西暦2052年8月→西暦2055年7月
車椅子の少女は、本人が子供であることを差し引いても、どうしようもないほどに詰んだ環境にあった。
父は近年伸長している地方VR企業の社長で、それゆえか地元商工会のトップで、昔ながらの地元経済も、地元に出店してきたフランチャイズ系やショッピングモールも事実上の傘下に収め、自治体も迂闊に逆らえない地方経済の支配者。近隣の警察署にさえ、その影響力は及んでいるという。
母は一斉を風靡したハーフの美人モデルで、国外を中心に活動していた麗人。知名度で言えば日本でもトップ20には確実に入るだろう。ある日金と権力はある若手実業家に求婚され、ある程度の妥協をして結婚。家庭に入るとは言ったものの、モデルの仕事は継続すると決めて今に至る。
地元において両親は並ぶ者無き成功者であり、だからこそ、この二人の間に生まれた子供が足と知性に障害を持って生まれたことは、唯一の汚点であったと言ってよかった。
『自分が上手くやればそれだけで成功する』という確信を持って生き、人生全てが上手く行っていた彼らにとって、生まれて初めての大失敗とは、この娘を生んだことであったと言える。
そして、障害を持って生まれた子供を『大失敗』と扱ったその姿勢こそが、この家庭が最悪の結末を迎えた最大の理由であった。
少女が幼い頃から、両親は毎日のように喧嘩をしていた。
「母親の君の体に問題があったんじゃないか? 病院に行ってこい。結果次第じゃ……」
「なによ、あなたに問題があったかもしれないでしょう! なんでもかんでもわたしのせいにしないで!」
「調べたが、君の4親等以内の親戚に、障害を持って生まれた人間が3人も居るようだね。僕の親戚もチェックしたら、こちらには1人も居なかったよ」
「えっ……」
「君が原因の可能性が高いということだよ。まったく、綺麗な見た目で騙して、いざ結婚したらこんな地雷を隠していただなんて……とんだ罠だ……」
「そ……そんなの偶然かもしれない! そうに決まってるわ! 私は悪くな……」
「君が悪いだなんて言ってない。君に原因があると言っているんだ。君はいつもそうやって自分のせいじゃないと強弁して他人のせいにしていないか?」
「同じよ! そんなのわたしが悪いと言ってるのと同じ! わたしは何も悪いことなんてしてない! 勉強して、夢を叶えて、普通に結婚して、普通に子供を産んで、それでっ……」
「でも、原因は君だろう?」
「───っ、違うっ!」
「……堂々巡りじゃないか、それじゃ」
「わたしは何も悪いことなんてしてこなかった! わたしの子供がたまたま出来損ないだっただけ! こんなの博打と同じよ! あんなのがたまたま生まれて来たせいで責められる謂れなんかない!」
「だからそんなことは言ってな……」
「言ってる!」
「……。……いい加減にしてくれ。君が原因で僕も肩身が狭いんだ。陰でなんて言われてるか君だって知ってるだろう? 人は、嫉妬する生き物だ。成功者の子供が障害者だと知れば、憐れむフリをして"憐れむ娯楽"を楽しむものなんだよ。僕らは完璧でなければならなかった。誰からも『あらあらかわいそうに』だなんて思われる存在であっちゃならなかったんだ」
「分かってる」
「なのに、障害のある娘なんかが生まれただけで、その辺の凡俗の家のつまらない夫婦に『うちの子にはああいうのが無くてよかったわねぇ』なんて優越感を与えるハメになってるんだぞ?」
「分かってるわよ! それをわたしのせいにしないでと言ってるの!」
「だから!」
少女はずっと、そういう両親の喧嘩を聞きながら育って来た。
"相手の言われたくないことを理解する能力"は父親の方が極めて高く、母親はいつも泣かされていて、父親はその能力を『相手を傷付けて言い負かす』ことにばかり使っていた。反面、父のこの能力が遺伝した少女は、未来の配信で『人を傷付けない配信をする』ことに活かしていったという。
罵倒が続く。聞くに堪えない罵詈雑言が流れる。
ストレスは、人を壊す。
壊れない人間はめったにいない。
最初はまともな人間であっても、徐々に壊れる。
ストレスに慣れていない順調な成功者は尚更に。
YOSHIがインカムを渡した車椅子の少女は、ずっと一人っ子だった。
両親が"また出来損ないを作ってしまうのでは"と怖がったからだ。
この家において子供とは、『未来に託す愛の結晶』ではなく、『もう作りたくないしどう処分すればいいのか分からない不良債権』になっていた。
しかも、この家庭には問題と影響力の両方があった。
仮に少女が児童相談所に通報したとしても、最悪なことに自治体と近所一帯が両親の味方である。
少女の訴えは瞬く間に"思春期の少女が親の気を引きたくてついた嘘"に変えられてしまうだろう。
障害もあるため、家出して生存も不可能だ。
そもそも小学6年生の彼女にそこまでの能力と財力は無い。
他に手を考えても、地元一帯の住人が両親の味方であるため、地元の人間全ての目が監視カメラのそれに等しい。
この閉塞感こそが、少女の心を徐々に、徐々に、削り落とすように追い詰めていったもの。
だからこそ。
そこを抜け出すためには、彼女に強いモチベーションと、子供離れした知識と、それをもたらす外的要因が必要だった。
それを与えたのがYOSHIである。
少女はYOSHIが与えたデバイスを使い、両親が掛けたネット閲覧制限という檻を飛び出し、インターネットで無制限の情報収集を行うことができた。
だがそこにあったのは、溺れそうな程の量の正しさが流し込まれている、各々が好き勝手に『自分が思う正解』を垂れ流している正しさの海。
「こうしたら虐待はなくなる」
「虐待からはこう逃げなさい」
「元相談員の私から言わせれば……」
「現代の家庭問題の解決方法は……」
「社会の病巣とは?」
「子供にもできる逃走方法」
「近所の大人に相談するだけですぐに解決します」
「今はSNSで拡散できるよ」
「2020年代には既にSNS告発は陳腐化してた」
「なぜ児童相談所は動けないのか」
「親が持つ権利、虐待の非対称性」
「虐待経験者だけど普通に助けてもらえんよ」
人には、"語りたくなる"本能がある。
それは『俺は解決策を知っている』だったり、『僕なら核心をついたことが言える』だったり、『皆こう言ってるけど本当はこうなんだよね』だったりする。
それが正しさの海を作る。
少女は海に放り出された。
少女にとって、それは初めての、自分で選んだ戦場だった。
少女が泳ぎ切れたのは、ひとえにYOSHIの言葉があったからに他ならない。
───親が『こう生きなさい』とか言って。教師が『この進路がいいぞ』と言って。周りの大人が『こうすると統計的にいい』と言って。知らん人間達が『成功した人間が居ないからやめときな』と言って。それに従って"じゃあわたしにはできないんだなぁ"とお前が思った後、そいつらは誰1人としてお前の人生に責任なんか取っちゃくれない。絶対にだ
YOSHIの言葉は全て、少女にとっての予防接種として機能した。
何故か人生の色んな所で、YOSHIの言葉は少女にとっての指針、あるいは警告、時には原動力として働いてくれた。
───俺はお前の未来の可能性に期待してこいつを渡すつもりだ。お前が死ぬと……そうだな、期待外れかもしれない
言葉で自分の背中を押して、少女は無限の正しさが見せる無尽の正しさの中から、自分の現状を打破するために必要な情報を選び取る。
そして、それを実現するための努力を始める。
少女が選んだ選択は、"応援される離脱"。
すなわち、『成績優秀な学徒として海外留学生に選ばれる』ということであった。
少女はもう、1秒たりとも家にいたくはなかった。
かつ、YOSHIという傑物に期待された今、努力をせずにはいられなかった。
そして、両親が近くに居る環境がとにかく邪魔だった。
妨害される可能性、阻止される可能性も考えれば、最適解は両親が喜んで離れてくれること───つまり猛勉強し、最優秀の生徒となり、『障害を持ちながらも最も優秀な生徒として世界に羽ばたく』という美談と共に、海の向こうに一旦逃げることであった。
死ぬ気になって頑張った彼女には、それができた。
挫けそうになる度に、憧れの人の言葉を思い出し、踏ん張ることができた。
ゆえに、未来でここには非対称性が発生する。
少女は、YOSHIの言葉のおかげで頑張れたと思っている。
YOSHIは、少女が頑張ったのは少女自身の力だと思っている。
YOSHIが「頑張ったのはお前の力だ」とでも言えば、少女は嬉しいやら恥ずかしいやらで、なんと返せばいいのかもどかしい気持ちになるだろう。
彼女にとっては彼のおかげで間違いないし、彼にとっては「自分は何もしてない」「彼女が頑張っただけ」でしかない。
それはお世辞でも謙虚でもない、少女とYOSHIで相反する「それぞれの正しさ」でしかない。
だから、どちらかが修正することもない。
少女の感謝と少年の称賛は、決して交わることはないのだ。
昼も夜も、勉強をした。
頑張り屋な彼女はずっと頑張って生きてきたが、目標を定め、憧れの人の言葉を胸に、自分の体の限界まで頑張り続けるということは初めてだった。
けれど、苦しいだけで苦にはならなかった。
辛い思いをしながら努力を重ねたが、やめたいと思ったことは一度もなかった。
いつかまた、彼と会える日に。
その日に自分が情けない自分であってはならない、そう思って、頑張り続けた。
「ん~」
背伸びをして、勉強を中断して、頬杖をついて机の上にインカムを転がす。
ころん、とインカムが転がり、踊るように一回転した。
少女はインカムを指先でつついて、撫でて、指の間で転がして、またつついて、ころんとひっくり返す。
蘇る思い出。
蘇る言葉。
思い出の中の人。
少女の表情が暖かく微笑み、ゆったりと緩んでいく。
「ふふ~」
まるで、恋人から貰った婚約指輪を指先でいじる女性のように、少女はYOSHIから貰ったインカムを大事に扱い、慈しむように遊ぶ。
それだけで、少女の体から疲労が抜けていき、全身にやる気が満ちてくる。
不思議な現象が、不思議な感情と共に湧いて来る。
その感情の名前を、少女はまだ知らない。
「ねえ」
空を見上げ、少女が呟く。
星に語りかけるように。
天の風に呼びかけるように。
「いま、あなたは、なにをしているのかな」
思いを馳せる、遠くの誰かが居る。
それがこんなにも幸せだなんて、少女は知らなかった。
ずっとずっと、知らなかった。
遠くの誰かを想う切ない幸せが、今の彼女にはあった。
「幸せだったらいいな~。笑ってはいないだろうけど~」
YOSHIの淡々とした仏頂面を思い出して、少女はくすっと笑む。
そしてぐるりと、夜空を隅々まで見上げる。
星はいつもそこにあった。
彼が残した言葉のように。
「幸せであってほしいな」
1人の少年を想い、少女は呟き、そして照れた。
そして、西暦2055年。
YOSHIと少女の出会いから、3年が経過した。
ここはアメリカのミドルスクール。
日本の私立中学校と姉妹校の関係にあり、相互に日米留学生の窓口を設けている。
日本の窓口を通して試験を受ければ、米国のこの学校に3年間通うことが許され、3年間家族から離れることが可能なのだ。
アメリカの名前も知らない木の陰、人工的に作られた日陰のカフェで、車椅子の少女は自分と一緒に留学した子と談笑していた。
談笑の合間に、話題が移る。
「すーちゃんってホント美人だよね。すーちゃんより美人な人、グラビアとか女優でも見たことないよ」
車椅子の少女は、絶世の美女と非現実的な美少女の合間のような、そんな麗しい姿に成長していた。
「いや~そうでもないよ~」
「謙遜しちゃってぇー! あたしゃすーちゃんと並んで歩くの恥ずかしいよ! 見なよこの日本人的な線上にあるブサイクとダセぇメガネを。国辱通り過ぎてA級戦犯だよ。日本を代表しちゃいけねえツラしてんのよ」
「え~? にゃっちゃんかわいいよ~」
「ア゛ア゛ア゛ア゛ァー! すーちゃん好きィ!」
「わたしも~、いつも近くにいて困ったら助けてくれてありがと~、サンキュ~マイ・フレンド~」
どうしたって、人種の違いは0にはならない。
少人数の留学生グループ然り、外国の特定人種市街然り、人は同一人種で固まる傾向がある。
「しっかしあと数ヶ月で卒業だけど慣れないよねぇ。優しくしてくれるアメリカの皆様が居るのは本当にありがたいけど~。ふとした時にちょっと離れた所で知らない英語使って話してる人達を見ると、不安になったりしなーい?」
「ちょっとね~。でも、いい環境だと思うよ~。周りの人達み~んな、ちゃんと理性的に考えて生きてるように見えるし~。夜に安心して寝てられるし~」
「ジャングルで獣に脅かされてきた御方?」
「うはは~」
ごく自然に、少女は周囲の者達に愛された。
そも、少女は嫌われるような性格はしていない。
親が私的な理由で子にストレスをぶつけていただけである。
生きる環境を変えれば、それだけで周囲の者達に愛される資質が、その車椅子の少女には備わっていた。
日本人離れしたクォーターの美貌、中学生相当の年齢の子供達には刺激が強い体の発育、擦れていない素直な性格に、留学生ゆえに持つ高い知性と学力、留学生特有の世間知らずという愛嬌、誰にもふんわりと接する温和な性格。そして、生来の障害と、それを克服しようとするガッツ。
少女が留学先の学校にて人気を得るのは必然であり、時に友情、時に応援、時にライバル心を向けられ、そして時にはそれだけで済まない感情を向けられていた。
「いや……でも……すーちゃんはジャングルで狙われる小動物みたいなとこはある! 飢えたオスは皆すーちゃんのデカ尻デカパイを狙ってやがるんだぁー! そのアメリカンサイズよりデケえ乳と過剰にほっせえ腰の境界線をなぞりてえと思ってんだぁー! あたしがそうだもん」
「や~ん~、無理矢理襲われてしまぅ~」
けらけらと、車椅子の少女は笑う。
「いや、襲うことはないでしょ。国際問題になるわ。こういう学校に通うくらい育ちが良くて将来もある男子達がすーちゃん襲うわけがないって。将来が死ぬ」
「そなんだ~。安心安全~」
「あんただって分かってたでしょうに……」
眼鏡の彼女は、呆れた顔で頬杖をつく。
「フフフののフ~。裏でね~、エレン先生にね~、教師陣も常に見守ってるから普通に過ごしてもいいけども~、魔が差して障害者の女の子を力づくでどうにかする男の子も居るかもしれないから~、個人でも気をつけてくれって言われてる~。でもそういう理由で~障害を持ってる子の自由を制限するのは卑劣だから~、教師陣でできる限り見守ってるから普通に過ごしていいんだって~、そう言われた~」
「そなんだ……いや、本当気を使われてるねぇ」
「聖人教師陣~聖人とはいい人いう意味~」
「知っとるわ」
近くを、ラグビー部の男子達が通り過ぎる。
「つかこれでも結構偉い人の娘だかんねあたし。あんたほど世間知らずではない」
「うっそだ~」
男子達の視界に車椅子の少女が入ると、全員に揃って緊張が走ったのが見えた。何故か男子達が泥だらけのユニフォームをパンパンと払い、泥を落とし、ユニフォームのよれた部分を直して、何やらちょっと気取ったポーズを取り始める。
車椅子の少女が小さく手を振ると、男子全員が大きく手を振り返し、全力で振られた手が周囲の男子をガンガンと叩きまくり、そして"手を振られたのは俺だ"の大乱戦が始まった。
「本当にモテるなぁ。顔良し乳良し性格良し。クソッモテねえ理由がねえ。いつかあたしも呼んでくれよ、お前の結婚式にさ……」
「でもねぇ~、なんかね~、嫌いにならないで欲しいんだけど~、たぶんにゃっちゃんが思ってるほどいい気分ではないんだよ~」
「何? 美人自慢になるかもみたいな不安? どーでもいいから気にしなくていいわよ。美人にゃ美人の悩みがあるもんでしょ。人間って他人の悩みの8割には共感できねーもんよ。でも共感できねー悩みに辛かったねえと言うことはできるのよ」
「……ん」
「受け止めてあげよう、すーちゃん。この私は2055年に蘇りしマリア。包容力のテロリスト。で、なに?」
眼鏡の彼女が促すまま、車椅子の少女は苦笑して語り始める。
「……あのね~。そのね~。……外見しか見られてないな~、ってね~……」
「……あー、あー。そりゃキツそうね」
「うん~……」
先のラグビー部の男子達と、少女は一度も話したことがない。
話したことはないが、恋愛感情を向けられていることは分かっている。
そこにどうにも居心地の悪さを感じざるを得なくて、そして他人の恋愛感情に対して居心地の悪さを感じているのが申し訳なくて、少女はその気持ちをどう吐き出せば良いのかも分からなくなっていた。
車椅子の少女の恋愛嗜好は、尊敬寄り。
恋愛抜きでも敬意を抱ける相手と両思いになりたいというもの。
かつ、追う恋愛が好きである。
自分を好きになってくれた男を好きになる、思わせぶりな素振りで男に追わせる、といった恋愛嗜好ではなく、その逆。
まず彼女のことを好きではない誰かを好きになって、その人を追いたいタイプ。簡単には自分のものにならない人を好きでいたいというタイプだ。
車椅子の少女は、色んな人と仲良くなりたい。
沢山の人達と友達になりたい。
しかし不特定多数の男達から恋愛感情を向けられ、性的な目で見られることは嬉しくはない。
恋愛は自分が追いたいタイプで、周りの誰かに追いかけられて喜ぶわけではない。
そういう性格と嗜好をしていた。
なればこそ、少女が持つ頭1つ2つ抜けた絶世の美貌は、少女をあまり幸せにしなかった。
両親は、少女の心を見なかった。
少女を1人の人間として扱わなかった。
海を渡って、少女はようやく人間として見てもらえた。
けれど、そこで今度は美貌が邪魔をする。
誰もが『君の美貌に一目惚れしたんだ』と言って告白をするが、『のんびりしてて優しい君が好き』と言った男は、誰一人としていなかった。
「わたしの顔が焼け爛れた時~、あの人達はわたしを好きでいられるのかな~?」
「こえーこと言うわね。お好み焼きは美味しい料理、されどあんたのそれはお好みじゃなくしてみました焼きと言うべきやつよ」
「あのね~、恩人の……恩人の人が居て~」
「うん」
「その人が~、わたしの容姿とか~、足とか~、喋り方とか~、黙っちゃう癖とか~、『でも』に逃げちゃう悪癖とか~、そういうの全部無視して~、わたしに可能性があるって信じてくれて~、助けてくれて~」
「いい人だったんだね」
「心を見てくれるとか通り過ぎて~、わたしの可能性しか見てなくて~、今思うと"可能性があるから"で賭けてみるっていうのが大概で~、特に他人の幸せとか願ってるわけじゃなくて~、なんかたまたま周りの何かを破壊して~、結果論で人を幸せにする人なんだよな~って思うんだけど~」
「いい人ではないわね」
「でもそこが~、なんというか~、唯一無二で~、特別で~。わたしもあの人みたいに~、心を言葉で揺らせる人に~、人を救える人になりたいな~て思うので~。外見だけで人を好きになる人は苦手なんだよなわたし~、みたいな~?」
眼鏡の彼女は腕を組む。
「そういうの、Vliverとかどうしてんだろうねえ」
「Vliver~……?」
「え、あんた知らないの? 2Dや3Dのモデルを使ってる配信者のことよ。なんだろ。アニメのキャラの体の中に入った面白い声優さんみたいな? 声がいいゲーマー? みたいな? そんな感じ。ああいう外見を自分の自由に決められる人達は、そういう悩みにどう答えるんだろうかなって」
「昔は娯楽とかにとんと縁遠くて~。ネットを使うようになったのが小学6年生くらいで~。そっからずっと勉強だけしてました~」
「はー、凄いわね。そういうひたむきなとこ、あんたに色ボケしてる男子学生共に見習わせたいわ。ってかあたしから見習わないと」
「学年1位のくせに~」
「あたしは天才なので努力したことないでぇす~」
「こいつぅ~」
何やら感心した様子で頷き、眼鏡の彼女は端末で検索したVliverのwikiページを開いて見せる。
読みながらふむふむと車椅子の少女が頷いていると、授業の予鈴が鳴った。
「行くよすーちゃん」
「ん~」
車椅子がAI制御で走り出し、その横に眼鏡の彼女が並走していく。
タッタッタッと、向かうは教室。
「……Vliverかぁ」
車椅子の上、少女は小さく呟いた。
そして。
人は、過去からは逃げられない。
誰もが持つ過去とはなんだろうか。
決まりきっている。
どの親から生まれたか、だ。
家に帰りたくはなかった。
しかし帰らざるを得なかった。
両親が帰ってくるよう学校に繰り返し交渉したため、帰るしかなくなってしまったのである。
期間は数日。
「すーちゃん、なんかあったら電話かけなよ」
「ありがと~にゃっちゃん~、行ってきます~」
1年目、2年目はたまたま致死性が低く感染力が高い流行病があり、渡航制限がかかって帰らない理由になったが、流石にそういった理由が無いのに帰らないということは許されなかった。
また両親で喧嘩をしてそのツケがどこかに回り回ってきたか。
帰って来ない娘に関して何か言われたか。
留学生に選ばれた娘を関係各所に自慢したいのか。
親戚の集まりで娘を見せびらかして、親戚集会における優位性でも取りたいのか。
なんでもありえるだろうと思い、少女は溜め息を吐く。
なんだって話せる友人と引き離され、帰りたくもない実家に帰る数日は、少女が思う以上に少女の心にストレスと不安感を募らせていた。
「たった数日~、たった数日~、たった数日~……」
少女は自分に言い聞かせるように帰路につく。
だが、帰路を帰路と思っていなかったことが、この日最初の少女の失敗だった。
"帰る"という意識が、彼女にはまるでなかった。
だから、初手で失言してしまった。
「お邪魔します」
少女は、見慣れた我が家に入る。
帰って来た娘を、笑顔の父が出迎えた。
「おお、お帰り。元気にしてたかい?」
「……ただいま戻りました~、お父さん~、お母さん~」
『ただいま』ではなく、『お邪魔します』と言った娘を見て、母親が憎悪で表情を満たしたのを、車椅子の少女は見逃さなかった。
「ああ、また叩かれるな」という確信が、少女の中に自然と湧いていた。
3人で食事をして、ぽつぽつと話して。
学業の話、海の向こうの話をして。
父親が風呂に行ってから、1分の後。
母親は、少女を殴り飛ばした。
「痛っ」
「忌々しい……忌々しいのよっ!」
横転した車椅子を、母親は怒りで脳のリミッターが外れた脚力で蹴り飛ばした。
車椅子が遠く離れ、足が動かない少女が床に取り残される。
歩けない娘の足を、母は全力で踏み抜いた。
「……っ」
「あんまり痛くないでしょ? あんたは出来損ないだからね。こんな感覚もちゃんとしてない足、いっそ折ってあげましょうか」
「……やめっ……」
「声が小さいって何千回何万回何億回言ったと思ってんのよクソガキっ! お前の怠い喋り方と小さい声で、どんなに会話中イライラさせられてきたか! 今日だって、今日だって! あんたのせいでこんなに苛ついてる! あんたのせいで!」
じんわり広がるような鈍い足の痛みに少女が表情を歪めると、母親はその襟首を掴んで至近距離から顔を見る。
顔に穴が開くのではないかと錯覚するほどに、母親の目力と目線は強烈だった。
数秒見つめ、母親は泣いた赤ん坊のような表情に変わり、娘の体を全力で床に叩きつけた。
「かふッ」
「……っ、……ッ、……うッ……こんな……こんな育ち方をして……こんな、こんなっ……!」
今日、この日は。
この母親にとって、地獄だった。
帰って来た娘を見た瞬間、一瞬母親が憎悪に染まったのは、娘がただいまと言わなかったからだけではない。
自分の若い頃より美人に育っていたからだ。
「こんなっ……こんな顔にッ……!」
かつて一世を風靡したモデルである少女の母親は、自分の美しさに絶対の自信を持っていた。
彼女の美しさに誰もが傅き、貢ぎ、頭を垂れた。
彼女にとって、自分の美しさとは自分の価値の全て。
自分の存在意義の全て。
母親は、自分の性格の苛烈さと悪さを薄々自覚している。
だからこそ、周りが褒めてくれるのも、周りが認めてくれるのも、周りが受け入れてくれるのも、自分の美しさあってこそのものだと思っている。
自分の美しさを邪魔なものだと嫌った娘とは対照的に、母親は自分の美しさを命より重いものであると定義していた。
そして。
ある日、気付く。
シワが1本増えている。
ある日、気付く。
化粧のノリが悪い。
ある日、気付く。
声の調子が悪いまま戻らない。
魅了する美しい声が戻らない。
ある日、気付く。
シワが増え、白髪が一本見つかった。
ある日、気付く。
どんな角度からでも光を当てれば至高の美人に見えていたはずの自分が、光を当てる角度によって酷く老いて見えたため、光の角度を考えなければならなくなった。
古来から医療の世界では、『女性は7の倍数で歳を取る』と考えられてきた。
7歳で幼児期を終え、14歳で思春期となり、21歳で成熟し、28歳で完成し、35歳から老化が始まり、42歳で誰が見ても老化した容姿となり、49歳で閉経を迎える。
結婚し出産したのが27歳。
娘が今ミドルスクール3年生の15歳。
つまり、母親は今42歳。
その衰えは、必然だった。
「ありえない、ありえない、ありえない」
娘が小学校に入ったくらいからもう、兆候はあった。
現実が与えてくるストレスを解消するため、母親は娘に対する虐待を加速させる。
そんなことをしても、何も止まりはしないのに。
迫りくる『老い』という絶望の壁に、彼女はゆっくりと潰されていく。
「そんなはずない、そんなはずない、そんなはずないっ───!」
そして、仕事も減っていく。
客もクライアントも正直だ。
老いていく『元美人』モデルなんかに仕事をやる義理も、関連商品を買ってやる義理も無い。
ごく自然に、仕事が無くなっていく。
彼女が狂ったのは、20年以上毎月仕事をくれていたモデル雑誌から、契約解除の申し出が来た日のことだった。
「待って! 納得できないわ!」
「納得はできなくても理解はしてるんでしょう?」
「っ」
「もう限界ですよ。自分の年齢を考えてください」
「このっ……編集の分際でっ!」
母は、灰皿を編集に投げつけた。
編集の額に灰皿が直撃し、タバコと灰が撒き散らかされ、灰まみれになった編集者の額から一筋の血が流れ落ちる。
編集はずっと、冷めた目でその女を見ていた。
昔名車だったというスクラップの鉄クズを見る目であった。
「間野谷さんには長年我が雑誌を支えていただき、編集部一同感謝の念が絶えません。貴女を尊敬していない編集者はいません」
「だったら!」
「ですがもう決まったことなんです。これからは最近ウケが良かったVliver系のファッション記事を中心にしていきます。人が土日を過ごす時間はもう現実よりも電脳世界の方が遥かに長くなってますからね。Vliverのデジタルファッションモデルの方が時代に即しています」
少女の母親の、思考が止まった。
「……は? Vliver……? 聞き間違い、かしら……?」
「聞き間違いではありません。イラストレーターとVliverと専属契約を行い、電脳世界におけるモデル活動・ファッション創出をメインに据えていきます。読者応募のオリジナル風景デジタルバース掲載もレギュラー企画に格上げしました」
「そ……そんな、バカなことない! モデルは天然物の顔だから価値があるもの! 作り物の動く絵ごときにわたしの代わりができるわけがない!」
「本当にそう思うんですか? イラストのキャラクターの顔は作り物ですけど、別に需要が低いわけじゃないですよ。特徴があって変更可能な目、髪、体、スタイル……昔から『上等な服は上等なマネキンに着せておけ』なんて言われることもありましたが。今のVliverは最高のモデルにも、最高のマネキンにもなれるんです」
「ッ……」
「貴女が商品を着て高級車と一緒に夕陽を眺めるCMを流すより、春服の新作をあらかたスキャンして取り込んで、女性人気が高いVliver達が集まって春の新作の良し悪しをだらだら語ってる動画の方がずっと広告効果は高いんですよ、もう」
母は、真っ青な顔で崩れ落ちる。
編集は、あいも変わらず冷たい語調を続ける。
「現実で流行ったファッションを、電脳世界の女子高生が皆して着てるような時代ですよ。いつまで化石みたいな旧世代の思考を引きずってるんですか、貴女は」
だが、娘にも遺伝した理不尽に立ち向かう負けん気の強さ、ガッツの強さが発揮される。
母親は立ち上がり、編集に食って掛かる。
「第一、平等じゃない! わたしが老いるように誰だって老いる! そ、そんなんじゃ、わたしの代わりをいくつ立てたってまたすぐ老いで入れ替わる! 雑誌の内容を長期間変えない安定感が売りのこの雑誌がそれでやっていけるわけ───」
しかし。
「面白いこと言いますね。Vliverは少なくとも外見は老けないんですよ。あなたと違って」
「───え」
帰って来た言葉は、核心たる残酷だった。
「おっと……すみません、失言でした。失礼します」
額から流れる血を拭き、編集は去っていった。
後に残された母親は、編集が置いていった、自分が載った最後の号を手に取る。
表紙を飾る彼女の顔は、誰がどう見ても『若い』とは言えず、『美しい』が失われる寸前の顔だった。
「あ」
母親は、昔自分が言ったことを思い出す。
Vliverの中身はブサイクだろう、自分の顔に自信が無いから顔を隠しているんだ、と生放送インタビューの中で言ってしまって、それで炎上したことがあったのだ。
彼女の意見は変わらない。
今も彼女は、Vliverを自分より圧倒的に下等な底辺だと確信している。
何故なら、顔を隠しているから。
自分の美しさを己の存在価値の全てと定義している彼女にとって、顔で勝負できない人間とは、いくらでもバカにしていい相手なのだ。
だから燃えた。
そして、その言葉が今自分を刺しに来た。
Vliverに仕事を取られたという事実が、見下していた相手に負けたという事実が、彼女に自身の歪みと自身の老いを突きつける。
「あああ」
生まれつきの顔が美しい自分は、生まれつきブサイクで後天的に頑張った人間の誰よりも優れている。
彼女は本気でそう信じて生きてきた。
何故なら、彼女は自分の生まれ持った美しさによって、彼女より頑張った人間の誰よりも多額の年収を得てきたからだ。
彼女には生まれつきの勝ち組の自覚があり、生まれ持ったものを磨き上げてきた成功者の自覚があった。
だが、経済において美とは商品価値であり、商品価値を決定するのは消費者の選択である。
性格の悪い美人と優しいVliverのどちらに金を落とすかを選ぶ権利は、常に消費者にある。
老いによって急に変化が起こったわけではなく、彼女はその人格に対する評価もあり、ゆっくりとその商品価値を低下させていって、そして今に至っている。
その結果がこれだ。
「あああああ」
長年続けてきた雑誌の構成を変えることは、苦渋の決断であっただろう。
長期間専属モデルを使い続けた雑誌は、そのモデル目当てで買い続ける固定層を定着させる。
かつて一世を風靡したモデルを辞めさせ、いくら反響が良かったと言えど実写モデルとジャンル違いのVliverモデル路線を選ぶなど、2050年を過ぎた電脳世界拡張期のこの時代においても相当に博打のはずだ。
売上はしばらく、確実に減るだろう。
だが編集部は、公然と『他人が創った美しさ』をバカにする老いた美人モデルより、笑顔で『皆を楽しませる美しさ』を作り続ける者達を選んだ。
そういう雑誌にしたいと、皆で相談して決めたのだ。
「あああああああああ」
女は狂い、雑誌をバラバラに引き裂き、そこら中に投げ散らかして、叫び続ける。
老いるモデル。
老いないVliver。
天然物。
作り物。
嫌われ者。
好かれる者。
まるで、世界の全てが彼女の敵のよう。
「あああああああああああああッ!!!」
そして彼女は今日も、夫にヒステリーの叫びを叩きつけ、家で一番弱い障害者の娘を痛めつける。
精神的にも、肉体的にも、傷付ける。
いつものように、昨日も、今日も、明日も。
その苛立ちを娘にぶつけるという性格が、彼女を救おうとする者が誰も居なかった理由だった。
優しくない彼女を、誰も助けはしなかった。
娘は美しく生まれたため、外見の美しさではない、心の美しさ、心の繋がり、心に対する称賛を探した。
母は美しく生まれたため、外見の美しさだけで全てを解決できてしまい、気付けば美しい外見の内側に醜いものを溜め込んでしまい、それがどうしようもないほどに染み付いてしまった。
だから。
今がある。
母親は狂乱する。
娘は、自分の若い頃にそっくりだった。
いや、母が若い頃よりも、今の娘の方が美しい。
またしてもこの母親は、自分が見下していた相手に負けた気持ちになり、それゆえに完全に不可逆に壊れ果ててしまっていた。
「その顔! その顔、その顔が……その顔がっ!」
足が動かず逃げられない少女を、母が蹴る。蹴る。蹴る。その度に、肉を棒で叩くような音がする。
背を蹴れる。
腹を蹴れる。
腕を蹴れる。
足を蹴れる。
なのに、顔だけは蹴れない。
蹴ろうと思えば蹴れるはずなのに、母親は娘の顔だけは絶対に蹴ることができないでいた。
「その顔がぁッ!!」
母親は、娘の顔から目を離せない。
この頃の自分に戻りたいと、母は願う。
叶うわけがない。時間は戻らない。
また美しい自分に戻りたいと、母は願う。
不可能だ。そして、心が救いようがないほどに醜い。
愛されたいと、母は願う。
誰も本当の意味で愛したことがないのに。
救われたいと、母は願う。
救われたい娘を踏みつけながら。
極めつけは、夫が娘に向ける目線。
その目線に内包されていた感情。
母は気付いている。
自分が失ったもの、欲しいもの、取り戻したいもの……それら全てを、今娘が持っていることに。
美しさ。
未来。
友人。
成功。
称賛。
それ以外のものも、少女はこれから手に入れていくだろう。
「なんでよ! なんでお前なんかがっ……!」
母は、生まれて初めて、人間未満の娘への苛立ちではなく、『未来ある美しい娘への嫉妬』で、娘に対して暴力を振るっていた。
「お前は出来損ないでしょうがッ!」
母は歯噛みする。
"綺麗ですね"と言われなくなった。
気取ったドレスを着ると、陰で誰かが鼻で笑う音がした。
だらしなくなってきた体がみっともなくて、お気に入りの露出の多い服を全て燃やした。
生まれつきの美しさを周囲に見せつけるため、薄化粧に露出が多い服を着てパーティー会場の中心を堂々と歩いていたのに、老いた体を見られたくなくて、化粧で隠し、露出の少ない服を着て、会場の端でずっと談笑する女になってしまった。
母の全ての感情が、これからがある娘に対する憎悪に転換されていく。
「なんで!」
自分より新品。
自分の上位互換。
自分を超える最新型。
そんな娘と自分を比べて、"自分の方が劣っている"と突きつけられ、母は娘に馬乗りになる。
「なんで!」
人は、五体満足な体があるというだけで、足が動かない女の子に一方的に暴力を振るい、言うことを聞かせることができる。
それは、とても卑劣なことだ。
知性も理性も放棄した、獣の理屈で人の上に立つやり口。
「なんで!」
だが、この場においては。
精神的に上に立っているのは、母親ではない。
「なんでそんな目で、私を見るのっ……!」
少女は母親を見ていた。
まっすぐ、怯えず、揺らがずに。
それは、戦う者の目であった。
娘に対する認識が、3年前から止まったままの母親が、一度も見たことのない目であった。
「あなたなんかに心が負けてたら~、いつかまた会った時に~、あの人に『頑張ったんだな』って言ってもらえないような気がするので~」
「……は?」
「わたしは~、お母さんができないって言ったことを~、お母さんができないことも~、頑張ってできるわたしに~、なっていって~」
母の拳が、話の途中で娘の腹を叩いた。
いつもそうして黙らせてきたから。
服で隠れる、よって虐待が発覚しにくい、極めて理性的な虐待親の知性が残った怒りの拳だ。
「できるわけないでしょうが! できるように生まれてこなかったのよ、お前は! お前がもっと普通にできる子供だったら、わたしだって苦労しなかった! お前に何ができるの! 何もできない子供だったから、わたしが躾けてあげてるのに!」
母はもう一度、拳を叩き込もうとする。
だがその手は、娘の手に阻まれた。
「お母さんが~、できないって言ったって~……もしかしたら、あの人なら、"お前にはできる可能性があったぞ"なんて、言うかもしれないから……」
「親よりお前のことを知ってる奴なんているわけないでしょうが!」
「……っ」
「人並みにもなれないくせして、なに人並みに人生に夢を見てるのよ! 『これから』を楽しみにできるような体に生まれてないでしょうが!」
ぐらりと、少女の心が揺れて。
───分かるか。できないと決めたのはお前だからだ。親の言いなりのまま『わたしなんかにはできない』って思ったなら、それは最悪お前を殺すだろう
揺れた心が、元の位置に戻る。
「お母さんがいくら言っても……できないかを決めるのは、わたしだから。親の言いなりになって……わたしなんかにはできない、なんて、絶対言わないっ……! 世界がどんなに理不尽だって、諦めて不貞腐れて八つ当たりする人間になりたくないっ……!」
「───」
「自分の可能性を、諦めたくない! わたしには可能性があるって、信じてくれた人が、1人でも居るんだから!」
ドン、と娘が母親を突き飛ばした。
人生で初めて、母に抗った瞬間であった。
虐待され、数え切れないほど心を折られてきた少女が、その瞬間どれほどの勇気を振り絞ったのか、本人以外には推し量ることさえ叶わないだろう。
そして、母の方は。
「……えっ……」
サンドバッグが殴り返してきたことに、多大なショックを受けていた。それは、起きるはずのない想定外のことだったから。
「……」
「……?」
少女は、自分がそこまで下等な存在として見られていただなんて想定もしていなかったため、母の今の心情が全く理解できず、止まった母親にひたすた困惑する。
母親の方も少し再起動に時間がかかったが、やがて現実にピントを合わせ、逆らってきたサンドバッグへの怒りで思考を沸騰させる。
「折檻部屋ね」
「……!」
この家には、折檻部屋というものが存在する。
構造的には地下にあるただの物置きであり、誰に見られても特に困ることはないが、極めて防音性能や清掃の利便性が高く、地下のため窓から覗かれる心配や異臭騒ぎも起こりにくい。
つまり、『監禁部屋』としての性能が非常に高い部屋である。
少女はかつて、土日を使って食事も与えられずこの部屋に監禁され、糞尿に濡れたままずっと泣いていた。そんな躾を行われたこともあった。
折檻部屋は──バレるリスクを下げるため──大きな傷を付けないように娘を苦しめるために改装された地下物置であり、サイコパス的な理解できない思考の産物ではなく、極めて理性的で人間的な打算の産物である。
少女の脳裏に浮かんだ言葉は『折檻部屋は嫌』ではなく。
『ああ、またか』だった。
「準備してくるから」
母が部屋を出ていく。
少女は這って脱出しようとするが、どう考えても母が戻って来るまでに脱出できる可能性は0。
極めて理想的な女性らしさを身につけた体は、相応の重量と凸凹を備えており、つまるところ這う邪魔で、こういう時にマイナスにしか働かないのだ。
「……っ」
けれど、少女は諦めない。
憧れた人の試合を見てきた。
この3年、ずっと彼を応援してきた。
彼が途中で諦めたことは一度も無かった。
ただ淡々と、静かに、穏やかに、揺らぎも迷いも油断も無く、彼は目の前のことに全力を尽くしていた。
「わたし~、も~っ……!」
画面の向こうの誰かの姿に勇気付けられ、元気付けられ、"自分も頑張らないと"と思わされる。
それは、Vliverとリスナーの関係性に、どこか似ていた。
だが、この状況さえ序の口だった。
世界という名の
ドアが開く音がする。
母か、と思った少女が振り向く。
だがそこに居たのは、風呂上がりの父だった。
腰にタオルを巻いているが、全裸だ。
「おや」
その時。
少女は、肌に慣れた感覚を覚えた。
海の向こうで、男の子達が理性で抑えつけ、少女に対する親しみや尊敬で封じようとしていたもの。
むき出しの"それ"が、少女に向けられている。
少女はそれを知っている。
自分に性欲が向けられている感覚。
一世を風靡した美人モデルの母の生き写し、いやそれ以上の美人である容姿。
吸い込まれるような瞳、整った鼻、扇状的な唇、美しさと儚さを感じさせる小顔。
男性の性欲を煽りに煽る、美しい細身に大きな胸と尻。
3年間で経た体の成長。
離れていたことによる、家族感が生む忌避感の無さ。
そして、力任せに組み敷ける上に、逃げる手段がない足。3年前にあった『痛みを与えれば一切逆らわず誰にも言わない従順な子』のイメージ。
弱い相手、反撃してこない相手には、普段かかるブレーキがかかりにくくなる、人間の本能。
若い頃の母の容姿に猛烈に惚れた父の嗜好は変わっていない。その頃の母の容姿をなぞり、順当な上位互換として少女は完成している。父は老いた母をずっと抱いておらず、性欲も溜まっている。だから。
魔が差した。
ゾワッ、と、少女に鳥肌が立つ。
昔なら分からなかった。
今なら分かってしまう。
幸か不幸か、『子供』から『女』になっていく過程で、少女は自分に性欲が向けられる感覚を理解してしまった。
美人は得だ。
誰もがそう言う。
本当に?
「あ、あの~……」
「床に転がってどうしたんだい? ソファーに上げてあげよう」
少女の目に、歩み寄る父の腰に巻かれたバスタオルが、ゆったりと膨らんでいくように見えた。
その下にあるものが、大きくなっていく証。
「ひっ」
娘の小さな悲鳴を、父は無視した。
「どうしたのかな。僕は君の父親だよ、安心なさい。ほら、思い出して。お母さんは君をいじめたけど、僕は君をいじめなかっただろう? 僕は君の味方だよ」
「……ぇ、ぁ」
「大丈夫。新しいことを教えてあげるだけだからね。お母さんの折檻と違って、痛いことは何も無いよ。僕が君を愛してるからしてあげることなんだ」
止めなかったくせに何を、と言いたい心があったのに、未知の恐怖で身が竦んだ少女は、何も言うことができなかった。
強姦事件の多くは、見知らぬ人からではなく、知人からの加害であるという。
強姦事件で最も多い動機とは「一緒に過ごしている内につい魔が差して」である。
子供が受ける性被害は一般的なイメージの数倍、十数倍、家族からのものが多い。
そして、それが性被害であると自覚できない子供も多い。
親は常に「これは悪い事じゃない」「愛だから」「皆やってるよ」と子供に言い、親を信じる事から人生が始まる子供は、多くが親の言う通りにしてしまうからだ。
父はドアを開け、隣の書斎に移動する。
本嫌いの母がめったに入らない部屋だ。
防音もしっかりしており、静かな読書を可能とするが、反面中で大声を出しても外には聞こえない。
書斎のソファーに、少女は寝かされた。
父は微笑んでいる。
数分後の"お楽しみ"を想像して、それを楽しみにする気持ちで、微笑んでいる。
少女の胸中に未知の恐怖が満ちていく。
抵抗は無意味だ。
力も無い。
足も無い。
父が娘に性欲を持った時点で、ただそれだけで、少女は詰んでいる。
「……ぁっ……」
「大丈夫、お父さんを信じなさい」
母に立ち向かう日のことを、少女はずっと考えていた。
その日のために勇気を育て、十年以上重ねられ続けてきた枷を壊す力を、ずっとずっと溜め込んできた。
だが、こんな想定などしているものか。
こんなものに立ち向かう覚悟など、少女はこれまでの人生のどこでも、考えたことすらなかった。
少女は分かっているつもりだった。
この家には敵しか居ない。
母は常に害しか与えてこず、父はそれを止めず、むしろ助長することしかしてこなかった。
だが、本当は分かっていなかった。
少女は、両親が自分を『嫌いな家族』だと思っていると、そう考えていた。
だが、違った。
母は無自覚なまま娘を『サンドバッグ』だと思っていたし、父は娘を『とても好みなラブドール』と見始める程度のものにしか見ていなかった。
それで損なわれる娘の人生など、両親にとってはどうでもいい。
心に一生消えない傷が付いても。
体に一生消えない傷が付いても。
この両親にとってはどうでもいい。
娘が一生のんびりとした笑顔で傷を隠して生きていくことになっても、両親にとってはどうでもいい。
少女は、『嫌いな家族』などという相対的に上等なものになれたことなど、一度も無かったのだ。
今日ずっと、繰り返し入っていた小さな心のヒビが、一気に大きな亀裂へと広がっていく。
頑張って生きてきた人生の結果がこれだ。
少女も、流石に力が入らない。
心からも体からも力が抜けていく。
それを父親は、娘が自分を受け入れたのだと勘違いした。
「いい子だ」
書斎の外を母がうろついて、娘を見つけられないことを不思議に思い、別の部屋を探しに移動していった音がする。
父の手が、少女の前髪を払って、瞳を瞳で見つめる。
指先が髪を優しく撫で、そのまま首筋を撫でる。
父の手は少女の細く美しい手先を優しく持ち、その指先にキスをする。
汚い手だと、少女は思った。
「脱がすよ」
父はずっと、娘の綺麗な顔と大きな胸を交互に見ていた。
待ちに待った、といったところか。
少女の服の前のボタンを、あえてゆっくり、ゆっくりと、父の手が上から順に外していく。
娘の胸の谷間が見えた瞬間、ごくりと唾を飲み込む父の顔は性欲に濡れていて、この世の何よりも醜悪だった。
少女は怯えと諦めに耐えきれず、目の前の現実から目を逸らすために、目を瞑る。
降りた瞼が、彼女を現実から切り離してくれる。
けれど、布の擦れる音とボタンが外される音が、耳を通して彼女に現実逃避を許さなかった。
もっとちゃんと逃避するために、少女は楽しいことを考えて乗り越えようとする。
楽しいことでも考えていないと、乗り越えられそうにもなく、けれど。
"乗り越えても、事が済んじゃったら汚れたわたしだよ"という自分の心の声からは、必死に目を逸らして考えないようにした。
「お父さんは、君を愛してるからね」
だって。
こんな現実に向き合うことなど、15歳の女の子にとっては酷すぎる。
心が壊れてしまっても変ではない。
少女が思い浮かべたのは、彼の姿。
人生最高の日。
他のどんな日よりも輝いている、他のどんな日よりも鮮烈に記憶に残る運命の日。
どんな友達との思い出より、彼と出会えた日の思い出の方が、いつまでも強く彼女を支えてくれた。
少女は思い出の妄想の中に逃げた。
大会会場。
無料で配られるキーホルダー。
待機列の人達が入っていくテナントカフェ。
その隅にあるテーブルに、車椅子の少女がつく。
少女はワクワクしながら、彼を待つ。
妄想の中でなら、彼という味方が居る。
それだけを救いと考え、彼を待つ。
やがて、彼が来た。
少女の表情がぱぁっと明るくなる。
だが、記憶の通りなら彼はここで少女の横に座るはずなのに、一向に座らない。
不思議に思った少女が車椅子の上から彼を見上げると、彼は立ったまま少女を見下ろし、少女を見つめ、そして。
溜め息を吐いた。
『はぁ』
期待していたから、がっかりしたと。
そう言うように、幻は溜め息を吐く。
「
それは、"都合の良いYOSHI"を絶対に許さない少女の脳が生んだ、解釈違いの妄想を許さない少女のこだわりが生んだ、
「───っ」
少女の追い詰められた心が見せた幻は、少女の記憶から形作られた幻のYOSHIは、彼女に手を差し伸べない。いつも、立ち上がる足を与えてくれる。
だから。
いつだって、立ち上がるかは彼女次第だ。
ヒビ割れた心が戻って行く。
「ああああああっ!!!!」
少女はつけっぱなしだったインカムを掴んで、全力で父のこめかみに叩きつける。
少女が普段から身に着けている硬いものなど、これしかない。
ゆえに、これだけが少女に寄り添う聖剣だ。
「うがぁっ!?」
それはYOSHIの身体運用を何度も見てきた少女が、見様見真似でそれをなぞってみた一撃。
YOSHIの身体運用に対し、模倣率は1%程度。
真似と言うにはあまりにも不格好。
だが、それだけで十分だった。
運動経験の無い身体障害者が押し倒された状態から繰り出す一撃としては、それは完璧と言っていい体重の乗り方をしていたから。
体を動かす能力が足りない少女が、この世で一番体を動かすのが上手い少年を真似て、ほんの少しだけハンデを埋めた一撃であった。
痛みに飛び上がった父親が、よろめくままに書斎本棚に衝突する。
少女はソファーから落ち、痛みと状況の不明瞭さからパニックになりかける。
その時、YOSHIの言葉が蘇った。
───俺はMIROKUの首を刎ねた直後に周囲を見渡して記憶した。観客席で、俺が誘導した方を見てなかったのはお前だけだ。なんで俺が騙しを入れて仕掛けた瞬間、俺が居た方に目を向けられた?
"周りをちゃんと見る"。
それが彼の基本的な強さ。
周りをよく見て、見たものを覚えて、それをどう使うかを考えるべし。
少女は周りを見て、書斎のドアに向かって這い出した。
「待て!」
だが、這う少女に歩ける人間が追いつくなど造作もない。
父が追いかけ、娘の動かない足をむんずと掴む。
少女はすかさず絨毯を掴み、引っ張った。
すると、部屋の隅の背の高い観葉植物が下の絨毯に引っ張られ、倒れてくる。
そして這いずっている少女に当たらず、立っている父の顔面に直撃した。
細い枝が、顔や目に浅く突き刺さる。
「ぐあっ!?」
娘の予想外の反撃と、想定していなかった痛みによって、父は悶える。
その隙に少女は書斎のドアまで辿り着き、よじ登るようにドアノブを掴み、書斎から出る。
先程まで母に痛めつけられていたリビング。
転がっている車椅子。
ここからまだ玄関までは距離がある。
おそらく普通に這いずって逃げたところで、100%父に追いつかれてそこで終わりだ。
その時、YOSHIの言葉が蘇った。
───よく考えて話す奴だな。偉いぞ
遅いことは出来損ないなんかじゃない
よく考えて喋ることは欠点なんかじゃない。
迂闊に動いて失敗するよりはずっといい。
───お前は、相手を不快にさせるのが嫌だから言葉を選びに選ぶ、優しい奴なんだな。素直に感心する
そして、思い出の言葉が勇気をくれる。
"わたしは駄目な子なんかじゃない"と、決断に自信をくれる。
風が迷いを吹き散らしていく。
少女は書斎ドアのガラスを、インカムで思い切り叩いて割った。
大きな音が鳴り、ガラス片が撒き散らされる。
こんな乱暴な扱いをしても全く壊れる気配のないインカムは、頑丈さにおいても高級性を示しており、少女は心の中でYOSHIにまた感謝した。
「痛っ」
少女は這いずる。
這いずるゆえに、手と腕に跳んだガラス片が刺さっていく。
少女は血を流し、痛みに耐え、それでも進んでいく。
「あづっ!?」
そんな少女の後方で、父の痛みの声が上がった。
父は風呂上がりであった。
つまり、裸足だった。
裸足でガラスの破片を踏めば、全身の体重がかかる分だけ、這いずる腕より遥かに深く突き刺さる。
少女が撒いた時間稼ぎは、想定通りに機能した。
しかし、それでもてんで話にならない。
それほどまでに、移動速度の差は大きい。
父は足に刺さったガラスを抜いて、ガラスを避けて、それから娘を追いかけても余裕で捕まえることに成功していた。
父の手が、娘の服の背中をがしっと掴む。
娘の抵抗は父の情欲をむしろ煽り立てており、抵抗する美少女を無理矢理組み伏せる快楽を父の内へと湧き上がらせていた。
「捕まえたぞ。やんちゃな子だな」
「っ」
「さぁ、戻ろうか」
けれども、実は少女の少目標は達成していた。
打倒、翻弄、連携、逃走、時間稼ぎ。
どんな手段も等しく手段でしかなく、最終的に目的を達成するため、有用なものを選んでいくというのがYOSHIのスタイル。
大きな音を立ててから時間を稼いだ時点で、少女が作りたかった盤面は自然に完成した。
「なに……してるの……?」
それは、地獄であった。
服を半ば脱がされて逃げる娘。
情欲に濡れた表情で、股間に発情の証を立てた全裸の父。
そして、ガラスが割れる音を聞いて駆けつけた母。
それは、母によって絶望であった。
狂うに足る現実だった。
老けたお前の代わりの女はもう居るぞ、と。
男に求められるのはお前じゃない、と。
お前はもう愛されていないぞ、と。
お前はもう要らないぞ、と。
だけど娘は望まれ求められるぞ、と。
現実が、母の心を磨り潰す。
怒り、憎しみ、嫉妬、狂気が加速する。
この時、母の中で、憎い人間1位の娘と2位の父の位置が、逆転した。
そして、母の内にある数少ない真っ当な人間らしい部分が、"父が実の娘を強姦するなど許されない"という怒りを吹き出させ、それが最後の引き金となった。
今までどんなに父に虐められようと暴力には訴えなかった母が、怒りのままに拳を握る。
母は般若の狂乱にて怒りを振り回し、娘を犯そうとする父へと襲いかかる。
「あ……ああああああッ!!!」
「待て! 落ち着け!」
母が父に襲いかかっている隙に、少女はリビングを抜け出す。
このまま玄関から逃げ出したいところだが、玄関はまだ遠く、玄関から逃げ出したところで外で捕まる可能性はある。
外で助けてを求めても、父の権力が強いこの地域では、仮に警察が駆けつけても近所一帯で口裏を合わせられて乗り切られてしまうかもしれない。
その時、YOSHIの言葉が蘇った。
───お前のそれは、他の誰にも生み出せないものを生み出せる資質。見つける力はただのおまけだ。歴史に残る芸術家の目に、普通の人とは違う看破力が宿る事例と似ている。最初に自然から芸術を見つけた原始芸術家の能力だ
周りをよく見る。
よく考えて動く。
他人が気付いていないことに気付く。
それが、彼が教えてくれたこと。
父と母の喧嘩は、父がほどなく勝ちそうだった。
性別の差は大きい。
その後の流れは不明だが、母を沈黙させた父が追って来てそのまま犯される可能性は十分にあるだろう。
少女は車椅子の方を見た。
横転した、少女1人の力では中々ひっくり返すこともできない、AI制御の車椅子。
少女はよく通る声で、
「
主の声を聞き、車椅子の『持ち主の帰還命令ワードを感知して主の下へ自走する』機能が発動する。
しかし、横転している車椅子は走らない。
回転するタイヤは接触している壁を蹴り、勢いのままドタンドタンと跳ね、母を組み伏せている父の背中に衝突した。
「ぐあっ!?」
少女の援護によって父が転がされ、父の優勢が消え、喧嘩の天秤がまた釣り合う。
これでもう少し時間が稼げる。
少女はそのまま、玄関ではなく、折檻部屋に向かった。
もう二度と行きたくないと思っていた、嫌な部屋。
だが折檻部屋は、中の声が漏れない地下の一室だ。
足が動かなくても、地下に続く階段を転げ落ちるように移動すれば、歩いて移動するのと速度的には大差がない。
「痛っ……がんばれ~わたし~……!」
階段を転がり落ちた痛みに耐えつつ、少女は這って折檻部屋へと入り、ドアにつけっぱなしの鍵を手に取り、内から締めた。
この部屋は、この鍵がなければ内からでも外からでもドアを開けられない。そういう構造になっている。
母はこの部屋を使わない時、こうしていつもドアに鍵を挿しっぱなしにしている。
虐待が1回や2回だったなら、少女もそんなことに気付かなかったし、覚えていなかっただろう。
だが、1回や2回ではなかった。
だから覚えていた。
ゆえにこうなる。
全ての因果は繋がっていくもの。
「はぁ、はぁ……繋がる……のかな~……」
少女は誰も入れなく鳴った安全地帯にて、インカムを操作し、通話を繋げる。
海の向こうの、友達に向けて。
そしてYOSHIが授けたこのインカムには、単独で海の向こうへと通信を繋げられるほどの性能がある。
このインカムは少女に渡されてからずっと、少女の目で、少女の耳で、そして少女の声として、少女を助け続けてくれた。
「にゃっちゃん、お願い、助けて……!」
『……何か起きるんじゃないかと思ってたよ』
電話の向こうの声に、少女がほっとする。
そして少女は1つ1つ、今日起きたことを説明していく。
電話の向こうの眼鏡の彼女は、最初は努めて冷静に話を聞こうとしていたようだが、少女の話を1つ聞く度に心を震わせ、声を荒げて、言葉に熱がこもっていく。
『任せな。誰にでも優しくできるすーちゃんは、誰からだって愛されるから、すーちゃんの友達の中の1人がたまたま、警察の偉い人の娘だってこともあるんだよ。そいつがすーちゃんを助けたいって思ってることもあるんだよ。あたしは思う。皆がその人を助けたいって思ってること。そいつが、優しい人への唯一無二の報酬なんだって。どんなに恵まれてなくても、不幸でも、親がクソでも……優しい人と知り合ったら、その人は優しいから幸せになってほしいって、人間は思うものなんだよ』
「うん……うんっ……うんっ~……!」
『すーちゃんに幸せになってほしいって、皆思ってるんだよ』
かくして。
一線を越えた両親と、談合に応じない外部の勢力の介入によって、少女の家庭に存在した底無しの地獄は終焉を迎える。
全てが終わり、全てが始まる夜は、大ニュースになるほどの大騒ぎと、法治の介入によって幕を下ろした。
夜間開催の大会が終わった。
それは東京で行われた、一定以上のレートレベルがなければ参加できない
100人で戦い、最後に残った1人が勝者となるゲーム。
『最後に残ったのは……この男! 天才の評価は未だ陰らず! YOSHIだあああああああああっ!!』
今日もまた、彼は優勝していた。
最後に残った2人の片方、敗北した
銀の髪の美少女は、今日も惜しくもYOSHIには及ばなかった。
YOSHIもまた、無感情な仏頂面で見つめ返す。
「次は負けない」
「そうか。ならそうしてくれ」
2人で控室に向かって歩いていくと、控室のテレビからニュースの声が響く。
『速報です。近年成長著しいVR技術開発企業、アイ・ノウ・テックの社長夫妻が、暴行他多数の容疑で逮捕されました。容疑者は長年自分の娘を虐待しており、今回娘に性的暴行を行おうとした疑いが持たれています。また、地元企業との談合と癒着によって着服・インサイダー取引の容疑が発覚した他、秘密を共有する地元企業に特定の証言を強要していたと見られ、警察は過去の捜査に対する妨害行為でも───』
銀髪の少女は、首を傾げる。
有名な企業であった。
だが、そんなものに興味が無い2人は、ニュースの内容がピンとこない。
「知ってる?」
「知らん」
「忘れてるだけかも」
「そうかもな」
それで、話は終わり。
2人で控室のお菓子をつまんで、表彰式までまったりとお茶を飲んで過ごす。
それで終わりだ。
彼らの物語にとって、この事件は、この程度の扱いで流され、翌日には忘れ去られる程度のことだった。
光り輝く道を最速で突き進むYOSHIの物語の裏で、YOSHIの物語とは何の関わりもなく、1人の少女が闇の底で1つの地獄と決着をつけた。
その決着そのものは、YOSHIの物語の影響を与えることはない。
しかし、彼女の人生における『ラスボス』は、今日ここに打倒された。
なればこそ。
これは風成善幸の物語ではなく。
原作の物語を崩壊させる一撃だった。
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