西暦2052年8月第1週日曜日 2

 東京大会の優勝者はYOSHIに決定した。

 MIROKUのスキルセット策は入念な研究によって展開され、完璧な形でYOSHIに刺さり、その強みを完全に潰す形で機能した。


 だが、"準備段階での読み合い"でYOSHIが勝った。

 細かい経緯をすっ飛ばして結論から語れば、MIROKUは完璧に『YOSHIの対策』を完了させた。そしてYOSHIは『YOSHIの対策をしていたMIROKUの対策』を完了させていたのだ。


 MIROKUは『YOSHIの対策をしていたMIROKUの対策をしていたYOSHIの対策』をしていなければ勝てなかったのだが、3つしか使えないスキルセットではそこまでケアすることができなかったのである。


 全ての状況をケアするスキルセットは存在しない。

 プレイヤーはどこかで決め打ちをする必要がある。

 そして事前の読み合いにおいて、YOSHIがMIROKUを上回った。それが勝敗を決したのだ。


 が。


「綺麗だったなぁ~……」


 車椅子の少女にとって、そんなロジックは興味が無かった。

 彼女は戦いのロジックを学びに来たのではない。

 美しいものを見に来たのだ。


 試合の仕様も、撃墜によるポイントの計算式も、YOSHIとMIROKUの超人的な読み合いも、少女には理解できない。

 ただ単純に、美しい方が勝ったように見えた。

 それだけが感想だった。


『18:00に会場は閉め切られます。お忘れ物ありませんよう、お気をつけ下さい。試合の観覧、競技の観覧。皆様が楽しめていただけたなら幸いです』


 アナウンスを聞いて、少女ははっと我に帰る。


 祭りが終わった。

 楽しい時間が終わった。

 まばゆい夢のような世界から、何一つ楽しいことが無い現実に放り出される。


 学校の文化祭で、地元の公園のお祭で、人気アニメの最終回で、週刊連載のグランドフィナーレで、全てのキャラが好きになれる名作ゲームのエンディングで、誰もが一度は感じたことがある、皆で最高に盛り上がった後の、「もうここで終わりなんだよ」と突きつけられる感覚。

 満足感があって。

 寂しさがあって。

 悲しさがあって。

 『終わらないで』という気持ちが満ちていく。


 少女は少しの間、その場から動けなかった。

 周りの人達が皆席を立ち、歩き出して帰路についても、少女は動けない。

 少女に、帰りたい現実などないのだ。


「……ぅっ」


 足先から血の気が失せていくような感覚があった。

 指先が震えている。

 心臓は徐々に早鐘を打ち始めているのに、巡る血は冷ややかで、心まで凍ってしまいそうなほど。

 どうか終わらないでほしいと、少女は祈る。


『18:00に会場は閉め切られます。お忘れ物ありませんよう、お気をつけ下さい。試合の観覧、競技の観覧。皆様が楽しめていただけたなら幸いです』


 けれど、自動アナウンスが無情に流れる。

 だから、出て行くしか無かった。

 ここは、彼女の居場所ではない。


 彼女がずっと居ていい場所ではない。

 楽しいひとときは終わったのだ。

 指先1つも動かしたくない少女が車椅子のボタンを押すと、AIで制御された車椅子が動き出す。


 道中、元気な女の子とその家族とすれ違った。


「やから母ちゃん、姉ちゃん! うちも惜しかったんやってー! うちかてあともーちょっとで勝てたよーな気がするー!」


「知らんわ」


「はー、でもあの念動力とかいいスキルなんやなー。練習したらうちにも使えんかなー?」


「会場閉まるまでここ使えるらしいでー、フルダイブして練習に使わせてもらうとかどうやー」


「ちょっと休憩してからやるー!」


 幸せそうな家族の姿。

 愛してくれる母と姉。

 楽しい現実の日々の合間に、楽しいイベントを迎えた子供特有の、何一つ陰りのない笑顔の少女。


 俯いていた車椅子の少女は、すれ違った少女の顔をよく見ていないので覚えていない。声さえも覚えていない。ただ、何の悩みもなさそうなその子の姿に、「いいなぁ」と思ったことは覚えている。


「……あ」


 帰り道、キーホルダーの個数限定無料配布が行われていた。

 集まった人間が多すぎて、近場のテナントカフェが待機所として解放されていた。

 待たされているはずの者達はカフェで楽しげに談笑し、カフェの店員達はいつも以上に多い客足に嬉しい悲鳴を上げている。


 カフェの座席数は相当に多く、大量の客を抱えてもなお座席には余裕があった。

 少女はカフェの隅のテーブルにつく。

 注文を受けるのに大忙しな店員は、車椅子の少女が店に入って来たことに気付いてもいないようであった。


「……ふぅ……」


 少女は自覚している。

 これはただの逃げ。

 時間稼ぎだ。

 "キーホルダーを貰うため"という理屈をつけて、すぐに帰らない理由を捻り出しただけ。


 虚無に等しい延長時間。

 ただただ思考を停止して、終わってしまった楽しい時間に思いを馳せる今。

 現実から逃げるためだけに、夢の淵、夢の端で、みじめに哀れに夢の時間にしがみついている。


 楽しげな声が場に満ちている。


 誰もが笑い、誰もが1人でないカフェの中で。


 少女は1人で、泣きそうだった。


「……っ」


 境遇が敵で。

 家族が敵で。

 現実が敵で。

 明日が敵で。

 希望などあろうはずもなく。


 不幸は地獄だった。

 孤独は苦痛だった。

 障害は絶望だった。

 家族は天敵だった。

 人生とは、幼い子供に耐えられるものではない。絶対に。


 少女は願う。


 いつか誰かが、願うならみんなが、わたしを見てくれたら───みんなと一緒に楽しい時間を過ごせたら───みんなって、誰?───わたしを見てくれる"みんな"の顔なんて、想像もできない───それでも、1人は嫌だ───どこかの誰か、知らない誰かに、見つけてほしい───でも本当は、誰か1人でも私を見てくれたら───わたしを、1人にしないで。


 そう思えど、願いが叶うことはない。


 生まれた時からずっとと向き合わされてきた少女は、この先の人生に良いことがあるだなんて、まるで思えなかった。


「……ぁ……」


 だから彼女は、これから先何年も、きっと死ぬまで、この日を思い出し続ける。


 彼女の人生に運命の日があるとしたら、この日以外はありえない。


「隣の席、いいか」


「え?」


 少女の返答も聞かず、声をかけた少年が隣の席にすっと座った。

 パーカーのフードを被った少年の顔は、周囲の誰にも見えやしない。

 少年と目を合わせた車椅子の少女以外には、と頭につくが。


 それは、風のように来て、風のように去って行く、彼女にとっての星だった。


 いつでも、どこでも、誰が相手でも、全てぶち壊しながら突き進んでいく風の星。


「よ……よよよよ」


「名前は呼ばないでくれ、騒ぎになりたくない」


「は、は~、はいっ!」


 それは、紛れもなくYOSHIだった。

 先程まで試合をしていた少年。

 今日も大会を優勝した少年。

 少女の憧れの人。


 予想外の出会いは混乱を叩きつけ、少女の心臓をバックンバックンと跳ねさせ、先程まであったはずの暗い思考を欠片も残さず吹き飛ばしていった。


 何故かいつでも、YOSHIはそこに居るだけで、この少女を苦しめるものを吹き飛ばしていく。


「うちの姉さんが世話になったそうだな。探したぞ」


「え? ……あ~」


 少女の脳裏に蘇る、圧と厚みで出来上がっていた、強さの塊のようだった迷子の金髪女性の姿。


「感謝したい。俺が試合で抜けられなかった間に、うちのチームのリーダーを助けてくれてありがとう」


「そ、そのためにわざわざ~?」


「探すだけならタダだ。見つかれば礼を言う。見つからなかったら諦める。それだけだ。見つかってよかったとは思っている」


「え、えと、あの、そんな~、当然のことというか~」


 あたふたする少女の顔を、YOSHIが覗き込む。


 黒い目。

 深い色。

 真っ直ぐな視線。

 瞳に薄っすらと反射する少女の姿。


 少女の心臓が強く跳ねて、少年は納得した風に少し離れた。


「ああ、君だったか……奇遇と言えば奇遇だな」


「ふえ? あの~、どこかで会いましたっけ~?」


「いや、今日が初めてだな。観客席に居た子だろ?」


「はい~、居ました~」


「そうか」


 YOSHIは背負っていたバッグの中から、四辺15cmほどの正方形に見える箱を取り出した。

 それを少女に手渡そうとする。

 箱の表面には、非常に格式ばった模様、会社のマーク、そして商品名が刻印されていた。


 どうやら、耳に装着するだけで最上級のPCと同じことができるようになる、最新型のインカム式ハイエンドデバイスであるらしい。


「こいつをやる。今回の東京大会のスポンサーが優勝賞品として提供してたインカムだ。そんじょそこらの高性能PCよりはずっと性能が高い。できないことはあまり無いはずだ」


「え……!? あ、あの~……貰う理由がないです~」


 少女はびっくりして、反射的に拒絶した。


 YOSHIは淡々と、思うことを述べていく。


「半分は身内を助けてもらった礼、もう半分はお前が持っておくべきものだからだ。貰った後にお前がどうするかまでは知らんがな」


「持っておくべきもの~……?」


「お前は天才だ」


「……え」


 生まれて初めて天才扱いされて、少女は更に重ねてびっくりした。


「そ、そんなこと~」


「なんで、試合終了まで19.5秒のところで、周りとは逆の方を向いた?」


「へ」


「俺はそこまでの十手で意識を誘導した。そこまでに使う技と立ち回りを選別し、『この流れならこう来る』という思い込みを植え付けた。野球で言う、『2球連続ストレートで2ストライクの後にストレートを投げるか? カーブを投げるか? 一度も投げてないフォークを投げるか?』の理屈だ」


 それは、本物の才人にしか嗅ぎつけられない、未開花の才能の気配。


「おそらくは、MIROKUの意識も、観客の意識も誘導できていた。そして風で土煙を起こして視界を塞ぎ、全員に『この流れならこう来る』と反射的に思わせて同じ方向を向かせた。そして反対側から攻めて仕留めた。極めて短い思考時間で、反射的に『こう来る』と思ってしまった時、人間の脳は考え直す余裕を持たない。誰であれ意識の誘導に気付くのはMIROKUの首が落ちた後のはずだった」


 YOSHIの指が、少女を指差す。


「俺はMIROKUの首を刎ねた直後に周囲を見渡して記憶した。観客席で、俺が誘導した方を見てなかったのはお前だけだ。なんで俺が騙しを入れて仕掛けた瞬間、俺が居た方に目を向けられた?」


「え、えと……」


 YOSHIの問いかけに、少女はすぐに答えられなかった。

 『言語化』は、子供の頃は特に難しい。大人になってもできない者はそれなりに居る。子供達はこの技能を高めるため、作文などの課題を先生から与えられるのだ。


 憧れを前にした緊張、慣れない思考に、"相手が答えを待っている"という状況から来るパニックが重なり、言葉が出て来ないのに少女の呼吸が荒くなっていく。

 どう言えばいいのか分からなくなって、次第に何を言えばいいのかも分からなくなって、段々と喋り方さえも分からなくなってしまう。


 そうしている内に少女は俯き、黙り込んでしまった。

 会話の中で圧力をかけられたような気持ちになると、実際に話相手から圧をかけられていなくても、少女は何も話せなくなってしまう。

 今日までの日々の中、こうなってしまった娘を母親が怒り狂って叱り、そのせいで少女には黙りこくって逃げる癖がついてしまった。


 どうしていいか分からなくなったら、黙ってしまう。黙りたいわけではないのに。ちゃんと会話をして、返答を返したいのに、できない。


 「このままじゃ怒られちゃう」と一瞬でも思ってしまえば、話相手が少女を責めていなくても、自動で脳内にいつもの母親の声が蘇ってくる。


 それは、幼少期から絶え間なく刻み付けられ続けた傷だった。

 傷の数だけ、心は抉られている。

 傷の数だけ、言葉が深く刺し込まれている。


───なんで黙るのあんたは

───黙ってればいいと思ってるの

───何か言ったらどうなの、ねぇ!

───親に口答えするな!

───言い訳なんて恥ずかしいと思わないの

───あなたが悪い。母親として恥ずかしいわ

───なんで普通に生まれて来なかったの

───出来損ない

───話してるだけでイラつくから喋らないで


 少女は、覚えている限りでは、4歳の頃からもうずっと母親にそう叱られてきた。

 何をしても怒られる。

 怒られるとどうしていいのか分からなくなって、黙りこくってしまう。

 黙ったせいでもっと怒られてしまう。

 そうして母親に叩かれて、しばらくしたら怒られるだけの時間が終わる。ずっとそうだった。


 だから少女は、叩かれると思って俯いていた。

 顔を上げれば、怒った顔がそこにあると思っていた。

 自分はまた許されないのだと、何の根拠もなく確信していた。


 "YOSHIにも嫌われた"と思うだけで、少女は涙が零れ落ちそうになってしまう。

 ようやく見つけた星。

 辛い気持ちを晴らしてくれる風の星。

 憧れの人。

 そんな人にまで失望され、呆れられ、嫌われ、許されない。そんな自分が嫌で嫌で、少女は大声で泣き出したい気持ちになってしまう。


 けれどもそこで、コトッ、と音が鳴った。

 釣られて顔を上げると、少女の目の前にはジュースのコップが置かれていた。


「……?」


 プラスチックのコップにたっぷり入った、ちょっと炭酸でシュワシュワしているオレンジのジュース。

 どうやら少女が俯いている間に、YOSHIがオレンジのジュースを店頭で買ってきて、それを少女の前に置いたようだ。


「オレンジは嫌いか」


「え? う、ううん、嫌いじゃないよ~……」


「そうか」


 YOSHIは、いつも通りに淡々としていた。

 引いていない。

 見下していない。

 バカにしていない。

 かつ、少女に何を飲みたいかを聞くこともなく、何を買ってくるかを自分の判断だけで決め、どこか悠然として、どこか自分勝手なその在り方が印象に残る。


 極めてフラットに、限りなくズレた感性で、何事も無かったかのようにYOSHIは少女に話しかけた。


「よく考えて話す奴だな。偉いぞ」


「……え」


「俺はよく考えず発言して知らん内に他人に恨まれることが多いからな。羨ましい」


 YOSHIは、素直に感心している風だった。


「お前は、相手を不快にさせるのが嫌だから言葉を選びに選ぶ、優しい奴なんだな。素直に感心する」


「───あ」


 言葉が、響いた。

 少女の胸の奥の奥、その奥まで。

 染み渡るように、言葉が響いた。


 『わたしを見つけてくれた』と少女は思った。

 『それがわたしだったんだ』と少女は思った。

 『この人は、わたしをそう見てくれるんだ』と思って、少女は服の胸元をぎゅっと握る。


 何か、重荷が降りるような感覚があった。

 何か、いくつもの枷が外れる感覚があった。

 何か、心が軽くなるような感覚があった。


 それと同時に、口がすらすらと動き出す。


 "嫌われるかも、怒られるかも"という気持ちは、何故か彼の前でだけは、微塵も湧いてこなかった。


「なんだか~、変だな~、って。1つだけピースが嵌ってないパズルみたいな~、空っぽのはずの箱に何かが詰まってそうな予感みたいな~、あと一筆書き足したらもっと綺麗になる絵みたいな~、床に違和感があって~這ってたら手でちっちゃい石を踏んじゃってめっちゃ痛いみたいな~」


「違和感? 『無い違和感』と『有る違和感』か?」


「……あ~、そうかも~、そういう感じ~」


「才能だな」


 YOSHIは納得したように頷き、改めてハイエンドインカムの箱を少女に渡そうとする。


「やはりこいつはお前が使うべきだ」


「で、でも~こんな高そうなの~」


「高そうじゃない、高いんだ。だが俺には要らん。デバイスは間に合ってるから、使い途がねえからだ。ぶっちゃけ大会の賞金も要らんからお前にやりたいくらいだ」


「え、え~~~……」


 YOSHIは昔から一貫して、大会に挑む過程で自分の可能性を試すことにしか興味がなく、大会を優勝して得たものを他人に譲ることに頓着が無い男だった。


「……あれ」


 少女の視界に、YOSHIの首から下がっている剣型ネックレス式フルダイブコンピューターが映る。

 何度か改修した跡が見られる、おそらくはハンドメイドの高性能デバイスだ。


 ハンドメイド品は外装を接着されたタイプの既製品とは違い、中身をアップデートしていく限り、ずっと時代に合わせて性能を上げていくことができる。

 加えて、ハンドメイドな分、愛着が湧く。


 そのネックレスを作ったのが誰なのか、少女には分からない。

 ただ、それをYOSHIが大事にしていることは、ネックレスに触れる手付きからなんとなく理解できた。

 愛着が湧いたデバイスがあるなら確かに新しいデバイスなんて要らないだろと、少女は内心で納得する。


「お前には、"なんとなく"で他人が気付けない凸凹に気付く才能がある。それが気付かせるのは俺の意識誘導だったり、絵の中の改善点だったり、誰かが隠した苦しみや悲しみだったり、普通は気付けない流れのズレだったりするだろう。それは洞察力とは違う、直観的な『創造性』の萌芽だ」


「そーぞーせー~……」


「お前のそれは、他の誰にも生み出せないものを生み出せる資質。見つける力はただのおまけだ。歴史に残る芸術家の目に、普通の人とは違う看破力が宿る事例と似ている。最初に自然から芸術を見つけた原始芸術家の能力だ」


 YOSHIは、自他の可能性に敏感な天才である。

 天才だからこそ察知できた、天才の萌芽がここにあった。

 彼女もまた、天才だった。

 世に出ないまま、親にゆっくりすり潰されて行く可能性もあった、恵まれぬ天才。


 火がまだ見つかっていない大昔で火を見つけたのはこういう子なのだろうと、YOSHIは思った。


 ここで2人が出会えたことは、偶然か、奇跡か。


 あるいは、運命か。


「お前は何になってもいいぞ、別に。ポシビリティ・デュエルで戦えとかそういうことを言いに来たわけじゃない。どうせお前がその才能を、その可能性を伸ばしていけば、俺達はまたどこかで出会うだろう。その時、俺がお前の得意なジャンルで挑戦して自分の可能性を試すこともあるかもしれない。絵画か、彫刻か、はたまた試合か……」


「え」


「実際やるかどうかは知らん。だが、お前が俺より遥かに偉大で強大な人間になることを俺は望む。だからこれは、一種の投資でもあるのかもしれん」


 少女の息が詰まる。

 褒められ、認められ、期待されている喜び。

 そして、それを塗り潰して有り余るほどに大きな、障害を持つがゆえの劣等感と自己嫌悪。


 インカムの箱に伸ばしかけた少女の手が、怯えと共に引き戻される。


「……無理だよ~、わたし~、お母さんにもずっと駄目な子って言われてて~、ずっと何も出来ない出来損ないで~、頭も悪くて~、足も……足も動かなくて~、人間未満ってお母さんに言われてるから~、きっと貰っても何もできないよ~」


「そのデバイスさえあれば、四肢も五感も要らない。全て抉り取られた達磨のような人間でもポシビリティ・デュエルか何かをやって最強になれる。たかだか手足が揃っている程度のアドバンテージで勝ち続けられるほど、世界ってやつは甘くない」


「でも~……」


「必要なのは、それだけだ」


 YOSHIが指差した先は、少女の胸の中心。


 そこには脈打つ心臓と、宿る魂がある。


 誰の中にも、等しく心臓たましいはある。


 負けるか、と動き続ける心臓たましいが。


 少女が泣いた時も、殴られた時も、絶望に満たされていた時も、諦めていた時も、挫けていた時も、その心臓たましいは「こんな現実に負けてたまるか」と、鼓動を打ち続けていた。


「必要、なのは……」


「お前が自分の可能性を信じて、自分の可能性を試すために踏み出せるかどうかだ。何があろうと歯を食いしばって戦う人生を選べるかどうかだ。俺は今日、お前に可能性を見た。だからこれをお前に渡したい。それだけだ」


 YOSHIが再び、箱を差し出す。


「あの~……こんな話~……聞いてても楽しくないと思いますけど~……でも~、たぶんそうじゃないと~、分かってもらえないかもなので~……」


 それは説明か。弱さか。甘えか。

 ぽつりぽつりと、少女は自分の家族のことを語り始めた。


 YOSHIにとってこの少女は、他の人間に無い可能性を秘めた天才の雛。それ以上でもそれ以下でもない。つまるところ、まあまあどうでもいい存在だった。

 YOSHIはどうでもよくない人間の辛い過去話を聞くのは気分が悪くなるから嫌で、どうでもいい人間の辛い過去話はどうでもいいから普通に聞ける、そういうタイプの人間である。


 どうでもいい女のどうでもいい虐待話を、YOSHIはどうでもよさそうな顔で聞き、聞いた内容に真剣に向き合い、自分なりの答えを口にした。

 その姿勢には、身内を助けてくれた少女に対する感謝も多分に含まれていた。


「なるほど。分かった。警察の番号は分かるか?」


「分かってない~、そういうのを望んでるわけじゃないんです~」


「そうか……」


 YOSHIは無表情なままシュンとした。


「だが、やはりお前はこれを受け取っておけ」


「えええ~……」


「俺はお前の可能性を信じるに足ると思った。我が子の可能性も見抜けないくだらない大人と、俺と、お前はどっちを信じる? どちらの言葉を信じてもいい。お前の可能性じんせいは、そこで決まる」


「……それは~……」


「率直に言って、俺は子を虐待する親が嫌いだが、助かろうとしないやつも好きじゃあない。自分の可能性を見捨てる奴は、いつだって自分自身だからだ」


「……」


 2人の間には、1つの箱。


 道具が入っているだけのただの箱。


 受け取ったからと言ってすぐに何かが変わるだなんて考えられないし、その道具を使って何をどう変えればいいのかも判然としない。


 なのに、何故こんなにも『これを受け取る』ことが大事なことであるように思えるのか、まだ自分の才能を自覚的に扱えていない少女には、てんで分からなかった。


「お前が決めろ。俺は自分で決められない奴に興味はない。……この世界には無限にも思える数の正しさがある。ほとんど全ての人間が正しさを語っている。お前の親もそうだ」


「え……お父さんと~、お母さんも~……?」


 少女の現実認識は、幼い頃からの虐待に等しい日々の中で歪み、親に対する信頼は幾度となく裏切られながらも絶対の信頼と成っている。


 いや。

 絶対の信頼である、はずだった。

 少女は全てを『わたしが駄目で悪い子なのがいけないんだ』で処理する子供であるはずだった。

 それが親にとって最も都合のいい子供の形だったから。


「お前の親は自分が正しいと思ってる。正しい躾をしていると思っていて、それが娘の愚かさに対する正当な怒りによるものだと思っていて、娘が間違っているだけで自分は間違ってないと思ってる。『親は子供を苦しめてはならない』みたいなことを言ってる他人の正しさなんて意にも介さない人種だ」


「……」


「お前の親は、『親の正しさを盲信する』子供の弱さを利用してる。お前の敵だ」


 だが、それも今日までの話だ。


 少女の中で、生まれて初めて見惚れた星の王子様の言葉は、ともすれば親の言葉よりも重いものとして扱われる。


「でも~……お父さんもお母さんも敵だと~、誰も~……誰も……わたしの味方が居なくて~……1人ぼっちになっちゃう……1人は、嫌だよ……」


「お前が居る」


「え?」


「誰がお前に何を言おうと、お前だけは永遠にお前の味方をしてやれる。お前が味方をした、お前の中にある何かの願いが、お前だけの正しさだ。親だろうとそれは奪えない。人はそれだけあればいい」


「それは~……強い人だけの理屈だよ~……」


「お前には無理なのか?」


「……わかんない~」


「そうか」


 少女は、YOSHIの地金の強さの理由を垣間見た。

 この少年はどんな時でも、自分で自分の味方をしているのだ。

 確かに、揺るぎなく。


「俺はお前の味方をしてやる理由は特に無いが、お前にはお前の正しさを掲げて他人を否定し、他人を倒す権利がある。お前は親も、俺も、自分の正しさの味方をするために否定してブチ倒してしまって全然構わない。お前だけはどんな時でもお前の味方をしていいからだ」


「……あなたも倒していいって~?」


「好きにしろ。お前がそうしたいと思って、俺を倒せる強さが手に入ったらいつでもやればいい。だが、気をつけろよ」


 YOSHIは噛み締めるように言葉を紡ぐ。


「お前がこれはできない、無理、って決めるのはいい。お前の選択がお前だけの正しさになる。だけどな、人生ってのは全て、最後に自分で責任を取らなきゃならない」


「……」


「親が『こう生きなさい』とか言って。教師が『この進路がいいぞ』と言って。周りの大人が『こうすると統計的にいい』と言って。知らん人間達が『成功した人間が居ないからやめときな』と言って。それに従って"じゃあわたしにはできないんだなぁ"とお前が思った後、そいつらは誰1人としてお前の人生に責任なんか取っちゃくれない。絶対にだ」


「……ぁ」


「分かるか。からだ。親の言いなりのまま『わたしなんかにはできない』って思ったなら、それは最悪お前を殺すだろう」


 それは、もしもの"このまま何事もなく進んでしまった人生"の先において、少女を待つ『必然の未来』。

 大人に都合の良い操り人形になった子供の末路。

 YOSHIが当然のこととして語ったそれは、その少女の人生において、最も大事な指針となった。


 できるか、できないか、ではない。

 無限の正しさの海で溺れるか、もがきながらも何かを自分で選び取るか、そのどちらかなのだ。


 そうして初めて、人は自分の正しさに自分で味方することができる。

 自分だけでも、自分の味方になることができる。

 その考え方は、親が押し付けてくる歪んだ正しさに立ち向かうために、必要な考え方であった。


 YOSHIは、"社会という名の正しさの海"の中を泳ぐ方法を知っている。

 それを他者に教えることができる。

 教えられた者達は、溺れずに生きていける。

 皆がそれぞれの形で、海を泳いでいく。


 まるで、夢物語の魚のように。


「好きなことをして、キツい鍛錬をして、自分の可能性を磨き上げろ。今の人生が嫌なら、そいつをブチ抜くくらい人生をぶつけろ。人生が台無しになったら全部自分の怠慢のせいだと思うくらいで良い。それで駄目なら、別にとっとと死んだって良い。欲しい人生が手に入らなかったら死ぬやつなんざごまんと居る。生きるために、人生を懸けろ」


「……駄目だったら、死んで、いい……?」


「いいぞ。だが、繰り返すが、俺はお前の未来の可能性に期待してこいつを渡すつもりだ。お前が死ぬと……そうだな、期待外れかもしれない」


「……あはは~! ひど~!」


 今日初めて、少女が大笑いした。


 なんだかとても楽しそうに笑っていた。


 "上手く行かなかったら死んでもいい"という彼の言葉はどこか酷薄で、どこか他人事で、どこか優しかった。

 『辛くても頑張って生きろ』と言わない慈悲があった。

 その言葉こそが、少女の救いになった。


 駄目だったら死んでいい、それでいいのであれば、がむしゃらに人生の全てを懸けられる。

 いつでも死んでいいと教えられたから、いつかどこかで死ぬまでの間、全力を尽くして生きられる。


「ありがと~、YOSHIさん~」


 YOSHIが手渡そうとしていたハイエンドインカムの箱を、少女はようやく笑顔で受け取った。


「忘れるなよ」


 YOSHIは箱を手渡し、最後の言葉を告げる。


「お前の人生は、お前の命より重いことを忘れるな」


「──わたしの、人生……」


「命のために人生を台無しにするより、人生のために命を懸けた方がいい。お前の親はくだらない人間だと思うが、お前はくだらない人間になるなよ」


 YOSHIは立ち去って行った。

 風のように現れて、風のように去って行く。

 その場に、星のように瞬く気持ちを残して。


「わたしの可能性~……できないと決めるのはわたし~……わたしの~……人生……」


 少女はYOSHIの言葉に感銘を受け、じんわりとした感動を覚え、人生が変わるほどの衝撃を受け、そして。



───弟みたいに思ってる子が居るとしてさぁ、その子の心の方が難儀な感じでさぁ。散々構ったけどちょっとしか変わらないもんでさぁ。そんで自分はあと何年も一緒に居られない、って分かったらさぁ。心配になるもんじゃないぃ? 『自分が居なくなった後にこの子はどうなるんだろう』ってさぁ


───君が未来で笑っていればぁ、君の人生は君の勝ちってことになるのさぁ



 そういう考え方をしていたあの女性が、競技者として完成されているYOSHIという少年の未来をなぜ案じていたのか、その理由をなんともなしに理解した。






 少女は歩き出した。自分の人生を。


 この日彼女は、彼に足を貰ったのだ。

 前に進む足を。

 膝を折らない足を。

 諦めずに走り続ける足を。

 彼の言葉が、彼女の心に足をくれた。


 自分を幸せにしてくれる場所まで、自分の力で歩いていける足を、彼がくれた。


 だからどこまでも歩いていけた。


 この先何があっても、前に進み続けられた。


 彼が信じてくれた自分の可能性こそが、心弱った時、心揺れた時に、自分を信じる理由になった。


 再会した時にはもう、彼はこの日のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていたけれど。それでいい、と彼女は思う。


 『YOSHIに人生を救われてしまうような弱い奴』や、『YOSHIに教わらないといけないくらい弱い奴』は、彼が求める"可能性を試してくれる強敵"になれないため、彼に名前を覚えてもらえないのではないか……と、少女は仮説を立てていた。

 YOSHIは独特な人生観で人を救う。

 しかし、救った相手を覚えない。


 逆にYOSHIが一発で名前を覚えるのは、決まって試合でとびっきりにYOSHIを苦しめ、時には倒し、YOSHIの個人戦連覇を邪魔したようなプレイヤーだ。

 YOSHIがそういう人物の名前を覚え損ねたことはない。


 YOSHIに感謝している人達はYOSHIに覚えてもらえず、YOSHIを苦しめ邪魔した人間こそがYOSHIに記憶されていく。

 YOSHIに都合の良い人物を忘れ、YOSHIに都合が悪い人物だけ覚えるという、YOSHIの中でだけ成立する奇妙なサイクル。

 なんとも奇妙な関係性だけが、彼の周りに出来ていく。


 だが、例外が出来た。


 YOSHIにとっては初めての、プロと比べれば遥かに弱い、配信者かつ初心者の仲間達。

 頻繁に他人のことを忘れるYOSHIの性質と、仲間の名前を覚えるYOSHIの性質は、後者が勝った。

 少女は強くならないままに、YOSHIに記憶され、彼に尊重される人間となった。


 それが、YOSHIにも変化をもたらしている。

 弱く、優しく、個性的で、YOSHIのコミュ難を巧みにカバーし、YOSHIに知らない世界を見せてくれる、今のYOSHIの仲間達。

 変化が反響し、変化を与え合っている。

 その変化がどう転がるかは、未だ未知数である。



 少女が今名乗る名は、伊井野いのり。


 かつてない困難に挑戦するYOSHIを助ける、YOSHIにはできないことができる、頼りがいのある戦友の1人。


 かつて、彼が変化させた可能性。


 人呼んで、貴方に寄り添うVliver。

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