第五章 悪徳の栄え 1

 世界は香りに満ちている

 芳しき四季折々の草花よ

 香しき遍(あまね)く自然の生き物よ

 そして 香りはこの世ならざるモノたちにも


   *


「手詰まり……かな?」

「ちょっと、郁! そんな簡単にあきらめないでよ!」

 夕食の準備でエビの皮むきをしながら、仄香は消極的な郁に思わず叫んでしまった。勢い余って、剥き終えたエビの皮を握り潰してしまう。

「だって、手掛かりが途切れちゃったんだしねぇ」

 結局、仄香と郁は、馥山佳苗と名乗った黒い女と再び会う事は出来なかった。

 普通の生徒であれば、学校には毎日来ているので会う事は難しくない。土日を挟んだとしても三日後には会えるだろう。だが、馥山佳苗は病弱ということで、転校してきてから、ほんの数日しか学校には来ていないらしい。最低限、試験は受けていたとしても、答案返却日に来なかったところを見ると、終業式に来ることも望み薄である。そして、それ以降は夏休みなので、学校で会える可能性は皆無に近い。一応、一週間に一度は登校日が設定されているが、必ず登校しなければならないわけでもないので、さらに望みは薄くなる。

「ボクの方も、聞き込みはあんまり成果が無かったし」

 仄香は三年C組のクラスメイトから、そして郁は三年C組の担任から、馥山佳苗に関して同じような話を聞いてきた。黒い女に対する印象もほとんど同じで、あまり記憶に残らない生徒らしい。

「それってやっぱり、薫子さんの魔法と同じもの?」

「まったく同じかどうかは分からないけど、多分そうね。少なくとも、効果は同じみたい」

「認識機能を阻害する香りか……。なんて名前だったっけ?」

「おばあさまの? 『孤独』よ」

「……人の記憶に残らないってことなんだろうけど、香水の名前にしては中々ドギツイね」

「普通の香水には、もっとお洒落な名前を付けてたわ。『宵闇月』とか、『銀盆の嫉妬』とか、『朔の逢瀬』とか」

「ああ、『月』にちなんだ名前でシリーズを出してたねぇ」

「はいはい、口じゃなく、手を動かす」

 仄香の母、継美は、郁が皮を剥いた野菜に包丁を入れている。ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、ナスに椎茸……。天ぷら用の食材が、継美の手によって食べやすいサイズにカットされていく。

「馥山センパイの正体も結局分からないままだし、他に手がかりも無いし。どーしたもんか……。やっぱり仄香の鼻に頼るしかないかな……」

「アタシの?」

「警察犬ごっこ」

「……! それしかないの?」

「今のところ、一番確実だよ。夏休みになれば学校には人が少なくなるから、犯人も絞り込みやすいだろう」

 犯人は試験中に『十戒』を使ったのだから、紫村井学園の生徒である可能性は非常に高い。盗んだものを元の持ち主の近くで使うなど迂闊という他は無いが、仄香たちにとってはありがたい話だ。

 普通はリスクを少しでも減らす為、同じ使うにしても別の場所で使うはずだ。仄香の家の庭でも『十戒』は効果があったのだから、場所に制限があるわけではないであろう。だが、犯人はわざわざ学校で『十戒』を使用した。仄香の工房から『十戒』を盗んだ以上、犯人も仄香の嗅覚を知っているはずである。にも拘わらず学校で使ったということは、犯人はリスクを極限まで減らすような巧妙な人物ではなく、迂闊な性格であることが伺える。仄香の鼻を甘くみたのかもしれないが、単純にものぐさと言ってもいいかもしれない。それを考えると、おそらく、悪魔召喚の儀式も学校で行われるに違いない。

 もっとも、場所だけを見れば、学校というのは『十戒』を使用するのに適した場所であると言える。

 『羨望』、『偽証』、『窃盗』、『姦淫』、『殺害』。これら『十戒』の半分を構成する『戒めの六』から『戒めの十』は、いずれも相手が必要な行為である。郁が馥山佳苗に話したように、概念的な行為でも効果を発揮するのかもしれないが、普通に考えれば人を相手に悪徳を積むしかないであろう。そしていずれの悪徳も、学校で行うのが容易なのである。

 いずれにしても、学園で匂いを張るというのが、今のところ犯人への最短距離のようだ。

 そして、仄香もそれは分かっている。分かっているのだが、納得いかない。

「むー」

「ごめんねえ、イッくん。仄香がまた何か無理なことを言ってるんでしょ?」

「いえいえ、いつものことですよ」

「待って待って、そこは否定して!」

 継美は面白がって娘をからかっているのだが、実際、郁が仄香に振り回されているのは、昔からのことである。時々、母親から見ても無理難題なことを仄香が押し付けていることもあったのだが、娘の幼馴染みの少年は、飄々といった感じで娘のワガママに応えていた。

「はい、終わり!」

「ありがと、仄香。イッくんも。すぐに揚げちゃうから、食器を用意したらリビングで待っててね」

「はぁい」

「わかりました」

 郁の家は、母親一人、息子一人の二人暮らしである。父親はフィールドワークと称して海外で怪しげな調査を行っているようだが、ほとんど音信不通といっていい。今では母親と二人暮らしなのだが、仕事で遅くなる時などは仄香の家で夕食を共にすることがある。

 慣れた風で、郁は食器棚から人数分の皿や茶碗を出していった。それを受け取った仄香が、ダイニングテーブルに並べていく。

 郁から食器を受け取って並べていた仄香は、テレビから聞こえてきた地名にひっかかりを感じて、首をぐるりとリビングに向けた。点けっぱなしだったテレビでは、ニュース番組をやっている。

「……これ、ウチの高校じゃない?」

「え、ホント?」

 最初から聞いていたわけではないので何のニュースかは分からないが、テレビに映っているのは見覚えのある風景だった。

「ホントだ、ウチの学校だ。何があったんだろ」

 テレビに映し出されているのは、仄香と郁が通う紫村井学園であった。リポーターが正門前でマイクを握って喋っており、その向こうには校庭や校舎が映っている。いかにも何かがありましたよといったセンセーショナルなカメラワークで、毎日見ている学校の施設が次々と映し出されていく。

『……昨夜未明、紫村井学園高等学校の飼育小屋に何者かが鍵を壊して侵入し、生物部が飼育していたウサギ十数匹を殺害するという事件が起きました』

「うわっ……、ヒドイことする奴がいるんだな。変質者かな?」

『……生物部の生徒が餌をやりにウサギ小屋を訪れたところ、鍵が壊され、内部が荒らされていたのを発見したとのことです。ウサギの死体は損壊が激しく、発見者の女子生徒はかなりのショックを受けたようで……』

「……ねえ、郁」

「何?」

「『汝、殺すなかれ』って、相手が人間だけだと思う?」

「…………あ! まさか、これって……。ちょっと、仄香?!」

 キツイ表情でテレビの画面を見つめていた仄香は、拳を握りしめるとリビングを飛び出した。

「ちょっと、仄香? どこへ行くの? もうすぐ晩御飯の用意が出来るわよ!」

「ゴメン、継美さん。晩御飯は戻ってからいただきます!」

「イッくんまで?」

 継美の静止も聞かず、郁も仄香の後を追ってリビングを飛び出した。靴を履くのももどかしく、爪先にスニーカーをつっかけながら玄関を出る。

「郁、遅い!」

「仄香が速いんだよ!」

 玄関を出た時、仄香はすでに、門の先で自分の自転車に跨っていた。

 郁も慌てて、玄関わきに停めてあった自分の自転車を門の外に出す。薫子の躾が行き届いているのか、こんな時でも郁は門の戸締りを忘れない。

「行くわよ!」

「ああっ、もうっ!」

 二人は普段、バスで通学しているが、この時間では朝と違って本数も少ない。少し遠いが、自転車で行けない距離ではないので、急ぐのならバスを待つよりも早く学校に着ける。

 仄香の自転車は二十四インチのシティサイクルで、いわゆる普通のママチャリである。対して、郁の自転車は十五段変速のスポーツタイプである。ロードレーサー程ではないが、都市部における走行に特化したモデルで、平坦な道や下りの坂道ならば自動車ほどの速度が出る。

 だが、ギヤチェンジを駆使しつつ全力で郁が走っていても、高砂家からミサイルのように飛び出した仄香について行くのがやっとだった。目的地は分かっているから、少し遅れたとしても問題はない。しかし、その目的地で仄香が何をするつもりなのか見当もつかない郁は、信じられないスピードで先行する幼馴染みを見失うわけにはいかなかった。

 陽は沈んでいるものの、昼の暑さがねっとりと残る街中を、二台の自転車が疾走していく。

 国道を全速力で駆け抜け、幾度かの角を曲がり、二人はニュースで見た自分たちの通う紫村井学園に到着した。校庭に面した正門ではなく、敷地の反対側にある裏門に向かって自転車を進める。

 ウサギ小屋は、校舎から見て校庭とは反対側にある。プールや池、花壇などが集まった辺りにあり、裏門から入る方が近い。

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