西暦2052年8月第1週日曜日

 これは、彼女が『伊井野いのり』になる前のお話。




──2052年8月第1週日曜日──




 歓声が響いている。

 歓喜の声が満ちている。

 1人1人が発した声が重なり合い、共鳴し合い、スタジアム全体をかすかに揺らしていた。


 ここは国立es競技場。

 世界的なe-sports市場の拡大を受け、新たに設立された国立施設である。国内の大会を勝ち抜いた者達、あるいは日本で開催される世界大会に挑戦する権利を得た者達は、誰もがここに辿り着く。


 ゲーム競技は長らく多くのゲームタイトルによって複数の市場が群立し、メジャースポーツほどの集客力と基盤を単独ゲームタイトルで構築できず、複数のゲームタイトルの大会を並べてe-sportsという1つのジャンルとして認知させようとしてきた。

 だが『ポシビリティ・デュエル』というが生まれたことで、環境は一変した。

 国立es競技場は、そうした世界の変化を象徴するものの1つである。


 この日は午前中に東京第1予選、東京第2予選が行われ、午後に東京本戦が行われるというスケジュール構成。

 東京代表を決める大会は、地区大会であるにもかかわらず、この会場を使うことができるのだ。


 今から、予選の最後の最後、今年の東京最強を決める決勝戦が行われる。


『実況の川縁です! 今日もよろしくお願いします! またも勝ち上がってきました、YOSHI! 誰もが知る幼き天才! 今日も彼が伝説の1ページを増やすのか! はたまた敗北の辛酸を舐め更なる成長の糧とするか! 常勝の天才を、観客が固唾を飲んで見守っている! 解説の田端さん、試合が楽しみですね!』


『ですねえ、期待できます』


 デジタルロビーから歓声が響く。

 現実の観客席から歓声が響く。

 オンラインで各家庭・各端末に送信された試合映像を見て、世界のどこかで応援の声が響く。

 双方向視認型フィールドを展開するスタジアムは、観客にはリアルタイムの選手と試合が見え、選手の方からも観客が見えるようになっている。


 本来仮想現実VRであるポシビリティ・デュエルを、拡張現実ARにして、広い範囲の人々が楽しめるコンテンツに変える大規模システム。


 昭和の時代の野球観戦のように、スタジアム現地で熱狂できるシステムがあり、熱狂する人々が居る。


 車椅子の少女は、現実の観客席の最前列に居た。


『対するは現代ストリーマー&プロゲーマーチーム"麒麟"のリーダー、MIROKU! 来期は契約が満了しフリーになるとの宣言もあり、始まった勧誘の嵐が話題の種! 間違いなく国内トップクラスのゲーマーにしてエンターテイナーですが、YOSHIとの公式戦戦績は4戦1勝3敗! この苦手意識を克服できるか!』


『MIROKUはかなりやりますよ。元々反応の速さと戦術構築が強かった彼ですが、今期は特に読み合いが強い。YOSHIでも簡単に勝てる相手ではないでしょう』


『この試合の結果で来期のスカウトの結果如何も変わるんでしょうか!?』


『勝つに越したことはありませんが、負けても大して変わることはないでしょう。人集めや人間関係の調整が上手く、広く誰からも好かれるタイプの人間で、大体何をしても上手くこなし、確かな知性と合間の可愛げでファンも多いです。どこにスカウトされても、チーム全体を牽引できる人格と能力があります』


『観客席も凄いですねぇ! 話題性のYOSHI、人気のMIROKU! という感じで! こんな大舞台の実況が僕で良いのかと不安になります!』


『はははっ』


 車椅子の少女は実況解説を聞きながら、眼下のスタジアムフィールドを見下ろす。


 そこで、13歳の無感情な少年と、21歳の柔和な微笑みの青年が対峙していた。


「やあやあ。楽しんでますか、YOSHI君」


「別に」


「僕との試合は楽しくありませんか?」


「そんなことは言ってない」


「ははは、冗談ですよ。でも、僕はこのゲームを楽しいものだと思ってますからね。いつか君にも心の底から楽しんでもらいたいです」


「競技は俺の可能性を試すための手段だ。楽しむ、楽しくない、そういう話を持ち込む場所じゃない。試された後に、何が見えるかだ」


「あらら」


 車椅子の少女は本日、両親が貰ってすぐに捨てたチケットを拾って、こっそり1人で会場にやって来てきた。

 AI制御の車椅子は、足が不自由かつ小学生相当の年齢である少女であっても、何の問題もなく目的地へ連れて行くことができる。


 別に、誰かに応援を頼まれただとか、そういう理由があったわけではない。

 ただ、目を惹かれた。

 だから来た。

 それだけ。


 テレビでYOSHIを見て、その戦いに、その姿に、その風に、時間を忘れて見入ってしまって、気付けば今日此処に来てしまったのがこの少女。

 生まれて初めて見た、海に沈む夕陽に見惚れて喚いた赤ん坊のように、彼女のそれは衝動だった。


「あれがYOSHI。わたしと~、あんまり歳も変わらない人~……」


 餌に惹かれる虫のように。

 花に惹かれる虫のように。

 光に惹かれる虫のように。


 思考の1つもなく、車椅子の少女は此処にやって来た。


【 GAME START! 】


 ゲームが始まる。

 選ばれたフィールドは『標準セット:森林D』。

 開けた平地と鬱蒼とした森が広がり、プレイヤーを襲う獣が特に多い難関マップ。


 両者は、同時に動いた。


 MIROKUが、胸の前で合掌する。

 すると同時に、彼の背後から拳大の大きさのクリスタルが出現する。色は橙。

 数は24。

 全てが意図的な不規則アトランダムの軌道で、弾丸を思わせる速度で飛翔した。


 YOSHIは何のスキルも発動せず、地を這うようにするりと駆け出す。

 総合格闘技の専門家が「おっ」と思わず呟くような、無駄の無い身体運用だった。


 きらりと、YOSHIを包囲したクリスタルが全て輝く。

 放たれるは、24の石から放たれる24の光線。

 変化力と絶対力に点数を振った、極めて速く極めて貫通力の高い殺人光線だ。


 四方八方から迫る光線に、YOSHIはスキルも使わず飛び上がってかわす。

 隙間などありそうにもなかった光線の合間の、子供1人分は通れる空間を、滑り上がるように抜けていく。


 そして空中でくるり一回転。

 そこから風になったYOSHIが、疾風の速度で飛来し地上のMIROKUとの距離を0にした。


「───あ───」


 車椅子の少女の口から、感嘆の溜め息が漏れる。

 MIROKUがクリスタルを踏み、クリスタルの推進力を利用して、後ろに飛んでYOSHIの振るった斬撃を回避する。

 だがその瞬間、YOSHIは全身を風に変え、、真空が空気を引っ張る力を使ってMIROKUを引き寄せる。

 思ったほど後ろに飛べなかったMIROKUに、風になって迫りくるYOSHIの追撃をかわす手段はなく。


 MIROKUの首が落ち、YOSHIの方にポイントが入った。


 歓声が上がる。

 ランダム地点からMIROKUが復活する。

 MIROKUは素早く森の中に姿を隠し、冷や汗をかいた自分を隠して、次の手を備えつつ独り言ちた。


「なんで年々速くなってんですかねえ君は!」


 YOSHIがMIROKUの動いた痕跡を嗅ぎつけ、森の中に最速で踏み込む。

 そんな彼を迎撃すべく、クリスタルが飛翔した。


 YOSHIの見立てでは、クリスタル1つあたりの操作精度は、アマチュアトップクラスが1つのクリスタルの操作に専念した時と同等。すなわち、MIROKUはアマチュアトップクラスの24倍の情報並行処理能力を持っていることになる。


 YOSHIが切り落としに行けば、かわす。

 YOSHIが距離を取ろうとすれば、追ってくる。

 そして何より、木々にかすることすらない、その卓越した操作精度。

 このクリスタルは、たった1つでも十分な脅威だ。


 風になったYOSHIと、縦横無尽に飛翔する24のクリスタルが、森の木々の合間を凄まじい速度で飛び回り始めた。

 超低空、超高速の森林戦。

 風と光が交差する。


「……ぁ」


 激戦の中、車椅子の少女はずっとYOSHIだけを見ていた。


 YOSHIの体捌きは美しかった。

 パフォーマンス・ダンスのような、華美で見栄えのいい動きを盛りに盛った動きではない、極限まで洗練された身体運用。

 分かる者には分かる、分からない者には一生分からない、そういう動きだった。


「すごい~……!」


 まともに体が動かせないいのりにとって、というものは、それだけで空に瞬く星に等しかった。


 絶対に手が触れられない。

 だからこそ永遠に憧れていられる。

 遥か高みの輝き。

 そんな人。


 足先から動いて、膝が追随して、腰が後を追い、肩から動いて、肘が奔って、手首が振られて、指先の動きが見る者の目に綺麗に残り、風の刃が走る。


 とても綺麗な全身の連動で放たれた風の刃の斬撃が、クリスタルの1つを落とす。

 無駄が無いということは、最速であるということだ。


 次の斬撃も同じ初動であるはずなのに、肩・肘・手首が柔軟に動いて、先程とはまるで違う軌道を風刃がなぞる。

 "先程の斬撃を参考に回避しようと"していた恐るべきクリスタルが、もっと恐ろしい斬撃によって、あえなくその石体を両断された。


 クリスタルが放った光線を風の刃が切り払い、千々に砕けた光線の欠片が、YOSHIの纏う風に乗り流れる。


 薄暗いの森の中で、その光景は幻想のようで。


「わっ、わっ、わぁ~~」


 風になっている時の彼は強く、速く、鮮烈で。

 人である時の彼は鋭く、柔軟で、滑らかだった。


 いつ踏み込んだか見落とすほどに滑らかに、初速で最高速に至る踏み込み。

 針の足で氷上に立ち、転ばず滑って行くかのような繊細と緻密を併せ持つ、するするとした移動。

 緩急自在に高速低速を巧みに操り、攻防自在に動き回り、変幻自在に軌道を変えて、対敵のみならず観客さえも圧倒して飲み込む躍動。


 車椅子の少女は試合のルールすら把握しないまま、ただYOSHIの動きに見惚れ、ただYOSHIの身体運用に魅入られ、その動きを目に焼き付けていった。


 星を見るように。


「すっごいぃ~……!」


 "彼と比べれば、普通に歩いている人達も、車椅子の自分も、等しく『体を動かすのが下手な人』っていうカテゴリーに入る。皆同じだ。誰もが彼ほどには上手く自分の体を操れないんだ"。

 幼い心に、そんな気持ちが芽生えた。

 "ようやく自分が皆と同じだと思えた"と、素直に喜ぶ少女の心があった。


 車椅子の少女には、無数のおりが巣食っていた。

 苦悩。

 諦観。

 虚無。

 無力感。

 劣等感。

 自己不信。

 自己嫌悪。

 自己憐憫。

 現実逃避。


 それでも、今は笑顔で居られた。


 星を見つけられたから。


 星を見上げていられたから。


 彼から流れ来る風が、澱んだ少女の心を吹き晴らしていく。


「───ああ───本当に───綺麗だなぁ……」


 星を見上げていれば、辛いことを忘れていられる。


 星を見上げていれば、地上の現実から目を逸らせる。


 星の美しさに見惚れていられれば、醜い毎日から逃げられる。


 星を一番に置いておけば、それ以外が皆まとめて同じレベルに見えることもある。そのため、劣った自分が皆と同じだと思えて、嬉しくなることもある。


 何一つ解決しない人生の中で、車椅子の少女が初めて見つけた救いとは、星に等しい風の少年だった。






 大人も、子供も、ただの人間である。

 大人と子供の間に、本質を分ける境界線など引かれていない。

 30を超えてなお大人になった気がしない人間も多く、半端な50代より余程大人然とした10代も探せばそこそこに居るものである。


 『大人』というものは"自分がちゃんとした大人として振る舞わないと"という自覚によって成立し、"良識に反する恥ずかしい生き方は良くない"という認知に助長され、「大人なんだからちゃんとしなさい」という周囲からの押し付けによって普及し、「お前は大人っぽくないな」などのレッテルによって判定される。


 当然ながら、『親』もそうだ。

 『この境界線を越えたからちゃんとした親だ』などという明確な境界線はない。

 10代の頃から立派な親になれる人格を備えた子供も居れば、子供が出来ても親の自覚が育たない大人も居るし、そもそも親の自覚があってもなくても癇癪を起こして周囲の人間を殴る者は居る。


 車椅子の少女の母親は、出来損ないの娘に厳しかった。


 足が動かないのは生まれつき。

 一度も歩けたことはない。

 それで親に面倒をかけた回数は数知れず。

 幼い頃からよく熱を出し、深夜だろうとお構いなしに苦悶の声を上げ、年に何度も、時には月に何度も、救急車の世話になることさえあった。

 その度に、仕事帰りの親に夜遅くの付き添いや世話を要することとなった。


 どこか無垢でのんびりとした性格は、他の子供より少し発達が遅れていて、思考が遅いから。

 間延びするゆっくりとした喋り方は、それらを誤魔化し、会話中に思考時間を稼ぐためのもの。

 誰に対しても優しく、笑顔で、善良であろうとするのは、そうして周りの人間に好かれて助けてもらわないと、生きていけない自分だから。


 親に失望されたくない本人の努力──というには、あまりにも死に物狂いな頑張り──によって、ある程度それらのハンディキャップは克服されたものの、それでも足が動くことはなかったし、死に物狂いになってようやく人並みというところには、世の無情が感じられることも多かった。


 そして母親は、娘に『まともであること』『優秀であること』を求めるタイプであり、『頑張ることなんてやって当然』と思うタイプであり、ゆえに"頑張って人並みになろうとする"娘の頑張りを、認めないタイプであった。


 娘が誰よりも優しい人間であることを、母親は一切評価しなかった。


 家庭環境は改善しない。


 少女の家庭での扱いは、年々形を変え、与えられる苦痛は種類を増やし、どうしようもないほどに悪化していった。

 今が最悪だと思えども、1年と経たない内に最悪が更新され、その最悪もまたすぐに更新されていく。


 『どうしたらお母さんに愛してもらえるんだろう』と自分に問えば、自分自身が『生まれた時から無理だったんじゃない』と返す日々。


 『家に居たくないな』と思えば、『この家しか帰る場所は無いんだよ』と自分が返す毎日。


 『全部諦めようよ』と自分に言い聞かせようとしても、『無理だよ。1人になっちゃうよ。耐えられないよ』と弱さが顔を見せる。


 変わり続ける最悪だけが日常の隣人だった。

 少女が願ったものは何一つ手に入らないまま、幼少期は過ぎていく。

 優しい家族が欲しかった。

 優しい日常が欲しかった。

 優しい世界が欲しかった。

 優しい場所が欲しかった。

 けれど、1つも手に入らなかった。


 だからせめて自分だけは優しい人で居たいな、と。


 そう思って生き始めたのが、その車椅子の少女だった。






 決勝戦はインターバルに入った。

 15分の休憩を挟み、スキルを1つだけ変更して後半戦に挑むことが許される。

 MIROKUはYOSHIの動きに合わせたスキルセット変更を行うだろう。

 対し、YOSHIは同じスキルセットのまま、使う技と戦術を組み替えることで勝利を目指す。


『ポイント上はMIROKUが優勢。このまま押し切るんでしょうか』


『私は難しいと思います。ポイントの上ではMIROKUが先行していますが、トータルで見れば戦いをコントロールしているのはYOSHIです。このまま行けば後半戦ではYOSHIが優勢になるかもしれません。何故かというと……』


 15分の間に水でも飲んで来ようと、座席を離れた車椅子の少女は、途中の廊下で右往左往する女性を見た。


 圧のある美人であった。

 黄金の如き金髪、整った顔つき、余分な脂肪の見えない引き締まったスタイル、がっしりとした骨格にミチっと詰まった筋肉の厚みがひたすらに強い。

 アメリカン・コミックの映画化の際、『強い女性としての女主人公』のキャスティングを決める時、選ばれるのはこういう女性なんだろうな、と誰にも思わせるような容姿の女性。


 車椅子の少女は、その女性をどこかで見た覚えがあるような気がしたが、ぱっと思い出すことができない。

 が、その女性がいかに強く見えようと、その女性が今困っていることは事実であるように見えた。


「迷ってますか~?」


「うん? そだねぇ。普段観客席とか来ないからねぇ」


「わたしもここは今日始めてですけど~、この車椅子には音声入力とマップガイド機能があるので~、お姉さんが口で行きたい場所を言ってくれれば案内できますよ~」


「いいのかい?」


「わたしが逆の立場だったら~、きっと誰かに助けてほしいって思いながら~、泣きそうな気持ちになってしまうと思うので~、だからご迷惑じゃなければお助けしたいです~」


「そっかぁ。いい子だねぇ」


「そうでもないです~、お母さんには駄目な子だ~、出来の悪い子だ~、産むんじゃなかった~、ってずっと言われてて~、いい子だったらそんなこと言われないはずだと思います~」


「……そっかぁ」


 誰も優しくしてくれないから、誰でもいいからわたしに優しくしてほしいと、幼い頃からずっと願っている少女がいる。

 優しくしてほしいと願っているから、他人にしてもらいたいことは、自分からしていこうと決めている少女がいる。


 その少女はいつだって、他人に優しくする人間として生きている。


 見るからに強さの塊のような女性が、見るからに体が不自由な少女に助けられている光景は、どこか不思議な印象を伴うものとなっていた。


「今日は試合を見に来たんですか~?」


「そうだねぇ。今日は知り合いが大会に出るって話を聞いてたんでねぇ、応援しようかなって」


 その言葉を聞いた時、車椅子の少女の脳内で、いくつかの情報が線で結びついた。


 YOSHI。

 Ghoti。

 世界大会。

 団体戦。

 生身で受けていたインタビュー。

 YOSHIを誘った姉貴分。

 1人1人にスカウトをかけ、全員をそのカリスマでまとめ上げ、世界の頂点を獲ったチームリーダー。

 テレビやニュースをある程度見ている人間ならば、一度はその顔と名前を見たことがあるほどの有名人。


「……お姉さん~。もしかしてYOSHIさんのチームの、『Ghoti』のリーダーの『ADAM's』さんですか~?」


「おんやぁ。こんなに可愛らしい女の子に名前を覚えていてもらえるなんて光栄だねぇ。でも騒ぎになると面倒だからさぁ、黙っていてくれると嬉しいねぇ」


「はい~、誰にも言いません~。YOSHIさんの応援ですか~?」


「まぁ、そだねぇ。ちょっと心配だったからねぇ」


「……?」


 車椅子の少女は、その発言の意図が分からなかった。

 少女から見て、YOSHIは完璧だった。

 迷わず、惑わず、揺らがず。

 少女が見てきた人間の中で最も、完成された人間であるように見えた。

 他人が心配する必要が何一つない、満ち足りた最強。

 そんな彼に対して『心配』と言う目の前の女性の真意を、少女はまるで汲み取ることができなかった。


「弟みたいに思ってる子が居るとしてさぁ、その子の心の方が難儀な感じでさぁ。散々構ったけどちょっとしか変わらないもんでさぁ。そんで自分はあと何年も一緒に居られない、って分かったらさぁ。心配になるもんじゃないぃ? 『自分が居なくなった後にこの子はどうなるんだろう』ってさぁ」


「え……?」


「『自分が居なくなった後、誰がこの子と一緒に居てあげるんだろう。誰かがこの子を変えられるんだろうか?』みたいなことぉ、思っちゃったりしない?」


 女性はそこから更に言葉を続けようとして。


 極めて嫌な音と共に、むせこんだ。


「けほっ」


 びちゃ、と重く鈍い落水音。


 車椅子の少女が見上げれば、口元を抑えた女性の手の中に、かなりの量の黒々とした血が吐き出されていた。


「だ、だいじょうぶですか~? きゅ、救急車を~……」


「ん? 大丈夫大丈夫。なんかぁもう血を吐こうが吐くまいが残り時間はあんま変わらないらしいしぃねぇ」


「え」


「お嬢さん、優しいねぇ。本気で心配してる顔だぁ。人間の本質はぁ、言動よりも行動に出てぇ、行動よりも一瞬の反応に出るもんだからねぇ……」


 心底心配そうな顔をして、車椅子で急いで駆け寄ってきた少女に、女性は思わず笑ってしまった。

 女性が倒れでもしたら、受け止める気だったのだろうか。

 思うように動かないその体で。

 少し接するだけで伝わってくる心の暖かさが、その車椅子の少女にはあった。


「はは。そういう子がぁ、あの子の隣に居てくれたらぁ、あたしも安心して全部ぶん投げて楽になる道を選べるんだけどなぁ……」


 女性は慣れた手付きで、血を綿に吸わせ、アルコールシートで手を拭いていく。


「もうここまででいいさぁ。ありがとうねぇ。君のことは死ぬまで忘れないよぉ、親切なお嬢さん」


「え? でも……」


 女性は血に濡れた手とは逆の手で、ポンと少女の頭に手を置き、優しく撫でる。


 どこか優しげな、欧米の距離感。


「今日の試合も楽しんでいきなねぇ、お嬢さん。人生の良し悪しは五体満足かで決まらない。金があるかどうかでも決まらない。学歴も職業も些末なことさぁ。人生は楽しいか楽しくないかぁ、2つに1つしかない。苛立ちながら訴訟と戦う大富豪より、毎週好きな漫画を読んでるだけの凡人の方が上等な人生だったりすることもあるからねぇ……」


 女性は少女に笑いかける。


 それは、目の前の他人の幸を無条件で願う陽気な笑顔。


「君が未来で笑っていればぁ、君の人生は君の勝ちってことになるのさぁ」


 そう言って、女性は去っていった。


 何故か、やたらと印象に残る女性だった。


 不思議と心に残る言葉を告げる女性だった。


 普通に生きているだけで、人生のその時々でふと、"あの人みたいに陽気に笑って生きていたい"と思わされてしまうような、そんな笑顔の女性だった。

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