第24話 知らざるを知らずと為す。是れ知るなり

 アルクシアン王国十二代目第三王子リヴェルディア・レオ・アルクシアンは、母親である王妃にたいそう愛される幼児期を過ごした。朝起きるときも夜眠るときも王妃が隣におり、食事はもちろん余暇の時間も共に過ごす。王妃が接待のために別室にいる時間もあるにはあるが、書類仕事などの間はリヴェルディアも執務室に連れていかれ、離れている時間はごくわずかだった。

 それが二人いる兄の幼児期とは異なる生活であることを、リヴェルディアは四歳になってから知った。第四王子ランジル・レオ・アルクシアンを育てているのが長兄であることに疑問を抱き、尋ねたことでついでに教えられた真実だった。


 つまり、リヴェルディアにとっての他人との距離感とは、四六時中べったりとしていた母親が基準だ。その次に、次兄である第二王子ディルゼス・アルクシアン。ディルゼスは食事時以外にもリヴェルディアのもとを訪れ、身ぶり手ぶりを交えた話を披露していた。

 しかし、ディルゼスは王妃と違い、短時間を過ごすとすぐにいなくなるのが常だった。それは勉学や稽古の予定があるからであり、王子である以上は仕方無いことだ。口数が少ない割に利発な頭をしているリヴェルディアも、その事情をおのずと理解できた。


 ――だからこそ、今、リヴェルディアはどうにも戸惑ってしまっている。


「……」

「……」


 本に熱中しているふりの傍ら、リヴェルディアはちらと視線を上向けた。ソファーに座る己の対角線上にいるのは、同じようにして読書をしている第一王子ヴェネルディオ・レオ・アルクシアンだ。ページをめくる指先と瞬きをするまぶた以外、動きをぴたりと止めている。まるで精巧な陶磁器人形かのように、圧倒的な存在感を持って、けれど静かにそこにいる。ようやく四歳になったばかりのリヴェルディアからすれば、その姿は十分に大人に見えた。


 ここは、ヴェネルディオの離宮の書斎だ。壁面に巨大な本棚が並び、様々な分野の書物が詰まっている。日光は細いはめ殺し窓からしか入らないので、据え置き型の大きなランプが光り輝き、今が昼過ぎだという感じはしない。また、人払いのせいで他に誰もいないというのも、この空間の静寂を際立たせていた。


 おかしい、とリヴェルディアは思う。現在読んでいる、動物図録の内容についてではない。おかしいのは、黙々と本を読んでいるヴェネルディオだ。――なぜ、忙しいわけでもないのに、この兄はリヴェルディアに話しかけないのだろうか。


 不意に、ぱちり、と二人の視線がかち合った。


「!」


 どきりと、リヴェルディアの心臓は音を立てた。不思議に思うあまり、視線に気づいた相手がこちらを見る可能性を想定していなかった。


「どうしたの?」


 白布に染料がにじむように、ヴェネルディオは微笑んだ。ディルゼスの無邪気な笑顔とは異なる、儚い笑みだ。挙動不審になった弟を面白がるわけでもなく、読書を邪魔されて怒っているわけでもない、ただの微笑だった。

 リヴェルディアは、きょときょとと目をしばたたかせた。首をかしげ、無視しているわけではないことを懸命に伝える。


 言葉を覚え始めた頃からすでに、リヴェルディアは流暢に話すことが不得手だった。頭では色々なことを考えているのに、それらの一欠片さえ発語することができない。浮かんでは繋がる思考と、肺からせり上がる空気が、どうにも連動してくれない。

 いつもなら、リヴェルディアが何を言わずとも誰かが動いてくれる。喉の渇きも空腹も、リヴェルディアの声以外の部分で察してくれる。あるいは、反応を待たずに話を進める。リヴェルディアが相槌を打たずとも、王妃はああだこうだと話し続けていたし、ディルゼスも怪訝な反応は見せるが、気に留める様子はない。このところ接する機会が増えた教育係も、リヴェルディアの無言を見越して話している節がある。


 ところが、ヴェネルディオはそうではないのかもしれないと、リヴェルディアは最近になって薄々と感じ始めていた。


「……」

「……」


 ヴェネルディオは、何も言わない。こうして二人でいるとき、この長兄は、問いかけた後にしばらく口を閉じる。それが己の返事を待ってのことだと、リヴェルディアはこの頃気づき始めていた。


「……話さない……から」


 言葉が足りていないことは、承知している。王妃やディルゼスのように、たくさんの単語を使って話さなければ伝わらないことは、きちんと理解している。

 だが、己の思考に最もふさわしい語彙を探したり、話す順番を考えたりしていると、どうしてか文字が逃げてしまうのだった。声を出そうと思っても、どの音を出せばいいのか、リヴェルディアは悩めば悩むほど分からない。そして、諦める。やがて、忘れる。複雑に絡み合った思考は、日の目を見ることも叶わず散り散りになって消える。


 リヴェルディアが話し終えたと察したのか、ヴェネルディオはようやく息を吸った。


「……今日は、本を読みに来たんだと思っていたけれど、リーヴェは私と話したいの?」


 ヴェネルディオが言う通り、今日リヴェルディアがここに来たのは、今手にしている動物図録を読むためだ。どこからか第三王子が動物に興味を示していると知ったらしく、挿絵入りの大きな本があるから読みに来るかと、ヴェネルディオが誘った。


 ふるふると、リヴェルディアは頭を左右に振った。ヴェネルディオのことはどちらかと言えば好きだが、話したいわけではない。王妃のように次から次へと言葉を繋げられるわけでも、ディルゼスのように毎日冒険しているわけでもない己に、主体的な会話は難易度が高すぎる。


「もしかして、その本を一緒に読みたかった?」

「……」


 新たに問われ、リヴェルディアは困った。己は、兄と一緒に読みたいと思っていたわけではない。しかし、その光景を想像してみると、それは至極自然なことに感じられる。

 私室で本を読むときは、必ず王妃か教育係がぴったりと隣にいる。ページをめくるのも文字を読み上げるのも、その二人の役割だ。思い返してみれば、リヴェルディアが本当に一人で読書をした経験は、一度も無い。


 こくんと、リヴェルディアは頷いた。すると、ヴェネルディオは隣に座った。腕を回し、小さな膝の上のクッションに乗っていた厚い本を斜めに持ち上げる。そのおかげで格段に読みやすくなったことに、リヴェルディアは密かに感動した。


 ――ところが、ヴェネルディオはまたしても黙った。


 目の前にあるのは、猫の絵と解説文だ。茶色の毛並みをした親子の猫が描かれ、鼠や昆虫を食べる、細い棒の上を渡ることができる、などと書かれている。てっきり、ヴェネルディオはそこを音読するとリヴェルディアは思っていたのに、ちっとも声が聞こえてこない。ただ、接した胸元が上下しているのを感じられるだけだ。


 恐る恐る、リヴェルディアはヴェネルディオを振り向いた。


「うん?」

「……」

「……私はもう読んだから、めくってもいいよ」


 言われ、リヴェルディアは驚いた。どうやら、兄はとっくに読み終えていたらしい。

 どうしよう、とリヴェルディアは心に汗をかいた。己は、まだ一文字も読めていない。

 ページをめくるのは、こちらの役目であるようだ。リヴェルディアは、ちんまりとした指先でページの隅に触れた。しかし、このページを読み終えられていない。猫については他の本で学んだことがあるものの、この本にはもっと詳しいことも書いてあるみたいだから、できれば読み飛ばしたくない。

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