西暦2055年7月→西暦2059年4月14日(月)

 娘を無理矢理手篭めにしようとしたという、限りなく畜生の極みに近い悪行を成さんとした男は、電脳空間の椅子に座らされていた。


 電脳空間でいくら暴れても、現実の肉体は逃げられない。

 容疑者が警官を傷付けることはできず、警官が容疑者を過度に傷付けたという疑いを持たれることもない。

 元プロ格闘家の酔っ払いだろうと、その時に女性警官しか居なかろうと、極めて安全に取り調べを行うことができる。


 この時代において、電脳空間での取り調べは選択肢の1つとして重宝されるものの1つだった。


「やあ」


 父失格の男の前に、1人の男が現れる。

 白髪の目立つ男だった。

 特に目立った特徴もなく、数回顔を見たくらいでは顔を覚えていられなさそうな顔形をしている。

 安心感のある微笑みもあって、夕方のテレビ番組で紹介される地方町工場の慕われる工場長、といった印象が出て来る。


 微笑みは温和で、どこにでも居そうで、なぜか道脇の地蔵のそれを思わせる男。

 その微笑みは仮面であったが、その微笑みを仮面だと思わせない技術が、その男にはあった。


 年齢は40代前半あたりか。

 造形の質感から考えて、おそらく現実の自分の顔をスキャニングしてそのまま電脳空間で使っているタイプだろう。

 アニメキャラなどをベースにした二次元感が全く無い。

 つまりこの顔が、そのままこの男の現実の顔であるということだ。

 男は継続して微笑んでいる。


 人の『仮面』は剥がせない。

 巡り合わせで勝手に剥がれることはあっても、剥がれないようにした仮面を剥がすことは、大抵の人間には叶わない。


 Vliverが被った仮面も。

 詐欺師が被った仮面も。

 底知れぬ者が被った仮面も。

 誰も彼もが、剥がし難い仮面によって、己の本心なるものを隠して生きている。


 男のその微笑みは、被られた仮面である。


「誰だ、お前は……」


 親失格の男は、問いかける。


 微笑む男は、無視して問いを投げつけた。


「虐待は事実かい?」


「……」


「普段何をして、何を見過ごしていたのかな」


「……」


「何が悪かったと思う?」


「……」


「今の内に自分から打ち明けたいことはないかい?」


「……」


「バレたら困ること、とかさ」


「……」


「娘に謝りたい気持ちは?」


「……」


 彼は迂闊な発言をすれば罪状が増える。

 取り調べの基本は沈黙、そして法に則った応対だ。

 娘に手を出す鬼畜外道とはいえ、本来は頭の良い地方権力の掌握者。

 こういう時の対応は堂に入ったものである。

 この男が口を割らなければ、捜査は遅々として進まない。


 はずだった。


「そうか」


 微笑みの男は、得心がいった様子で頷いた。

 調べるべき男が何も答えていないのに、だ。

 父だった男は怪訝な表情を浮かべる。


 その時、取調室に何人かの男達が入って来る。

 入って来た男達の内2人の顔に、父だった男は見覚えがあった。

 昔、地元の支配者であった彼が、巧みな入札談合で賄賂を稼いでいた時期に、彼と繋がりのあった企業にガサ入れをした警察庁関連の人間だ。


 優れた頭脳が、一度だけ見た男達の顔を記憶から合致させる。

 だが、新たな疑問が生まれる。

 この男がやらかしたのは家族に対する虐待容疑・性的暴行未遂。企業の違法行為を担当する人間が出て来るような事案ではない。

 何故か、来るはずのない男が来ている。


「班長、お疲れ様です」

「どっすか班長」

「終わりましたかぁ班長」


「"元"班長だ」


「そうでしたね、すみません」


 地蔵のような微笑みの男は、『班長』と呼ばれているようだった。

 『元』を付けることを念押ししているあたり、今は班長と呼ばれていた頃の職場には居ないのかもしれない。


 警察関連の人間に班長と呼ばれているというだけで、父だった男が警戒するには十分過ぎる理由となる。

 案の定、班長と呼ばれた男は、取調室に入って来た男達と言葉を交わし始めた。


「後で報告書出すから。この男、みたいだから、その辺も固めといてくれ」


「うへぇ……それはまたなんとも……。またお手数かけてすみません元班長。ちょっとこの男の肩書きが厄介でして。色々汚職のリークもあって、確証が欲しかったところで……しかし、流石の『読心』ですね」


「あ、彼の家の壁の中の金庫開けといて。位置はこのメモの通り。令状は出てるんだろう? 裏の契約書類と裏連絡先リストがここに入ってるから、調べられるだけ調べてみてくれ」


「ありがとうございます、班長!」


「班長じゃないって」


 娘の強姦未遂で全国報道されてなお、僅かに余裕を残していた男が、その会話を聞いた瞬間、頭が真っ白になって呆けた声を漏らした。


「……なっ……」


 隠し事が、全てバレている。

 父であった男は即座にそれを理解した。

 だが、なぜ?

 全ては彼だけが知っていることだった。

 彼が沈黙を保っていた以上、漏れるわけがない。


「……あ」


 父だった男は昔、いわゆる"上流"の集まる秘密のパーティーで、一度だけ聞いた噂話を思い出した。

 それは、後ろ暗い資本家の間で語り継がれる都市伝説だった。


 今、ネット犯罪はいくつかのセクションが協力し、それぞれのセクションに許された権限と得意分野を活かしての対策が行われている。

 まるで、麻薬蔓延対策で複数の省庁が連携する時のように。


 現実と変わらない精度と広大さを持つ世界をいくらでも作ることができる新時代は、摘発できない談合、不可視の麻薬取引、霧に包まれた資金洗浄、反政府組織の安全な連絡などの物騒なあれこれを、仮想世界にもたらした。

 犯罪用の世界が、次々創造されかねない新時代。


 かつては"メタバース"などの概念で考えられていた新時代の電脳世界は、『デジタルマルチバース』などの呼称と共に実現化され、それが実現されるや否や、新時代の犯罪手法と、新時代の犯罪対策を目まぐるしいサイクルで誕生させ続けることとなったのである。


 そんな中、警察庁と、デジタル庁と、厚生労働省と、日本最大のIT企業、及びプロバイダ企業が協力して発足した提携組織で、頭角を表した『班長』がいたという。


 基本的にどこの国でも、政府直轄の司法機関の人間より、大手民間企業の運営管理者の方がずっとネット犯罪に対しては強い。

 国は自前でネット犯罪に対抗するのではなく、民間企業のプロフェッショナルを頼る形で、警察にネット犯罪の容疑者を捕まえさせるのだ。

 その『班長』もまた、民間からの出向であったという。


 そして、その『班長』には才能があった。


 世界にも類を見ない才能が。


 新時代の新技術は、旧来の法でどう対処すればいいのかも分からない犯罪を生み出した。

 だが同時に、旧来の法で規制されていない捜査の手札も生み出しており、その『読心』の技術は彼1人にしか無い才能であったため今のところ法規制の必要がなく、司法は最強の切り札を手に入れたのだ───と、父であった彼は噂程度に聞いていた。


 新時代の娯楽。

 新時代の犯罪。

 新時代の捜査。

 眉唾な噂話も多くあったが、警察がいつでも切れる切り札に『読心』があるというのが、本当の話だったとするならば、この状況に説明がつく。


 この男は、班長と呼ばれたこの男は。


 電脳の世界でのみ力を振るう、全ての心を覗き込む、究極の秩序の守護者その人であるのかもしれない。


 だと、したら。


 もう、詰みなのかもしれない。


「ま……待て! おい! そこの班長という男!」


 呼び声を受けた班長が振り返り、微笑んだ。

 他の者達は取調室を出て、外で彼の報告書を読みながらの方針会議式立ち話を開始している。


 地蔵のような、微笑み以外の顔のパターンが無いかのような、微笑む表情が少し不気味に見える。


「班長? いやいや、それは昔の肩書きさ。今はどこにでも居るVliverオタクだよ。推し50人くらいで年2回、周年記念と誕生日に1万円くらいの限定記念セット買って貢いでるふっつーのVliverオタク」


「警察庁と繋がってるただのVliverオタクなんているか!」


 にこり、微笑む。

 男は微笑む。

 この微笑みは対話の拒否だと、性犯罪者まで落ちぶれたその男の知性にも、明確に理解できた。


「いやあ、なんでもいるんじゃないかな。Vliverオタクなんて。大体の職種の人が揃ってんじゃない? 偏見は駄目なことだよ、おじさんさぁ」


「……っ。お前、覗いたな、僕の心を!」


「ええ~? どうだろうねえ~」


「とぼけるな! お前は……」


「オレはさぁ、人を楽しませられる人間ってやつを尊敬してて、その逆の人間を見下してるわけよ。だから警察の人に呼ばれたらすぐ行くわけ。今日も新しく始める仕事の準備を皆に任せて駆けつけたんだよ」


「……なに?」


「楽しませる善、ランクA。正義の味方、ランクB。悪の敵、ランクC。オレはそのまんまだとランクCにしかなれないんだけど、頑張ってる司法の人達に協力することでギリランクBになってるわけなのさ。本当はランクAになりたかったんだけど、なれそうにないまま歳も取ってしまったからね」


「な……なにを……」


「オレはお前みたいな奴が嫌いだから、お前みたいな奴の人生を台無しにする才能しか持ってないんだろうなって話さ。いい人達を笑顔にしたかったガキンチョは、大人になってクソ野郎を苦しめる才能しかないことに気付きましたみたいな話」


 娘の人生と未来を台無しにすることを何一つ恐れていなかった身勝手な男は、今、眼前にある微笑み一つを恐れていた。


 男の微笑みを見ているだけで、鳥肌が立ち、手足の血管が収縮して、感覚が朧気になっていくような錯覚が広がっていく。


「で、さ」


 微笑みの向こうには、紛れもない怒りと嘲笑、そして強い攻撃の意志があった。


「クソ女と結婚して、何の罪も無い娘を犯そうとして逮捕されて、女に対する性欲で2回人生失敗してるお前。死ぬほどダセェんだよね。何知的なITの社長ですみたいな顔してんの? ってかそんなすぐチンコに負ける脳味噌でよく今まで生きてこれたなぁ、って思ったかな」


「───っ!」


 ぽんぽんと、微笑みの男が、父親であった男の肩を叩く。


「逮捕されてからも娘を逆恨みしてたろう? わかるわかる、オレにはわかる。妻に虐待の罪状を大半押し付けて、弁護士の力で10年前後でムショから出て来るつもりだったよな? 娘から父をセックスに誘った疑いとかを裁判で述べるつもりだったよな? 弁護士に、裁判で、娘の前で、娘も悪かったんだと述べさせるつもりだったんだよな? 監護者性交等罪でも5年以上20年以下の懲役だもんなぁ。模範的な行動を心がけてれば保釈もあるもんなぁ。10年後なら、娘はちょうど25歳で、お前が奥さんに惚れたくらいの年齢だもんな。現状に絶望しながら、することでモチベーションを作ろうとするの、大したもんだと思うよ。大した悪だ。昔惚れた女が若い姿で戻って来てくれたことが嬉しかったんだなぁ。性欲もあるだろうけど、惚れ込んだものを自分のものにして、自分の自由にするのが好きなんだよな。支配欲が強いんだろう。オレにはわかるさ」


 ぽんぽんと、肩を叩いていた男の手指が、父だった男の肩に食い込む。強く強く、力を込めて。


「お前の刑期、増えてほしいよな。30年? 限界突破の40年? そのクソみたいなチンコが立たなくなって、ジジイになってもなお出て来れないようにしてやるよ。チンコの奴隷を辞められて嬉しいだろ?」


「……ぁっ……」


 潰れた虫の鳴き声のような音が、父であった男の喉から小さく漏れた。


 、微笑みの男は、司法という正義に自分の能力を貸している。


「ムショ出た後にオレのことを言い触らしても良いけど、よく考えようね。オレの存在と能力について誰もが知ることになったら、もしかしたら……オレの語ることが真実の内心だと皆が信じた後に、オレが君の一番恥ずかしい思い出話を、つい言い触らしちゃうかもだ」


 肩を掴まれたまま、男は無言で震え、頷く。


 少女より強い親という悪が、少女を虐げ。

 悪なる親が、それより強い秩序に潰される。

 それが世の常。

 皆が望む秩序が最後に勝つ構造が続いていなければ、社会などとっくに存続してはいないだろう。


 言い換えるならば、世の中の大半の人間が「こんな境遇の少女には救われてほしい」と思っているからこそ、こうした裁きが存在し、こうした救済が存在しているとも言える。

 社会は、構成存在の多くが多少なりとも善であるからこそ、維持されるのである。


 微笑みの男が取調室を出ると、微笑みの男よりいくらか年上の、おそらく50代ほどの男が苦笑していた。

 微笑みの男は微笑みで返し、そこに集った男達に聞こえるように、思考をそのまま述べる。


「あの男に傷付けられた子が、友達を作って、恋人を作って、幸せになって、何十年も幸せに生きて……それが終わるまでムショから出てこなければいいなと、オレは思ったりしてるわけなんでさ」


「頑張りますよ、ええ」


 男達の中で、検察から来た男が緊張した面持ちで胸を叩き、引き受ける。


「頼んだ。オレは心読めるだけだからさ」


「しっかし班長、ホント性格悪いな……」


「元班長だってば」


 微笑みの男は、自分のやるべきことをさっと終わらせ、後を託して去っていった。


 無限にも思える残酷が裁かれず残るこの世界でも、必要なものさえ揃っていれば、秩序は絶対に理不尽を倒すと、そう信じていた。


 数え切れないほどの醜い心を『読心』で見てきた男が、まだこの世界に失望せずに居られるのは、あの少女の境遇を知った司法の関係者が全て、あの少女を想って怒れる気持ちを胸に秘めているということを、自分の力で知っていたからだった。






 父同様、事情を聞くべく、車椅子の少女も電脳世界に連れて来られていた。


 とはいえ待遇は天と地の差で、取調室としか言えない部屋に閉じ込められた父と違い、娘が通された部屋にはソファーやベッドもあったし、テレビも玩具も飲み放題デジタル飲料もあった。


 そして、微笑みの彼が"子供に退屈な思いをさせたくない"という気持ちで、置いていったゲームもあった。

 ゲームをして待っていた少女は、ゲームを置いて行った微笑みの男が戻って来たのを見て、小さく手を振る。

 微笑みの男も、手を振り返した。


「ごめんねえ、ちょっとお仕事してたもんでさ」


「あ~、竹取のおじさん~」


「竹取のおじさん!? なんだいそれは」


「あんね~、最近見た新版のかぐや姫の竹取の翁が~、おじさんにそっくりなんだよ~。ちょっとまるっこいおじいちゃん~」


「そういうことか……」


「あと~、ここに来る前~、警察署で~、お腹がすいたわたしにたけのこの里をいっぱいくれたから~、竹取のおじさん~」


「オレはたけのこ布教戦士」


「なんかわたしもたけのこの里すきになっちゃったかもしれない~」


「おお、それはよかった」


「その美味しいお菓子、クラスのみんなみたいに食べてみたかったけど~、お母さんがあんまり許してくれなくて~。だから~、こんな美味しかったんだな~って~」


「……」


「美味しいことが~、ありがとうって感じです~、ありがとうございます~、竹取のおじさん~」


 過去はなくならない。

 虐待はなかったことにならない。

 心の傷が癒えるまでには時間がかかる。

 それでも、笑ってお礼を言う女の子が居る。


 奪われなかった微笑みが、そこに在るなら。


 "助けるのが随分と遅くなってしまった"と己を責める大人達の心を救う笑顔が、そこに在るなら。


 きっと、それだけでも。


 それに救われる名もなき大人も確かに居る。

 それぞれの物語の背景を探せば、そこに居る。

 誰もが辛いから。

 誰もが生きているから。

 そして、誰かが頑張っているから。

 誰かの頑張る人生が、どこかで誰かを救っている。


「……そうか、いいことだね。いやまあ別に何食べてもいいんだけどさ、子供は。他に食べたいお菓子とかない? ログアウト後にお土産に持たせられるけど……」


「あのたけのこの里だけでおなかいっぱいでしあわせです~、ありがとうです~!」


「そっか」


 優しげな微笑みを浮かべ、男は頭を掻く。


 『この子が何らかの形で手遅れになっていたら耐えられなかっただろう』と、男は自分の中に渦巻く感情を正しく言葉にし、気持ちの棚に収める。


 加害者も。

 被害者も。

 等しく彼が調べるべき対象だ。

 正確に事態を把握するため、父のことも、母のことも、娘のことも、彼は綿密に読心している。


 だから知っている。


 彼女の心、彼女の強さ、彼女の優しさ、彼女が夢見ている未来。


「お嬢さん、Vliverになりたいのかな?」


「なりたいですな~、だってなんかも~……あれ~? なんで分かるんですか~? 言ってないのに~」


「分かるとも。オレは今Vliverの事務所を作ろうとしてるからね。そういうのが分かる人間なんだ」


 男は、さらりと嘘をついた。


「え~!? 警察官さんだと思ってたらまさかの社長さん~!? すご~っ!」


 少女は素直に驚き、目をキラキラさせる。


「まだ凄くはないよ。これから凄くならないといけないものだからね。デビューしてからが本番で、長いんだ。Vliverってやつは……」


「おお~! 社長っぽいおことば~!」


「そんなに社長っぽくはないと思う」


「お父さんより立派な社長になってくださいね~」


「おっ、即死攻撃かな?」


 微笑みの男は、一瞬あまりにも返答に困りすぎた挙句に死にそうになってしまった。そのくらいには返答に困る一言だった。


「がんばって~、竹取のおじさん~」


「オレも竹取の翁みたいになりたいよ。竹を割ったらそこから皆にちやほやされる大人気美少女が出て来る能力とか生えて来ないもんかな」


「人集め大変ですか~」


「大変ですよ~。いやあ意外と炎上しにくい人気者集めるのって難しいなぁって思ったよ。多少は妥協できる人間だと思ってたんだけどね、自分を。炎上しやすい失礼な配信者の方が、面白いことを言いやすいってのは本当なんだろうねえ」


「炎上嫌ですか~」


「できれば、炎上しにくい色んな奴を集めた事務所にしたいなって思ってるもんさ。上手く行くかは本当に分からないけどね」


 微笑みの男は振りたい話題があった。

 その話題に繋げられるよう、妥当な話題から話を広げ、少女の緊張や不安を和らげるつもりだった。

 それだけのつもりだった、のに。

 気付けば、いつの間にか、話すつもりがなかったことまで話し始めていた。


 『伊井野いのり』が未来で発揮する、レスポンスのテンポと反応の柔らかさによる"雑談能力の高さ"は、もうこの時から発揮されていた。

 話が楽しいから、いのりの反応が良くて柔らかいから、どんどんと会話が広がっていき、話すつもりがなかったことまで話してしまう。


「オレは悪人をぶっ飛ばす才能はあったらしい。悪人に悪口を言う才能はあったらしい。ただ、それで他人を楽しませられるかって言うと全然だったんだよね。悪人を叩くとか、悪人を揶揄するとか、そういうのをやってて楽しいのはオレもそうだから分かるんだけどさ、それは空気を悪くする一方だったみたいなんだ」


「それはそうですよ~、気をつけないと~」


「そうだね。気をつけないといけないことだ。だからオレは……なりたい自分になれなかった方の人間だったと思うんだな」


「なりたい自分~……」


 話すつもりがなかったことを話す過程で、決して不快になることはなく、むしろ内心を言葉にした後の穏やかな心地良さだけが広がっていく。


「少年漫画じゃあないからね。悪人をぶっ飛ばす天才は、人々を笑顔にする天才じゃない。オレは悪人を否定するのが得意なんだけども、どうやら基本的に他人を否定しない人の方が、ずっと他人を笑顔にできるみたいなんだ」


「いいですよね~! 肯定~! 褒められるのすき~!」


「はは。君は得意そうだ」


「たぶん人並みです~」


 微笑みの男が、自分の事務所に欲しいのは。


 きっと、こういう女の子なのだ。


「オレが好きな小さな星空せかいは、オレじゃ作れないってことが分かったんだ。じゃあ、他の人に作ってもらおうと思ったのさ。まだ全然出来てないけど、事務員を揃えて、スカウトを任せて、プランナーに計画を立てさせて、マネージャーに環境を整えさせて、そこで『楽しい』を作る天才の人達にVliverをやってもらって、オレはそいつをずっと楽しんでいたい」


「わぁ……」


 少女の口から、感嘆の声が漏れる。


 男の願いが込められた、その名は。




「事務所の名前は『エヴリィカ』」



「名前の意味は、見つけること、見つけてもらうこと」




 誰もが見つけ、出会い、楽しい時間を共有し、共に生きていける場所を、創り出す事務所せかい


「罪だ罰だ、犯罪者だ法律だ、虐待だ被害者児童だ、殺人だ捜査だ、そんなクソつまらない陰鬱な出来事はうんざりだ。そういうもんを見て嫌な気持ちになってもとっとと忘れちまえるくらい、時代と世界に即した『楽しい』を延々と世界に流し込み続ける場所を、オレが作る」


 1人の男の願いから、その事務所は始まった。


「人生には『楽しい』だけがあればいいとは思わないかい? 『楽しい』だけの人生なんてありえないからこそ、そう思う。なぁ、お嬢さん。オレはそう考えてるから……お嬢さんがもしいつか、活動する場所が欲しくなった時、選択肢を増やせる切符をあげられるかもしれない」


 男は名刺を渡した。

 名刺には男の名が刻まれている。

 いつかの未来、出来上がった事務所の受け付けでこの名刺を提示すれば、少女は彼の星空せかいに迎え入れられるだろう。


 かつて、YOSHIと少女が出会った時。

 YOSHIは13歳、少女は12歳だった。

 今、YOSHIは16歳、少女は15歳になった。

 15歳に育ってしまったことで、少女は男性の欲情の対象となり、父からさえも狙われ、ともすればこれからも他の男に狙われてしまう可能性はあるかもしれない。


 けれど、育ったことでマイナスだけしか無いなんて、そんなことはあるものか。

 成長は、懸命に生きた反映なのだから。

 そんなことはありえない。

 少女は今、15歳。

 泣いているだけの子供を辞めた15歳。


「選択肢は、選んでもいい、選ばなくてもいい。あるだけで価値がある。だから良いんだ」


「……わたしが~、選んで決めるんだ~」


「そうだとも」


 もう、自分の人生を選んでいける。


 少女は、そういう歳になったのだ。


「もう家で君を待ち受ける敵はいない。好きに生きなさい、お嬢さん。ついでに好きなものを探すといい。好きに生きるということは、好きになれるものを見つけ続ける旅なんだよ」


「は~い!」


「オレが推してる配信者は……未来で笑え。君は勝っているLaugh at the future,You're winning.、なんて言ってたな。そんなもんでいいんだよ、人生なんて」


「ADAM'sさんだ~」


「おっ、同担か!? 出会ってしまったな、友よ。同じADAM's担当のリスナーとしてトークする?」


「残念ながら~、わたしはYOSHI推しで~。YOSHIが参加してるGhotiのリーダーのADAM'sさんをかっこいいな~と思っている女です~」


「なにっ……いい趣味してるな、その歳で。一流のGhoti推しとお見受けする」


「ADAM'sさんがすきってことは~、竹取のおじさんはかっこいい女の人がすきなんですね~。背が高くて~、がっしりしてて~、強くて~、体を張って仲間を守る女の人~。慕われる強さを備えたリーダー~」


「ちょうすき」


「へっへっへ~、竹取のおじさん~、今日からはおじさんもYOSHI推しに加わるのだ~。かっこいいところ教えたげるよ~」


「なんだって……!? 来い! 聞かせろ!」


 だから、1つの言葉だけで、彼女の人生を表すことは間違いになるのだろう。


 『彼女は幸せにしてもらった』。

 出会いがなければ、彼女は救われなかった。

 他人が彼女を幸せにしてくれた。

 けれど、それだけではない。

 その1つの言葉だけでは足りない。


 『彼女は自分で幸せになった』。

 自分で選んで、自分で進んで、自分で頑張り、自分が望むまま願うままに人生を進んでいった。


 彼女はそうして親から取り戻し、自分自身を、自分の人生を、自分の物語を、自分だけのものにした。


 他の誰かの所有物じゃない。


 他の誰かのおまけじゃない。


 他の誰かの飾りじゃない。


 皆と一緒に生きていく、自分の人生を。


 "これがいい"と決めた、自分の人生を。


 誰かに寄り添い、笑顔で居る人生を。


 これまでも、これからも、歩んでいく。


 そんな彼女の光に惹かれて、今日も配信に人が集まる。






 そして、2055年から2059年、4年が経って。


 少女は憧れと並び、同じことに打ち込んでいる。






「なあ、いのり」


「なんですか~せんせ~」


「さっきからコメント欄に見えてるあの色付きのやつはなんだ。赤とかのやつ」


「あれはね~、投げ銭スパチャ~。ありがたいことに誰かがお金で支援してくれたっていう表示~。ログイン中は『見たい』と思ったら開いてコメントとかが見れるよ~。『1時間前のあのスパチャ見たいな』とか念じれば~遡っても見れるよ~」


「なるほど、分かった。どれどれ」


 ピコン、と音が鳴った。


「あ~、今新しいの来たね~」


「それ見てみるか」


 YOSHIがいのりにビルドスキルを教えつつ、初めての機能を使って、スパチャのコメントを開いてみたところ、そこから。



●Oh社長@エヴリィカCEO

 ¥50000

 YOSHI先生に初赤スパ失礼します。いのりさんもここまでお疲れ様です。見たいものが見れました。ありがとうございます。推しと推しが絡む姿、最高です。いのりさんの雑談、相変わらず癒やされます。そこに加算されたYOSHI先生の味、相乗効果がバチクソに最高でした。自分は、自分が知ってるすごい人とすごい人が絡んで、どういう会話をするのか、それを知っただけで……もう……最高でした。これからも応援していきます! 4年ずっとYOSHI先生激推しです!



 いきなり、知っている名前が飛び出した。


 エヴリィカ社長、大奥大次郎。

 かつては無数の名を持つ男だったが、今はそう名乗る。

 所属Vliverのアホの娘から大奥おうおうと呼ばれ、それが愛称になり、次第にOh社長と誰からも呼ばれるようになった男。

 醜い世界に疲れただけの天才オタク。


 YOSHIの仕事相手のトップが、そこに居た。


「……」


「あはは~、竹取のおじさんだ~」


「いのり」


「なに~」


「おたくのとこの社長?」


「オタクの社長だね~」


「社長がスパチャすんな」


「うちの社長さんは~、エヴリィカのVliver全員推しのオタクなんだよ~」


「そうなのか……性格が悪いみたいな噂話を聞いてたが……なんか……なんか違うな……なんだこれは……」


「悪い人かもしれないけど変な人だよ~」


「悪い人ではあるかもしれないのか……」


「推しに迷惑コメントをした人の人生が訴訟でどうなっても一切気にしないタイプのオタクだよ~。弁護士さんにすっごく開示請求させてる人~。あんまり他人を許さないおじさんかな~」


「まあまあ程度に悪い人だな」


________________

□いのりへのコメント~▽   ︙

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

○お草

○Oh仕事しろ

○また社長が生えてる

○社長は給料で払いなよぉ!

○YOSHIも推してるとか節操ねっすね!



「竹取のおじさんは~、いつも事務所の控え室にね~、たけのこの里をいっぱい積んで行くんだよ~、積めば積むほど良いと思ってるんだ~。でもね~、きのこの山派の人も居て~、真面目なマネージャーさんもたけのこテロは迷惑行為だって言ってるから~、1日に何度も崩されてるんだ~」


「賽の河原か?」


「勘が鋭い人で~、自宅収録の声とかの提出物やってなくて~、やってないことをごまかそうとして『やったんだけど間違って消しちゃいました』って言うと~、一分間に20回くらい"ふーん……"って言ってくる~」


「夏休み明けの担任か?」


「あと~、仕事しすぎ座りすぎで今月痔になったんだって~」


「配信中に言うな! 配信中に! 言うな!」


 ピコン、と音が鳴った。



●Oh社長@エヴリィカCEO

 ¥50000

 いのりさんは可愛いですね。誤解しないでほしいのですが、今の発言で自分は不快感を持ってません。むしろ推しに配信中にいじられることの喜びを抱いています。いのりさんの発言で傷付いたこと一度もないですよ自分。ところで皆さん二週間後に配信開始予定のいのりさんの新曲MVの視聴予約は入れましたでしょうか。最高でしたよ。マジの最高。すみませんね社長で、1人だけ先に見てしまってて……



「あんたは! 銭を! 投げるな!」


「竹取のおじさんありがと~」


 ピコン、と音が鳴った。



●Oh社長@エヴリィカCEO

 ¥50000

 見てくださいよ皆さん。こんないい子で……ありがてえよなあ……こんな子が、エヴリィカで、Vliverやってくれてる……ありがとう、来てくれて、そして生まれてくれて……月に帰ったかぐや姫でも輝く一番星になってるいのりさんには敵わねえ……リスナーの皆さんもさ、いのりさんを推してくれてることが、最高にあったかいっていうか……同じものを好きになってくれた人がこんなに居ることが、嬉しいっていうか……自分はリスナーさんにもいつもありがとうって言いてえんです



「銭を!」


「おじさん~、もう深夜だから健康のためにはやく寝て~」


「いいぞいのり、そのまま止めろ!」


________________

□いのりへのコメント~▽   ︙

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

○エヴリィカはもうだめだ

○エヴリィカ始まったな

○社長! ……社長っ!

○また酒飲んでるなこいつ

○この人いつも感動してませんか

○明日の朝にまたどうでもいい謝罪文出すの?



 画面の前で、誰かが呆れた。


 画面の前で、誰かが吹き出した。


 画面の前で、誰かが笑った。


 昨日も、今日も、きっと明日も。











 オレが主役になるこたない。


 社長は主役にゃならないもんさ。


 楽しい場所で、楽しい奴らが踊っているのを見ていたい。


 推せる奴らが本気でやって、勝ったり負けたりするのをずっと見ていたい。


 主役の横で、好き勝手駄弁って、好き勝手推していてもいい、自由な場所で遊んでいたい。


 そういう場所を作りたい。


 クソな奴らは嫌いだね。

 死んでくれとさえ思う。


 世界が醜い?

 構わない。

 人が醜い?

 構わない。

 そんなら、ここに光を集めりゃいい。

 『楽しい』を創る人達を、オレの趣味で集めるだけさ。


 さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。


 彼を、彼女を、見つけてみてくれ。


 見上げる光、見上げる星。


 オレが見惚れた星を集めたプラネタリウム。


 よければ推していってくれ。


 ここがオレの見つけた星空エヴリィカだ。

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