第3話 坎井之蛙
俺とフィルシーが初めて顔を合わせてから、一ヶ月後。初夏の香りを感じるガゼボにて、フィルシーは真面目くさった顔つきで俺を見据えた。なお、その容貌は以前とは大きく異なっている。前髪を作って額を隠し、後ろ髪は後頭部で丸くまとめてある。漫画で見た成人後のフィルシー・レオ・クラッドコードとは、正反対の見た目だと言ってもいいだろう。この少女の中身が転生者だという俺の判断は、間違いではなかったらしい。
「第一王子殿下」
「何?」
「もしも新しく弟君ができたら、殿下はどうなさいますか?」
溜め息を飲み込むために、俺はティーカップを傾けた。子供向けのミルクティーは甘ったるいが、かえって諦念を抱かせる。本当に、呆れるしかない。二回目に話す場で出す話題として、フィルシーのそれは適切だとは言えないだろう。
声を拾えるほどの近くには、誰も置いていない。だから、その問いに疑問を覚える人は俺しかいない。尤も、イオ辺りは唇の動きで何を話しているのか把握していそうだが。
「どうもしないよ。アルクシアン王家の血を受け継ぐ者として、他の弟たちと同じように接するだろうね」
「では、例えばのお話ですよ、例えば、万が一、新しい弟君の母君が王妃殿下以外の方だとしても、第一王子殿下は同じようになさいますか?」
さて、どうしたものか。それは俺の両親への侮辱と取っていいのだろうか。父上はアルクシアン王家の子孫を無闇に増やすような愚王で、母上は簡単に捨てられるほどの安物な王妃だと、そう揶揄しているという解釈でいいのだろうか。もしもこの発言を俺の両親が聞いていたら、フィルシーの首はとっくに飛ばされていることだろう。
少しの間を置いてから、俺は微笑を崩さずに小首をかしげた。
「それは、どういう意味?もしかして、君は私の正妃ではなく、私の父上の妾になりたいということかな?」
「そんなわけないじゃないですか!」
かっと怒りに目を見開いたフィルシーは、大声を上げた。周囲の人々が動きそうになるのを、俺は左手を掲げることで抑える。クラッドコード公爵家から付き添いで来た侍女たちの顔色は、主人の突然の無礼のせいで真っ青だ。俺と会う以前は良くできた貴族息女だと聞いていたのだが、前世の人格を取り戻した代わりに、礼儀を忘れてしまったのだろうか。
とは言え、今のは俺が刺激したせいでもある。わずかに苛ついたこともあり、揚げ足を取るような真似をしてしまった。まだまだ追い打ちを掛けることも可能だが、ここは一旦退いておこう。この転生者が退場するべき時は、今ではない。
「そう。では、質問に答えるけれど、だとしても私はどうもしないよ。アルクシアン王家の血を引く者として、然るべき対応を取る」
「具体的には?」
「……例えば、剣の稽古がしたいと言うなら、私は時間が許す限り付き合おう」
嘘ではない。実際に俺は第二王子とそうしているし、第三王子からも将来そういう誘いがあれば、同じようにするだろう。いつか生まれるランジルに対しても、何も問題が無いならそうするつもりがある。
俺の答えが信用できないのか、フィルシーは胡乱な目つきで頷いた。大方、いざそのときになったら違うくせにとでも思っているのだろう。己の言動がとんでもなく不敬であることには、ちっとも思い至っていないらしい。つくづく、このまま王妃の座には座ってほしくない女性だ。
フィルシーは、ティーカップを両手で持ち上げた。やはり、常識は元の人格と一緒に捨ててしまったようだ。これが王妃として国民の前に立つなど、到底考えられない。
「母親が違うからと言って、生まれた子供を虐待する理由にはなりませんからね。子供は生まれさせられるだけで、好きで生まれてくるわけじゃないんですから。恨むなら、不倫した父親と相手の女です」
一体、この熱意はどこから出てくるのか。クラッドコード公爵夫妻は仲睦まじく、浮気や不倫といった噂は一切無い。もしかして、前世で何かあったのだろうか。だからと言って、何も知らないこちらに持ち出してくるのはやめてほしい。当人としては俺の価値観を矯正しているつもりなのかもしれないが、この話しぶりを許容できるほど俺とフィルシーは親しくないし、そもそも話の持っていき方がひどい。子供の人権を訴えたいなら、その前振りとして俺の両親を侮辱する必要は無かったはずだ。ありもしない罪で他人の父親を貶めるのは、やめてもらおうか。
しかし、そのおかげで分かったこともある。
もしかしたら、この転生者は、ランジルが生まれた本当のきっかけを理解できていないのではなかろうか。
「第一王子殿下、聞いておられますか?」
「うん、聞いているよ。君の話は、とても興味深い」
だから、ぺらぺらと喋ってほしい。ともすればアルクシアン王家への不敬だと弾劾されてしまうような語り口で、己の正義を声高に叫んでほしい。それが積もれば積もるほど、フィルシーとクラッドコード公爵家を追い詰める罪状も大きくなる。俺は晴れてこの娘との婚約を解消して、クラッドコード公爵家の過ぎた力をそぎ落とすこともできるだろう。そのときが、今から楽しみで仕方無い。
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