~」


「……相変わらずのマイペースだなぁ」


 大奥が、何かを投げる。

 少女が、何かを投げる。


 大奥が、少女が投げた名刺を指で挟んで受け止めた。

 少女が、大奥が投げたたけのこの里を胸で受け止め、ふとももの上に落とした。


 2人が同時に、ニッとする。


「君の活動はよく知ってる。頼りにしてるよ、即戦力。君がエヴリィカ4期生だ」


「おまかせください~」


 この週より、彼女は『伊井野いのり』となる。


 そうして、彼女の新しい日々が始まった。


「おっ、おったおった! そこのめっちゃくっちゃにべっぴんな姉ちゃーん! ちょっとええかー!」


「あなたは~?」


「今日から『不寝屋ねずやまう』! 姉ちゃんの同期やなぁ。同じCグループ同士頑張ろやないか!」


 エヴリィカで一番仲が良い、大親友との出会い。


「今日から『伊井野いいのいのり』なわたしです~。よろしくお願いします。可愛い女の子が同期の人みたいで~、安心したし嬉しいしです~」


「お世辞うっまいなぁー自分! 誰がどう見てもお前さんが一番美人やねん! なあみみみ!」


「あっはぁー、うけるぅー。みみはみみ、ねぇー。『蛇海へびうみみみ』ぃーですぅー。今そこでこの元気な人に連行されたとこぉー」


「初めまして~、伊井野いのりです~」


「まだ他にもおるで、同期! あっちに集まっとるみたいや! こらツラ見に行くしかないやろ! 行くで、いのいの、みみみ!」


「お~!」


「わははぁー、うけるぅー」


 不寝屋まうは、初めてあった時から元気で、全然寝ないで走り回って、何もかもをテキパキとこなす女であった。

 いのりとはまるで正反対。

 だからこそまうはいのりをよく助けてくれたし、いのりもまうをよく助けることができた。


 正反対であるということは、助け合えるということだ。


「うおぁっー! さんきゅーいのいのっー!」


「困った時はお互い様~」


 いのりとまうはあっという間に仲良くなっていった。

 その理由は、いのりが"にゃっちゃんに似てるなぁ"と思ったことと無関係ではないだろう。


「いのちゃん何のゲームが好きなんや?」


「ワールドクラフトビルダーズ~」


「うおっ……リアクションが取れる出来事がないもんでうちがめちゃくちゃ苦手なやつ! あれが好きとかよっぽど真面目で根気強いんやな、いのちゃん」


「まうちゃんは~?」


「RPGとかなら大体好きやで! ストーリーにリアクション取って、考察しながら進めたりすんのが一番楽やねん。おもろーくボケる能力も欲しいんやけどなー」


「まうちゃんは十分面白い女の子だよ~」


 2人は正反対だった。

 性格も。

 得意分野も。

 好きなゲームも。

 配信スタイルも。

 付いたリスナー層も。


 けれど、好きになるキャラだけは同じだった。


「このキャラかっこええよな」


「わかる~」


 いつだって同じ人間を好きになるから、それを最たる理由として、2人は大親友になっていった。


 エヴリィカは優しい箱だった。

 それでも、いのりと最初に一緒に居てくれたのはまうだった。

 デビュー直前に湧いてきた不安を吹き晴らしてくれた親友に、いのりはいつも「ありがとう」を言いたくてたまらない。


「まうちゃんありがと~」


「どういたしましてやで~!」


 だから、いのりは事あるごとに言っている。






 伊井野いのりは、もういつだって寂しくない。


 だって、いつも誰かが一緒に居てくれるから。






 答える意味のない質問を除き、100の質問の全てが終わる。

 75問以降から急激にYOSHI向けでない質問が増えたため、そこからの展開は早かった。


「それじゃ皆おやすみ~。あったかくして寝るんだよ~? おつのし~」


「お疲れ様でした、リスナーの皆さん。おやすみなさい」


________________

□いのりへのコメント~▽   ︙

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

○おつのし~

○おつのし~

○おつのし

○YOSHI先生もおつのし

○おやすみなさい



 配信が切れ、YOSHIといのりもログアウトした。


 いのりが"いつも皆が一緒に居てくれるありがたさ"を特に強く感じるのは、こういう別れの時である。

 インカムが空間に映し出している、動かなくなったコメント欄を見る時ほど、寂しさを感じる時はない。


 現在時刻00:56。

 街の大部分が寝静まった深夜だ。


 いのりと善幸は、"アルタミラの洞穴"の共用ロビーで合流する。


「おつかれ」


「おつかれさまですせんせ~」


 そして、互いの労をねぎらい合った。


「今日は多くを学ばせてもらった」


「こっちのセリフだよ~! 今日一日で、ビルド系スキルが千倍上手くなった気がする~! せんせ~の教え方すっごくよかったよ~」


「そうか。ならよかった」


「あっ、そうだ。せんせ~、明日の朝ね~」


 その時、いのりのインカムが音を鳴らした。


 どうやら誰かからのメッセージが来たらしい。

 いのりが人差し指を目で追いながら『Γ』の形に振ると、目線と指の動きを感知したインカムがメッセージの全情報をいのりの網膜に投映する。

 いのりはふんふんと頷いていた。


「せんせ~話がしたいって~」


「誰が?」


「わたしのモデレーターの……モデレーターの説明をしておいた方がよさそ~。モデレーターっていうのはね~、配信を手伝ってくれる人のこと~。悪いコメントや悪い人に対処したりするの~。配信しながらコメントとかを管理するのは~、手が足りないことも多いから~」


「なるほど。分かった」


「最近はAIに全部任せちゃうところも多いらしいけどね~」


「それで、君のとこのモデレーターがなんだって?」


「気になるから、消したコメントと蹴ったユーザーを確認してほしいんだって~」


「確認……?」


「荒らしコメントの送信失敗ログの内容をチェックしてたら~、せんせ~の知り合いの可能性があるから~、問題にしないために念の為話しておきたいんだって~」


「………………………………心当たりがあるな」


 善幸は眉間に皺を寄せで承諾した。

 善幸が参加した動画のコメント欄を悪意なく荒らしそうな存在に、3人ほど心当たりがあったからである。


 善幸といのりが共用ロビーで話しながら待っていると、1人の女性が現れた。

 利発そうな顔つき。

 鋭い眼光。

 切り揃えたショートヘア。

 ピシッと決めたスーツ。

 一部の隙もない、キビキビした歩行。

 善幸はこの手の人種に覚えがある。

 世界大会の対戦相手の後ろに控えていたバックアップチームのリーダー格が、よくこういう雰囲気を纏っていたのを、覚えていたからだ。


「にゃっちゃんお疲れ~」


「あいよ。お疲れさん、すーちゃん。あ、YOSHI先生でいいんですよね? 仁山にやまです。仁山にやま花織かおりと言います。この子のマネージャーとかモデレーターやってます」


 眼鏡の彼女は、仁山と名乗った。


「YOSHIだ。俺の知り合いが荒らしコメントをしてそちらの手をかけさせたのなら、本当に申し訳ない」


「いえいえ、仕事ですから。で、これなんですけど。こっちのコメントが実際に書き込まれたコメント。こっちのコメントがあたしの蹴り出しキックで書き込み失敗したコメントですね。こっちはアカウント消えてから書き込もうとしてたコメント」


「……誰か特定できた。こちらからキツく言っておく、すまない」


「どうします? 申請出せばこの荒らしの人に対する処罰は全部解除できますけど……」


「いや、そのままでいい。この人は発言できると永遠に余計なことするからな。このまま口を塞いでおいてくれ。たとえるなら真夏のセミだ」


「『永遠に黙ってりゃいいのに』ってことです……?」


 善幸に見せていたノートパソコンを閉じ、仁山はふぅと息を吐く。


 この確認で今日の仕事をとりあえず終わらせ眼鏡の位置を直す仁山の横で、車椅子のいのりがにこにこと微笑んでいた。


「せんせ~、にゃっちゃんはですね~、飛び級していい大学を出て~、そっからうちに来てくれたんですよ~。わたしのマネージャーをしてくれたり~、モデレーターをしてくれたり~、予定を管理してくれたり~、よその企業さんと交渉して仕事を貰って来てくれたり~、日本と海外のVliver数十人が同時参加する大会で出ちゃうラグを10分くらいで無くしちゃったりできるんですよ~! すごいでしょ~!」


 いのりは、自分のことのように誇らしげに、得意げに、楽しそうに語っていた。


「ほー。万能屋か。有能だな」


 仁山は照れを隠すように、髪先を弄った。


「いやーね。やりたいことは決まってたんですけど、ちゃんと学校行っておかないと不安な人間でして。エヴリィカでようやくこの子に追いついたんですよ、あたし」


「えへへ~さんきゅ~さんきゅ~」


 おそらく、彼女には卒業する前から『この子を隣で支えてやりたい』という気持ちがあったのだろう。

 だが、踏ん切りがつかなかった。

 一通り進学して、何年も考えて、それでもなおやりたいことが変わらなかったから、エヴリィカに来た。そんなところだろう。


 決して、感情とノリで人生を決めた半端者ではない。

 それは、善幸の視点からは特に明白な事実であった。


「ああ、分かる。お前は自分なりに可能性を磨き切った存在だ。どんなジャンルを極めた人間であっても、極めた人間であれば見れば分かる」


 仁山はぎょっとする。


 ぎょっとしたが、直後何故か笑った。


「本当にそういうことを言う人なんですねえ。あたしてっきり話盛ってるもんかと思いました。まさか3年間毎日聞いてた話が真実だったなんて……一時期はYOSHIとは実在しない、よわよわ女の弱い心が生み出した真夏のかげろうかと思ってたくらいですからねあたし」


「何……?」


「ちょっとにゃっちゃん~!」


「ああ、分かってる、分かってる。言わんて。恥ずかしいもんねぇ」


「にゃっちゃん~~~!!」


 いのりは必死に身振り手振りで意志を伝えようとし、仁山がけらけらと楽しそうに笑う。


 『思春期の勢いで毎日憧れの人の素敵なところを親友に話して聞かせてた』だなんて話をYOSHIに知られたら、いのりは恥ずかし過ぎて死んでしまう。

 不可避の一撃。

 不可避の生き恥である。


「何の話だ?」


「なんでもありませんよ。どうでもいい内輪ネタです。説明してもなーんも面白くない話です」


「そうか。まあそういうこともあるな」


「にゃっちゃん……!」


 誤魔化してくれた仁山にいのりがきらきらとした視線を向けて、仁山は吹き出しそうになったのをなんとかこらえた。

 こんな言い草で納得してしまうYOSHIもなんだか面白くて、また吹き出しそうになってしまう。


 吹き出しそうな自分をなんとか抑え、仁山の手がいのりの頭部を撫でつける。

 先程まで横になってフルダイブを行っていたため、いのりの髪に寝癖がついてしまっていたらしい。

 自分の頭に寝癖があったことに気付き、いのりの視線がチラッと善幸の方を向き、そのまま顔を赤くして無言で俯いた。


 当然だが、善幸は他人の髪型などどうでも良かったため気付いていなかった。


「ま、そんなわけで。そういう経歴の人間のあたしですが。自己紹介代わりに1つ」


「なんだ?」


 いのりの髪を綺麗に整え、ぽんぽんと軽く優しく親友の頭頂部を叩き、仁山は唄うように語る。


「つまんねー馴れ合いなんぞで人生のでけえ決断なんかしやしませんよ。あたしはね、この子が世界で一番人気なVliverになると思って、なれなかったとしても一緒に最高の景色が見れると信じて、此処に来たんです」


 そして、ニッと笑う。


「TTT同期で一番登録者数が多いうさみのうづきにもそんなハマんなかった。タツミが一番強いとか言われても強さの凄さがピンとこない。YOSHIがどんなに魅力的か説明されてもよく分かんなかった。でもね、この子の魅力といいところならよーーーく分かるっ!」


「わわっ」


 がばっ、と、車椅子のいのりを後ろから抱きしめる。


「世界中の皆に否定されても、伊井野いのりがあたしにとっての一番のVliver! そんなこんなでね、今やってることがあたしの一番やりたいことなんですよ」


「にゃっちゃん……」


「だからね。あたしは周りの人が言うほど、変な人生の選択をしたとは思ってないんですな、これが」


 愉快そうに笑う仁山に対し、善幸はとことんどこまでも淡々としていた。


「正しい。君は自分の中にある可能性に1つの可能性を見い出し、駆け抜けることを決めた。君が俺と戦うことは未来永劫無いだろうが、君が出した答えは誰にも否定できない、君にとっての正しさと成っている」


「褒めてる?」


「褒めている。俺は君にはなれない。俺は俺に無い可能性を成した君を見て学びを得る。俺も君にとって心強い戦友で在ると約束する。絶対に倒してほしい敵がいたら言え。どうにかしてやる」


「……」


「かっけ~~~」


 これに惚れたんかお前、茨の道だぞ、と、仁山はいのりに対して思った。口には出さなかった。


「へ、変人だぁ……すーちゃんがYOSHIを褒める言葉がいかに色眼鏡に染まりきった美化しまくりの美辞麗句だったかよく分かる……変な男の子だ……」


「美化はしてませんけど~」


 仁山はちょっとだけ口を滑らせた。


「なんだいのり。俺のこと褒めてたのか、いつだ」


 いのりはヒヤリとした。


「……いつでしょう~? 当ててみて~」


 しかし、雑談回しで巧みに乗り切る。


「なに……ノーヒント推定か。難問だな、挑み甲斐がある。制限時間は?」


「わたしが良いって言うまで~」


「俺にだいぶ有利な条件だな、余裕の現れか。いやノーヒント推定ならそれも当然か……」


「はい、スタート~!」


 出された問題に善幸が挑戦し、考え込み始める。よって、直前に気付きかけた事実は完全に頭から吹っ飛んだ。善幸は挑戦者である。上手く誘導されると、こうしていい感じに操られてしまうのであった。


「ふ~危なかったぜ~」


「よっ、口先の猪ぃ~。かっくい~」


「お猪口ちょこという言葉があるように~、猪という存在は口が上手いのだ~」


「漢字の曲解ここに極まれりだわねオイ」


 女子が2人で笑っていると、善幸が2分ほどで思案から帰ってくる。

 これが実戦における長考の限界時間であるということなのかもしれない。


「読めたぞ、いのり。俺達が顔を合わせたのが4/13。今、日付が4/14から4/15に移ったところだ。君が仕事の相棒である仁山と共に過ごせた時間、俺が2人の話題に上がるタイミング、そして俺が認識していない時間の可能性が高いことを考えれば……仕事をしていた4/14の午前中、だな?」


「ぶっぶぅ~、違います」


「なっ……俺の負けか。無念だ」


 YOSHIがこんなことにも本気で挑んで、本気で悔しそうにするものだから、仁山はまた吹き出しそうになった。


「せんせ~のめちゃくちゃいいところ~。いつだって真剣に生きてて~、いつだって"勝てた可能性もあったんじゃないか"って考えてて~、いつだって素直に負けを認められること~」


「わからん。あたしにはあんたの言ってることはあたしにはわからん」


「え~」


 少しばかり、3人で話した。

 伊井野いのりの師匠と、伊井野いのりのマネージャーと、伊井野いのり本人の話し合いなので、当然今後の方針の打ち合わせも込みである。


「えー!? すーちゃん、もうYOSHI先生をたけのこ派に勧誘したって!? 早すぎるでしょ! どんなビッチでもそんなに男に手を出すの早くないわよ! 許さねえ! きのこ派の代表として貴様を弾劾する!」


「ビッチじゃありません~。彼氏が出来たこともありません~。現実を見つめてください~。この場にはたけのこ派2、きのこ派1です~。多数決の原理でにゃっちゃんの負け~」


「親友資格期間限定凍結処理執行!」


「な、なんだって~! そんなことをしたらわたしがにゃっちゃんの親友ではなくなってしまう~! そんなぁ~!」


「仲良いなお前ら」


「「 でしょ~ 」」


 打ち合わせも込みである。


「お夜食作るから待ってて~」


 共用ロビー隅のコンロに向けて、にこにこした祈りを乗せた車椅子が走る。


 会話が聞こえないくらいにいのりが離れたのを確認し、いのりが料理をする後ろ姿を見つめて、仁山が口を開いた。


「あたしはYOSHIファンとかそういうのじゃないですからね。『いいのが来たな』くらいの気持ちです。ファンとしての喜びみたいなのは無いですね。ただ、あの子はまだ飛躍できると思うから、その一助になる人が来てくれたのは正直嬉しいです」


「いい視点の持ち方だ。クラフトゲーム主体・雑談配信主体の配信者の伊井野いのりが新規層を獲得するなら、対人戦闘のポシビリティ・デュエルはかなり悪くない。普段いのりの配信を見ない人間が見る機会になるし、戦いの中で物作りのセンスも見せられる。長所を活かしつつの新規層獲得になるだろうな」


「……調子狂う返答してくる人だなぁ……」


 仁山はここで聞きたいことが色々あった。

 昔あの子を助けた時何を思っていたのか、とか。

 あの子をどう思ってるのか、とか。

 なんであの子を忘れたんだ、とか。

 プロから見たらVliverはお遊びに見えて不快に思っていないだろうか、とか。

 なんでこんな仕事を受けてこの事務所に指導に来てくれるばかりか配信にまで参加してくれているのか、とか。


 なのに直接会ったことで、「あの子の救いになるのはこういう人なんだろう」という確信を得て、仁山はすっかり聞きたいことがなくなってしまった。


 なんとなく、全てに納得してしまったのだ。

 極めて優れた知能を持つ仁山花織は、『単にそういう人だからなんだろう』という一文章だけで、全ての疑問に納得してしまった。

 YOSHIはYOSHIだった。

 それが回答である。


 なので、心に残った言葉は1つ。

 それをどこで言うか、仁山は迷う。


「花織。君の持ってる情報、君の考える伊井野いのり像を聞きたい。にわかの俺より、君の方がずっと彼女について深く知っているはずだ。君の視点を教導の参考として組み込みたい」


「おっ……いいんですか? あたしは伊井野いのりのファン1号ですからね。あたしの語りは長いですよ~?」


「プロゲーマーにとって、ファンからどう見えているかはどうでもいいことだ。だが、Vliverにとって、ファンからどう見えているかは最も大事なものであると認識している。ファン友情りかいが必要だ、仁山花織」


 にぃぃぃっ、と、仁山の口角が上がった。


「……いいね。いい。あたしはそういうスタイル好きだよ。あんたは変な男だけど、あたしの親友を一生託せるくらいには信じられる男みたいね」


「一生は要らん。君の敬語も要らん。言えることは全部言え。それを使って俺が勝つ。お前の推しを勝たせてやる」


「最高の台詞だよ、先生」


 仁山が胸ポケットのデバイスを操作すると、YOSHIの端末に圧縮データを送信される。


 それは、仁山がいのりを作った、分かりやすい伊井野いのりのプレゼン資料と、その補助として置かれた数年分の統計資料。


「段取りが良いと言われる女です」


「ああ。風評に偽り無しだ」


 YOSHIは受け取ったデータを軽く確認しつつ、席を立ち、料理をしているいのりの方を向く。


「鍋の横に立ってくる」


「あの子はああ見えてしっかりしてるから大丈夫じゃないかなー」


「俺があそこに居ても得はあれど損はない。来月に大会に出なければならん女だ。万が一鍋がひっくり返った時、横に助けられる男が居た方が良い」


「……なんか、思ってたより面倒見良い人ね」


「『仲間には気遣いができるんだな。びっくりした……』と昔からよく言われる」


「よく言われるんじゃないですよそんなこと。コミュ障って言われてんのよ」


「何……? そんな馬鹿な……」


 善幸がいのりの隣に行く。

 いのりが驚く。

 やがて、いのりが嬉しそうにする。

 自然に、善幸といのりの会話が始まった。

 拙くも楽しげな会話が広がっていく。

 それを見て、仁山は頬杖をついて微笑む。


「言葉は、何を言うかじゃなくて誰が言うか、なんて言うけどね。……あの子が憧れたのが、あんたでよかった。あの子が唯一耳を貸す相手だったのが、あんたで良かった。あんたが、追い詰められたあの子を救う言葉を与えてくれてよかった」


 言葉は巡る。

 言葉ですら世界を変える。

 あるいは、破壊する。

 誰も予想できない形に。


「風は人のために吹かないけれど、風が風車を回して人の営みを助けるように、風が道を塞ぐ土砂を崩していくように、たまたま風が人を救っていくことってのは、あるのかもしれないのよね」


 嵐は来た。


 原作ふねがどこに流れ着くかは、分からない。


 けれど。




「ありがとう、風の人。どこからか吹いて来てくれて」




 それでいい、と考えることも許されている。


 風成善幸は、原作を待っている。

 原作主人公を。

 強い原作キャラを。

 各キャラを強化する原作のイベントを。

 強者が争いながら強くなっていく、原作の大会や大規模イベントを。


 だから、風成善幸の未来予想は当たらない。

 当たるわけがない。

 誰も善幸の事情を知らないため、誰も善幸に指摘できないが、彼の考えるなどというものは、善幸が最初の大会に出場した時点で完全に粉砕されている。


 伊井野いのり1つとっても明白である。原作世界において、伊井野いのりの父親はのだから。

 それも、一度や二度ではない。

 逃げ場の無い家庭という檻の中で、何度も、何度もだ。


 伊井野いのりは壊れ、世界の全てに怒りと憎しみを抱き、親ですら自分に欲情し陵辱をしたという事実から、全ての人間を信じられなくなっていった。

 当然ながら、その姿と過去は、周囲に悪い意味での影響を与えていく。


 いのりは世界を嫌い、世界から逃げるため、顔を、名前を、穢れた体を捨てて活動する手段を選択する。

 それがVliverだった。


 作り物の違う顔だから、リスナーから可愛いと言われても何も思わずにいられた。

 十二支に沿った偽名だから、夢を見たまま、名前を呼ばれても現実に戻らずにいられた。

 犯され穢れた体を捨てられたから、デジタルの体で生きていられたから、その間だけは過去の全てを忘れて生きられた。


 全てから逃げるために配信に打ち込むVliver。


 それが、本来の伊井野いのりが持つ個性。


 いのりにとって、ポシビリティ・デュエルで他人を叩き潰すことは自己表現の1つだった。

 人並み外れた創造性を活かし、""全ての人間に対する攻撃性をもって、あらゆる敵を詰ませるチームのサブアタッカー。


 叩き潰した敵を見下ろして、「わたしより下の人間って世の中に居るんだなぁ」と思うといのりは何故か安心して、心安らいだ。

 そう思えた日だけ、毎晩夢の中に出て来て自分を犯していく父親を、鳥肌が立つほどに気持ちの悪い悪夢を、いのりは見ないで済んだ。


 いのりの二面性は取り扱いに困るものであったが、エヴリィカの皆はいのりに優しく接し、いのりはその優しさに困惑しつつも、その心地良さに時折身を委ねていった。

 事務所の仲間につられて笑ってしまった日だけ、毎晩夢の中に出て来て自分を犯していく父親を、鳥肌が立つほどに気持ちの悪い悪夢を、いのりは見ないで済んだ。


 温和で優しい振る舞いと、怒りのまま敵を討ち滅ぼす二面性ゆえ、ソーシャルゲームシナリオで掘り下げがなされるまで、人格的な評価が固まっていなかったという女、伊井野いのり。


 どんなに優しくされようと、どんなに成功しようと、どんなに登録者数や同時接続数が伸びようと、いのりの傷は消えず、膿んでいく。

 時は決して戻らない。

 事件の前には戻れない。

 父に穢されてしまった体は、ずっとそのまま。


 いのりは狂乱の果てに、全てを諦めたエヴリィカ社長・大奥大次郎の制止を振り切り、己の人生の全てを投げ売った大暴走を始める。


 それをソシャゲ主人公、原作主人公・水桃未来、そしていのりのことを好きになってくれた同期のTTT23人で力を合わせ、『たった1人の女の子を幸せにするために25人が人生を賭ける』という、過去最大の規模のイベントストーリーが始まる。


 それが、『原作うんめい』である。


 今はもう無い。


 どこにもそんな運命は見当たらない。


 理由は1つ。


 たった1つ。






 原作うんめいは、YOSHIより弱かった。もう負けている。


 ただ、それだけのこと。


 雑魚うんめいに世界の行く末を決める権利など、最初から無い。






 鍋の中身をお玉がかき混ぜる音がする。


「ね、せんせ~」


「なんだ」


「秘密~、守れるよね~」


「人並みにはな」


 人並みじゃなさそうだなぁ、といのりは微笑む。


 鍋をゆったりとかき混ぜる音がする。


「ね。配信の外では~、名前で呼んで欲しいな~、なんて思っちゃったりするわけなんですが~」


「いのり、って? もう呼んでるだろ」


「そうじゃなくて~」


 いのりの耳が、隣に立つ善幸の吐息の音を拾う。


 いのりの耳が、いのり自身の心音を拾う。


 心音が、どんどん大きくなっていく。


「本名の名前で~、呼んでほしいな~って~」


 心臓が爆発しそうだと、いのりは思った。


「外に出た時とか~、Vliverの名前で呼び合ってたら~、最悪それでバレちゃうからね~。隠すために~、本名でも呼ぶようにしたらどうかと思ったり~?」


「じゃあ君も俺を本名の名前で呼べ。配信外ではな」


「ひゃっ」


 心臓が爆発したと、いのりは思った。


「だが俺は君の本名を知らん。過去に貰った書類の中に書かれてたかもしれんが覚えてねえんだなこれが。だから教えてくれないと呼べん」


「そ……そうですね~。教えないと、分かんないですよね~。それはそうだ~。それじゃしょうがないな~」


「はよ言え。5秒以内に」


「ひえっ」


 心臓が爆発した勢いに乗ったれ、とばかりに、勢い任せで全ての羞恥心を乗り越えて、伊井野いのりは本名を名乗った。




 少女の顔は、真っ赤になっていて。


間野谷あいのや涼芽すずめです。……改めて~、よろしくお願いしますっ!」


 少女が差し出した手を、少年が取り、握手を交わす。


風成かざなり善幸よしゆき。改めて共闘、頼んだぞ」


 善幸の顔は仏頂面で、名前を呼び合うことなど心底どうでも良さそうだった。


 が。

 仲間の本名を知れたことに関しては、少しばかり嬉しそうにしているようだった。











「よ、よよよ……善幸さんっ……」


「なんだスズメ。何か用か」


「あうっ」


「え、何の用?」


「ぬぁ~~~~~」


「いや何の用!?」


「あたしが求められている気配がした。呼んでしまったのかYOSHI先生、すーちゃんの名前を、呼び捨てで、こんなに近い距離で……バカなことをしたわね」


「おめーは本当にマジでなんなんだよモデレーターの癖に自分のコメントは制御できねえのか?」


「そうなのよ」


「そうなのよじゃねえ」


 長い夜が、そうして終わった。

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