第25話 兄の愛は山よりも高く海よりも深し(最終話)
――ぐるぐると考えている頭に、柔らかい衝撃が寄越された。
お揃いの金髪を梳かすみたいに、ヴェネルディオの手がリヴェルディアの頭を撫でていた。
「ゆっくりと読めばいいよ」
「……」
「詳しく書いてあって、絵もきれいだものね。版画ではないから、毛並みの一本、一本が表現されている」
リヴェルディアのものよりもすらりとした指が、猫の絵に触れた。その動きを目で追ったリヴェルディアは、改めて挿絵をまじまじと見た。確かに、その輪郭はふさふさとしている。色の移り変わりも、滑らかだ。リヴェルディアがこれまでに読んだ本は、どうだっただろうか。この本は、最初のページからそうだっただろうか。そもそも、ここよりも前のページには、何の動物が描いてあっただろうか。
そわそわと、リヴェルディアの手は反対のページの端に引っかかる。ページを戻しても許されるだろうかと悩んだところで、ヴェネルディオの手が重なった。
「前のページが見たい?」
「……」
リヴェルディアが小さく頷くと、ヴェネルディオも共にページをめくった。ちまちまと動くリヴェルディアの手の甲を、重なったヴェネルディオの手の平がじんわりと温める。それが本を支えるために離れたのは、ページが中表紙に戻った頃だ。
結局、最初の最初から読み直すことになった。なんだかいけないことをしている気分になり、リヴェルディアの鼓動はとくとくと速まった。普段なら、通り過ぎたページに戻ることはない。王妃や教育係は、どんどんと先を読み進めていく。無意識のうちに、本を読むときは戻ってはいけないという認識がリヴェルディアにはあった。
しかし、隣のヴェネルディオは何も言わない。リヴェルディアが中表紙をめくり、鷹が描かれている一ページ目を開いても、指先一つ動かさない。
そっと、リヴェルディアはその表情を窺う。
「……!」
――兄は、微笑んでいた。
「……うん?」
「……」
その大人びた双眸は、リヴェルディアを見ていたわけではない。向けられた視線に気づくまで、兄の目は、本の中の鷹を鑑賞していた。何の問題も無いと言うような、穏やかなかんばせで、リヴェルディアが選んだページを見詰めていた。
リヴェルディアもまた、何も話さずに本を見た。
鷹は、緻密な筆致で雄大に描かれている。翼を大きく広げ、獲物を捕らえんとかぎ爪を開いている。リヴェルディアの心には、まるでそれを初めて目にしたかのような感慨が生まれた。やはり声に出すことは難しいが、忘れたいとは思わない、不思議な気持ちだった。
今度こそ、リヴェルディアは図録に熱中した。一ページ、一ページをじっくりと読み、時折戻る。己が選んだページを、己の目でたどる。
隣のヴェネルディオは、何も言わなかった。だが、めくるのを手伝ってくれたり、知らない言葉を呟けば、意味を教えてくれたりした。その声は王妃や教育係に比べるとずっと静かで、リヴェルディアが知っている読書とは異なる時間を作った。それでも、こういう過ごし方も悪くないものだと、リヴェルディアは密かに感じた。今までの己は、本当の意味では本を読めていなかったのではないかとさえ思う。それほどまでに、ヴェネルディオの態度は新鮮だった。
第三王子の迎えは、図録を読みきる前に来た。教育係と、二人の侍従と、三人の専属騎士だ。この後は王妃とお茶を飲む約束があるので、リヴェルディアがこれ以上ここにいることはできない。リヴェルディアは母親のことが好きだから、その約束を反故にしようという気は湧かない。
とは言え、同時にこうも思う。せめて残り半分になるまで、動物図録を読み進めたい。これは第一王子の持ち物だが、借りさせてもらえるだろうか。しかし、私室に持ち帰ったところで、今回のように一人で読むことはできないかもしれない。今日の読み方は、王妃も教育係もいないから特別にそうなっただけだろう。であれば、借りたところであまり楽しめないのではないだろうか。
じっと動きを止めたまま、リヴェルディアは悶々と考えた。視線の先には、猫の親子がいる。最初から読み直したら、この先のページにはたどり着くことができなかった。他にどのような動物が載っているのか、非常に気になる。
――ふと、金色の紐が猫の上を通った。
「リーヴェ、ここに栞を挟んでおくから、また読みにおいで」
はっきりと視認できるくらいの太さに編まれたそれを、ヴェネルディオは本ののどに挟んだ。パタリと閉じられた図録の上から、金色の紐がぴろぴろと顔を出している。これなら、次に来たときにどこから読めばいいのか分かるというわけだ。
栞という画期的な道具を知り、リヴェルディアはぱちぱちと両目を瞬かせた。また、続きを読みに来る許しが出たことが嬉しく、少しだけ頬を緩ませる。礼を口にする代わりに、しっかりと頷いてみせる。
ヴェネルディオに手を引かれ、リヴェルディアは書斎を出た。その後ろを、二人の教育係などが付いて歩く。会話は特に無く、リヴェルディアは床の模様を観察しながら足を動かす。正方形、菱形、この線を飛ばして繋いだら長方形、と連続する多角形を楽しむ。
離宮の門で別れる直前に、ヴェネルディオは地面に膝を突いた。見上げられる形になり、リヴェルディアが首をかしげると、ヴェネルディオはその薄い唇を小さく開いた。
「――静かな時間が欲しくなったら、いつでもおいで」
他の者には聞こえない、囁くような声だった。
「……」
返事の代わりに、リヴェルディアは控えめに抱き着いた。これは次兄がよくしており、長兄が必ず喜ぶ行為だと、リヴェルディアは知っていた。現に、ヴェネルディオは笑い声を漏らした。抱き締め返すその腕も、嬉しそうだ。
教育係に手を引かれ、リヴェルディアは第一王子の離宮から離れていく。一度だけ振り返ると、兄は手を振って見送ってくれていたので、リヴェルディアも小さく振り返した。
井の中の蛙、空を飛ぶ鷹の恐ろしさを知らず 青伊藍 @Aoi_Ai
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