第16話 釣瓶の中の蛙、引き上げられる

 突如、ジルの叫びはいっそうけたたましくなった。


 俺は、服の上から胸を押さえた。心臓がどくどくと強く脈打っている。釣瓶を引き上げるのは、中に蛙が入ったときでなくてはいけない。そして、餌を持ち逃げされてもいけない。かぎ爪で綱を握り締め、羽ばたく瞬間を見極める。


 ――バシャンッ、と何かに水が掛かる音がした。同時に、少女の短い悲鳴がする。


 俺は、右手を上げた。その合図でイオが開けた扉をくぐり、俺たちは離宮から出た。


「……これは、これは、クラッドコード公爵息女。今日は王妃教育で登城しているとは聞いていたけれど、どうして私の離宮にいるのかな?」


 目の前にいるのは、変わらぬ体勢で泣き続けているジルと、その傍らに立つネイ。そして、びしょ濡れになって尻餅を突いているフィルシーの姿もある。その周囲には、物陰に潜んでいたはずの騎士たちがぐるりと並ぶ。いつでも捕獲可能といった状況だ。

 イオの斜め後ろでわざとらしく小首をかしげながら、俺は改めてネイの鬱憤を思い知る。確かに、俺からの指示はフィルシーが触れるか触れないかのところでジルを守れというものだったが、まさか水の勢いで突き飛ばすとは。特大の桶一杯分の水を魔法で一息に放出すれば、少女の体はいとも容易く吹き飛んだだろう。もしもフィルシーを死なせるなという条件が無かったら、無数の水滴を飛ばし体に穴を空けるくらいはしていたかもしれない。尤も、ネイが俺の計画を潰すわけはないが。


 フィルシーは、何も答えない。罠に嵌められたと気づいたのか、悔しげに表情を歪めている。淑女の気品など微塵も無い、ただ憎悪に染まった顔だ。


 ネイが抱き上げたジルを侍女が受け取り、離宮へ連れ帰る。止まない泣き声が届かなくなると、やっと落ち着いて話ができる場になった。


「そういえば、君は以前からあの子に興味を持っていたね。君も遊びたい?あの子はとてもいい泣き声を上げるんだよ」


 くすり、と俺は笑う。言っている内容としては、ジルの元気の良さを褒めているに過ぎない。しかし、このように偏った言い方をすれば、先入観に囚われている者は意味を勝手に取り違える。


「第一王子殿下、私はあなた様に失望いたしました。あれほど申しましたのに、何の罪も無い第四王子殿下を虐待するなんて……!」

「誤解はよしてくれ。私は第四王子に虐待などしていない」

「嘘!この人でなし!!」


 思った通り、フィルシーは現実を見ない。威勢良く立ち上がり、こちらを睨みつける。当然騎士たちが動き出そうとするわけだが、俺は左手を軽く上げてそれを留めた。

 そうだなぁ、と俺は笑みを絶やさないままに考える。どうせなら、欲張りたい。フィルシーの切り札は、透明化の魔法のみだ。もう一歩攻め込んでも、こちらの致命傷になることはないだろう。それに、俺にも隠し玉はある。


 俺はネイとイオをその場に残し、ゆっくりとフィルシーに近づいた。手を伸ばしてもぎりぎり届かない距離で、ぴたりと立ち止まる。


「残念だね。――君は、ランジル・レオ・アルクシアンを救えない」


 なぜなら、その能力が無いから。なぜなら、その資格が無いから。なぜなら、この世界のランジル・レオ・アルクシアンは苦しんでなどいないから。この世界に、救われるべき主人公は存在しない。


「……あああぁぁぁ!!」


 またしても俺の言葉を解釈し違えたフィルシーは、雄叫びを上げた。右手を左の袖に突っ込んだかと思えば、きらりと輝く何かを引き抜く。

 あれ、と俺は己の読み違いを察した。最後に平手打ちでももらっておこうというつもりでいたが、完全に見誤ったようだ。よくよく考えてみれば、この転生者はいつだってまともな行動をしていない。己の正義感に酔って生きる、自己中心的な思考の持ち主だ。何が仕込まれているか分からない手製のガラクタを押しつけ、許可無く王城の隅から隅までを歩き回る人物だ。したがって、ナイフを持ち込むくらいはしてもおかしくないではないか。


 ――パァンッ、と風船が破裂するような音がした。


 俺とフィルシーは、同時に正面からの衝撃を受けた。強風に吹き飛ばされたみたいに、体がくの字に折れ足の裏が地面から離れる。まずい、と俺は反射で右足を蹴り出した。ところが、かかとだけが地面と追突し余計に体勢を崩す。アルクシアン王家が転ぶものか、と焦りに焦った直後、俺の脇に誰かの腕が差し込まれた。


「主君っ、お怪我は!?」

「ヴェネルディオ殿下!!」


 どうやら、俺を受け止めたのはイオだったらしい。一方でネイは俺の対面に膝を突き、負傷していないか必死の形相で確かめている。当の俺自身はと言えば、体中の穴という穴から冷や汗が噴き出たところだ。咄嗟に魔法で空気をかき集められなければ、この身にナイフがざっくりと刺さっただろう。こっそりと練習しておいて良かった。


 ネイとイオによって無事が確認されている間に、俺は澄まし顔を作った。これは想定内だと暗示を掛け、ばくばくと騒ぎ立てる心臓をいないものとする。

 さすがに第一王子が殺されかけたので、騎士たちは俺の指示を待たずにフィルシーを捕らえていた。相手は脳震盪でも起こしたのか気絶しているとは言え、容赦無く縄でぐるぐる巻きだ。


 俺は溜め息を吐きたくなるのを堪え、息を吸った。


「その者は、アルクシアン王国第四王子の誘拐および第一王子の殺害を目論んだ。――連れていけ」


 俺が右手を上げるや否や、騎士たちはフィルシーの頭から布をかぶせた。仮にも公爵息女である点に配慮し、横抱きにして運んでいく。フィルシーにとっては、これが最後のお嬢様扱いだろう。


 俺は私室に戻って次の指示を出す前に、ジルの様子を確認することにした。階段を上って廊下を進み、もう一通りそれを繰り返すと、三階にある子供部屋にたどり着く。

 レースのカーテン越しに日光が差し込む室内で、レイティナが赤子を抱いて揺らしていた。


「ジルは泣き止んだようだね」

「ええ、たった今、お休みになったところです」


 レイティナは膝を突き、俺に腕の中を見せた。そこではジルがすやすやと寝息を立て、あどけない寝顔を披露している。時折唇をむにゃむにゃと動かすのは、夢を見ているからなのだろうか。どうか、幸せな夢であればいい。


「私はしばらく忙しい。ジルを頼むよ」

「お任せくださいませ」


 名残惜しくも私室に戻った俺は、父上に謁見の申し入れを遣わした。――いよいよ、クラッドコード公爵家の終わりのときだ。

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