第15話 井の中の蛙、釣瓶に入る
春になると、フィルシーは活発に動くようになった。王妃教育のために登城した日は、ほぼ毎回、失踪事件を起こしている。ただし、騒ぎにはなっていない。なぜなら、案内役兼護衛として付いている王城の騎士が、俺の指示のもと上手く泳がせているからだ。
王妃教育の後、フィルシーは王城の庭を散策するふりをして、透明化の魔法を発動し城内を探索する。もちろん付き添いの侍女がクラッドコード公爵家から何人か来ているので、たとえ数分間だとしても主人の姿が見えなくなれば人々は慌てる。すると、案内役兼護衛である王城の騎士が捜索の手配をしたように見せかけ、侍女たちを安心させる。やがて探索を終えたフィルシーが何食わぬ顔で戻り、何事も無くて何よりだとその場は収まる。
――この一連の流れは、すでに十日ほど続いている。
驚くべきことだ。公爵息女であり、第一王子の婚約者でもある己の単独行動が騒ぎになっていないことを、フィルシーはどうして疑問視しないのだろうか。王城から護衛の騎士が増やされることもなく、己の侍女からの心配の言葉だけで事態が収まっていることに、どうして違和感を覚えないのだろうか。姿を見えなくしているからと言って、追跡の目を追い払えたとは限らないだろう。むしろ、道ではなく芝の上を堂々と横断するものだから、草の動きや音でどこにいるかは簡単に分かる。どうして、あの転生者はこれほどまでに能が足りないのだろうか。
「本日、婚約者様はこちらの離宮までたどり着かれました。第四王子殿下はヴェネルディオ殿下の離宮にお住まいだと、侍女から上手く伝わったようでございます」
日が暮れた直後、イオの報告を聞きながら、俺はソファーでくつろいでいる。寝間着で飲むハーブティーほど、心が休まる一杯は無い。おねしょを卒業した三歳から、欠かせない習慣として続けている。
「相変わらず、家には話が伝わっていないの?」
「はい、侍女の誰もが秘匿しているとのことでございます。恐らく、こちらの騎士が毎度見逃しておりますから、事を大きくするべきではないなどと考えているのかと」
俺が手を回したことで、フィルシーに同伴する侍女は交代制になっている。その分、事情を知る人数も多い。こちらからすれば使用人の監督責任を問われないようにと配慮したことだが、それが予想外の同調意識を生んでいるようだ。とは言え、クラッドコード公爵がこの危機的状況を知らず、手を打ってこないに越したことはない。
イオの部下が仕入れた話によると、フィルシーは使用人に対して優しいが、己の味方だと無条件で思っている節があるそうだ。アルクシアン王国第一王子である俺の愚痴を平然と言ったり、奇怪な魔法の練習に付き合わせたりしているらしい。それに耐えられず、クラッドコード公爵家に仕えること自体を辞めた者もいると言う。それもそのはず、アルクシアン王家の悪口を言うなど首がいくつあっても足りないし、元に戻らなくなるかもしれないのに透明化の魔法を掛けられるなどごめんだろう。この世界は転生者が思うほど自由ではなく、取り返しが付かないことも少なくない。命は一人一つしか無く、現実は厳しい。
「あの子が次にこちらに来るのは、いつになりそう?」
「明日の朝、王妃教育のためにいらっしゃいます」
「なら、庭で待ち構えてみよう。護衛は増やすけれど、人の数が少なく見えるように配置して。それから、くれぐれもディルとリーヴェをあの子に近づけないように」
「かしこまりました」
その後細かく打ち合わせを済ませてから、俺は床に就いた。ネイの反対は予想以上に強かったが、他の者には任せられないと口説けば折れた。主君思いの臣下を持って、俺は本当に恵まれている。上手く使わねば、その心が離れるというものだろう。
翌朝、俺は普段通りの時刻に起床した。午前中は、以前からの予定通りに勉学に励む。自国の歴史は一通り学び終えたので、最近は隣国の言語の勉強を始めた。昔小競り合いがあった仲だが、今は一応友好関係を結んでいる国だ。俺の代に戦争は起こしたくないので、完璧に習得して友誼をより深めたいと思う。アルクシアン王家の何よりも血筋を尊ぶ性質は、こういう面で不都合だと言えよう。隣国の王家と婚姻関係を結べたら、これ以上に無い意思表明になるのだが。
今日のフィルシーの王妃教育は、昼食が最後に予定されている。俺はその時間を考慮して食事を済ませると、ジルを迎えに子供部屋へ行った。
「ジル、今から外に出てみよう。少しだけ怖い思いをするかもしれないけれど、皆が守るから心配はいらないよ」
「あーうー」
かわいい、かわいい俺の弟。生後六ヶ月になり、ジルは喃語を話すようになった。体全体をばたばたとさせ、おもちゃで遊ぶ時間が格段に増えている。ぐずりが再び見られるようになったのは困りものだが、この際都合がいい。
乳母であるレイティナには己の次男と子供部屋に待機してもらうので、別の侍女がジルを抱っこし、俺たちは庭に向かった。ただし前庭とあって、建物と生け垣の間で芝の上に座るだけだ。壁際の花壇で、アネモネが悠然と揺れている。
日よけの下に大きな布を敷き、靴を脱がないままジルと共に上がった。仰向けに寝転がったジルを、俺は隣で見守る。すぐ近くにはイオと侍女がいる一方で、ネイと護衛の姿は見えない。アルクシアン王国の第一王子と第四王子がいるのに、あまりに手薄な警備だ。ただ、水をなみなみに汲んだ巨大な桶がある点に関しては、不思議な情景に見えるかもしれない。
「ジル、風が気持ちいいね」
「あう……あー、あー」
俺の言葉を理解しているのか、単に口を動かしているだけなのか。本当に、ジルはかわいい。いや、ディルもリーヴェも同じくらいかわいいが。どうか復讐の道を歩まず、生みの親のような愚か者にもならず、かわいい俺の弟として生きていってほしいものだ。生まれの負い目は無かったことにできないが、俺の庇護があれば十分に充実した人生を送ることが可能だろう。俺は、そのための援助を惜しまないつもりだ。
ふと、イオがその場で足音を立てた。それは、標的が来たことの合図だ。
「――びゃ……びゃあああぁぁぁ……!」
瞬間、ジルは泣き出した。まるで、見知らぬ魔法の気配に警鐘を鳴らすかのようだ。そういえば、漫画で主人公はやけに勘が鋭かったか。ランジル・レオ・アルクシアンは、元来そういう体質なのだろう。
これは、なんて、好都合な。
「……後で褒美をあげよう」
思わずそう呟く俺は、口角が上がっている。しかし、せっかくの機会を逃がすような真似はしない。
「喧しい。これだから赤子は」
一際大きな声で、離れた位置にいる標的にも聞こえるように俺は呟いた。ジルをそのままに立ち上がり、イオと侍女を連れ離宮の中に戻る。正確に言えば、閉じかけた玄関扉の裏側に待機するだけだが、これでジルの周囲には誰もいないも同然だ。ほんの少しだけ開いた扉の向こうから、赤子の泣き声が聞こえる。
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