第11話 井の中に餌入りの釣瓶が下ろされた
秋の半ば、罪人ミルリアは一人の赤子を産んだ。黄金の髪と目を持つ、立派な男の子だ。アルクシアン王家は、この子供を当代第四王子ランジル・レオ・アルクシアンとした。
「ジル、ヴェル兄上だよ」
ベビーベッドで寝転んでいる赤子に、俺はそっと指先を触れさせた。ぬるま湯みたいに温かくて、簡単に傷ついてしまいそうなほど柔らかい。生まれたばかりのディルとリーヴェもそうだったが、赤ん坊というのはやはりかわいらしいものだ。毎日何度も顔を見る度に、俺の心の汚さが浄化されていく気がする。
「ヴェネルディオ殿下、抱っこなさいますか?」
そう話しかけてきたのは、ジルの乳母であるレイティナ・スタリアリア公爵夫人だ。うなじで丸くまとめられた髪は白茶色、丸っこい瞳は若草色。まだまだ若妻であるこの人は、実は俺の教育係であるネイの妹に当たる。
俺が首肯を返せば、レイティナはジルを純白のおくるみに包み、そっと抱き上げた。受け取ると、俺の心には心地好い緊張感と高揚感が生まれる。落とすのが怖いからベッドに寝かせてしまいたいのに、この温もりと重みをずっと感じていたいとも思う。不思議そうな眼差しで俺を見詰めている様子が、何とも愛らしい。
「この子は、いつになったら喋る?」
「早ければ、来月にはお声を聞かせてくださるようになりますよ。意味のある言葉を話されるようになるのは、半年ほど先かと」
「そう」
確かリーヴェはなかなか話してくれず、俺を呼んでくれるまで一年くらい掛かった覚えがある。当時は兄として寂しかったので、ジルにはもう少し早めに呼び始めてもらえると嬉しいところだ。最初に言うのは、どの言葉だろうか。やはり、ママやダダだろうか。尤も、父上も母上も一度としてジルに会いに来ていないが。
不意に、もう一台のベビーベッドから泣き声が上がった。
「あら……」
「構わないよ。私も顔を見に来ただけだから、勉学に戻る」
「申し訳ございません」
レイティナの手によって、ジルはベッドに戻された。また来るよ、と言い置いて、俺は騎士と共に子供部屋を後にする。
ジルが生まれてから、俺の離宮は以前よりも賑やかになった。侍女を増やしたことに加え、乳母であるレイティナが己の第二子を連れてきたからだ。母親を持たないジルは、レイティナの母乳を飲んで育つ。
生みの親であるミルリアは、一応まだ俺の離宮にいる。ただし、体調が回復し次第裁きの塔で刑を執行される予定だ。今も俺が面倒を見ているのは、百日間の拷問に耐えさせるために他ならない。ミルリアは我が子を抱くどころか一目見ることさえ叶わず、罪人として処刑される。
勉強部屋に入ると、ネイが準備万端の様相で俺を迎えた。巨大なデスクの上にはアルクシアン王国の地図が広がり、分厚い本が二冊開いて置いてある。今からは、簡単に言えば歴史の授業だ。アルクシアン王国はその前身も含めると千年近く続いているので、学ばなくてはならない事柄は生半可な量では収まらない。この世界に生まれて七年、毎日が勉強漬けになってしまっている。
「ランジル殿下のご様子は、いかがでしたか?」
「起きていたよ。少しだけ抱っこしたんだけれど、大人しく身を預けてくれた。私が兄だと理解しているのかな?」
「ええ、きっとそうかと。ヴェネルディオ殿下のご愛情を、きちんと感じ取っておられるのでしょう」
俺が椅子に腰を下ろせば、休憩時間は終わりだ。さて、頑張るか、と俺は本に目を走らせ、ネイの教えに耳を傾け始める。
ところが、そこでイオが俺の側で膝を突いた。
「何?」
今しがた、イオはここに入ってきた部下から何かを耳打ちされていた。俺の意識が届くときにやり取りがなされることは、ほとんどない。言い換えれば、それほど緊急性が高い出来事が起きたということだ。一体、何事だろうか。
俺が促すと、イオは相変わらず掴み所が無い表情で口を開く。
「第二王子殿下がいらっしゃいました」
「ディルが?」
「教育係と騎士一名のみをお連れになり、ヴェネルディオ殿下にお会いしたいと仰せだそうでございます」
「そう」
俺が立ち上がっても、ネイはとがめるどころか後に続く。二階の客間に通してあると言うイオも引き連れ、俺たちは廊下に出る。待機していた護衛の騎士も交え、ディルのもとへ。
目的の客間の扉が開くと、ソファーに座っていたディルが駆け寄ってきた。俺の姿を見る度、問答無用で抱き着いてくるところはずっと変わらない。
「兄上っ」
「ディル、よく来たね」
白みがかった金色の短髪と、琥珀色の吊り目。五歳になって、また少し背が伸びただろうか。俺はひとしきり抱き締めてから、しゃがんでディルの双眸を下から覗き込んだ。どことなく泣き出しそうな色を湛えているのは、俺の気のせいだろうか。
「ここに来ることは、母上にお伝えした?」
「……」
俺の問いに対し、ディルはふるふると首を左右に振った。父上にはどうかと重ねて問われれば、またしても否定を返す。要するに、誰にも言わずに一人で来たのか。とは言え教育係と騎士の一人は連れているのだから、家出をしたくてここまで来たわけではないだろう。また、本宮で異変が起きたという話もこちらには入っていない。何か、個人的に急ぎの用があったのだろうか。
とりあえず、無事であることを知らせるようにイオに指示を出しておく。今のこの場所にディルが来るのは、母上にとって良くないことだろう。出発時に母上の耳にも入っているとは思うが、連れ戻すために大勢を寄越されても鬱陶しい。
ふと、俺の体は後ろに倒れそうになった。驚いて視界を正面に戻したところ、ディルが俺に強く抱き着いていた。まるで抱っこをせがむかのように、俺が尻餅を突くのをお構いなしに体重を掛けてくる。即座にディルの教育係が止めに入ろうとするのを、俺は目でやめさせた。
「兄上、会いに来てくださらないのはどうしてですか?」
「え?」
「前はお昼も会いに来てくださっていたのに、今は夕食のときにしか会ってくれない……」
「あー……」
なるほど。ディルは、俺に会いたくなっただけなのか。
ふふ、と俺はつい笑い声を漏らした。それにすねたのか、ディルはますます俺にすがりつく。と言うか、若干泣いている気がする。俺は緩む頬をそのままに、ぽんぽんとディルの背中を叩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます