第三章 盗人の残り香 3

 冗談にしては度が過ぎているが、とても本当のことを言っているとは思えない。

 だが、携帯電話から聞こえてくる曽田の声は冷え冷えとしていて、他人を騙そうとするときの熱っぽさが欠片も無かった。

 それでも、仄香はこう言うしかなかった。

「じょ……、冗談はやめてください」

 仄香は自分の声が強張っているのを感じた。かろうじて舌がもつれることなくしゃべることができたが、喉がカラカラに乾いている。

 曽田が本当のことを言っているとわかっているのだ。

「目を抉った部下は、『あげるわ』と言って、笑いながら目玉を相手に差し出したそうです」

 鳥肌が止まらなかった。夏の日差しの下にいるにもかかわらず、得体のしれない冷気が背筋を撫で回し、悪寒が全身を駆け巡っている。

「そん……、何で……」

「混乱するのは分かります。僕も、自分で言っていることが信じられないくらいです。でも、僕の分析室が血まみれになったのは事実なんです。……大丈夫ですか、仄香さん? 聞いてます?」

 時刻はすでに夕方だが、日差しは強いままである。街路樹の上からセミの鳴き声が降ってきており、ランドセルを背負った小学生のグループが仄香の脇を通り過ぎて行った。いつもと変わらない、平和な住宅地の風景。しかし、ひどく現実感が無い。

「ええ、聞いてます……。でも、本当に信じられません……」

「もちろん、これが『十戒』とはなんの関係も無いという可能性はあります。ですが、関係していると考える方がはるかに自然です。『十戒』の成分を調査している時に起こったのですからね。仄香さん、先生の工房なら密封容器がいくつかあったように記憶しています。今すぐに、あの香水を封印してください」

「……できません」

「仄香さん、先生の創られた香水は全て素晴らしいものでした。今でも、先生の香水は世界中の女性が愛用しています。ですが、あれは違う。先生の遺されたものですが、先生の作品ではない。気持ちは分かりますが、どうか、あれを……」

「違うんです!」

「……え?」

「封印しようにも、できないんです! だって、『十戒』は盗まれてしまったから……」

「盗まれた……。すみません、今日、これから時間は取れますか?」

「……はい」

「それでは、先日と同じ、六時に駅前で待ち合わせましょう。できれば、郁くんも一緒に」


 曽田からの電話があった後、仄香は郁を伴って待ち合わせ場所に向かった。曽田の分析室で何があったのか、郁にはすでに話してある。

 予定より十五分も早く着いたのだが、驚いたことに、曽田はすでに待ち合わせ場所に来ていた。そして、挨拶もそこそこに、二人を連れて近くの喫茶店に入る。

「それで、『十戒』が盗まれたというのは、本当なんですか?」

「はい。この前、曽田さんと会った日の夜のことです。工房の鍵が壊されて、『十戒』だけが盗まれてました」

「ということは、明らかに犯人の目的は『十戒』のみということですね。やっぱり本物なのか……」

「成分の分析はどうだったんですか?」

 アイスコーヒーのグラスを持ってストローで氷を回しながら、郁は曽田に尋ねた。

「完全には終わっていませんが、一部は判明しました」

 鞄から封筒を取り出した曽田は、二人の前に差し出した。宛名の部分に大きく『部外秘』のハンコが押してある。

「見てもいいんですか?」

「構いません。本当なら完全な報告書を作成したかったのですが、残念ながら暫定版です」

 一応、曽田に確認してから、郁は封筒の中からA4サイズの書類を引き出した。

「詳細は後ほど、お二人で読んでいただくとして、報告書には専門用語も多いのでかいつまんで説明します」

 と、話し始める前に、曽田は喫茶店の中をグルリと見まわした。店内は閑散としており、他の客はカウンターで小説を読んでいる女性だけである。にもかかわらず、曽田はさらに声をひそめるように二人に顔を近付けた。

「……麻薬です。酩酊成分のあるアッパー系の薬物が検出されました」

 血の気が引いた郁は、思わず隣に座る仄香の顔を見た。『十戒』を自分で分析するために、仄香はあの香水をたっぷりと嗅いでいたのだ。

 曽田の顔を凝視したままの仄香は、郁よりもはるかに蒼白な顔をしている。

「心配はいりません。習慣性の低い薬物で濃度もそれほどではなかったので、中毒にはならないでしょう。アロマポットから上がる香りを一日中吸い込みでもしない限りは、大丈夫です」

 仄香も郁も、ホッと胸を撫で下ろした。

「ただ、やはり未知の香料が厄介ですね。分析器でも完全に解明はできていません。そもそも、香料であること以前に、未発見の分子化合物のようなんです」

「どういうことです?」

 曽田の言う意味がすぐには分からず、仄香は素直に聞き返した。

「香料どころか、化学的にも新発見ということだよ。今まで、誰も見たことの無い物質ってこと。合成香料ということですか?」

「さて、そこが厄介なところなんですよ。合成香料というのは、ガスクロマトグラフィーなどの工業機械や化学技術が発達したことによって普及しました。十九世紀以降のことですね。しかし、『十戒』を分析する際に年代測定も同時に行ったんですが、どうやら十八世紀に創られたもののようなんです」

「ウソ! そんなはず無いわ! だって、あんなに瑞々しい香りだったんですよ?!」

 仄香は思わず立ち上がって否定した。

「仄香さんがそう思うのも無理はありません。僕も正直、測定器が壊れていたのかと思ったくらいです。でも、何度調べても結果は同じでした」

「なんで? 古い香水なんでしょ? ケースも骨董品みたいだったし……。十八世紀って言われたら、納得できるんだけど」

「あんた、何年工房に出入りしてるのよ」

 郁の疑問に、仄香はストンと腰を落として答えた。

「香水の寿命は基本的に一年。保存状態が良ければ五年くらいは持つけど、何百年も持つなんてありえないわ」

「でも、薫子さんの工房にも、古い香水があるじゃない」

「それはそうだけど、あれはしっかりと密封できる容器に入れて、日の当たらない温度の低いところにおいてあるから大丈夫なのよ。でも『十戒』がそんな厳重な状態で保存されていたようには見えないわ」

「そうなんですか?」

 いくら雑学が豊富とはいえ、香水に関しては仄香や曽田には敵わない。郁は話題の矛先を曽田に向けた。

「その通りですよ。ただ、香水の劣化というのは大きく二種類あります。空気に触れたり細菌が混入したりして変質してしまうのが一つ。それからオイルが揮発してしまうのがもう一つです。変質してしまった場合はどうしようもありませんが、オイルの揮発については香水瓶の出来によって驚くほど長く持つ場合があります。品質維持のために精度の高い香水瓶を用意したのはいいが、香水よりも高くついてしまった、なんて冗談もあるくらいです。海外のオークションでは、百年以上前の香水が出品されたりしたこともあるんですよ」

「へえ。それじゃ、本当に十八世紀の香水という可能性はあるのか。でもそうすると、年代的に合成香料というのはありえなくなる、ということですね」

「曽田さんはアニマル・ノートだと感じたんですよね。それって天然香料なんじゃないんですか?」

 先日、曽田が最初に『十戒』の香りを嗅いだとき、未知の成分は霊猫香シベット竜涎香アンバーグリスのような、動物性の天然香料ではないかと言った。

「ええ、その通りです。つまり、“未知の天然香料を、謎の手段で合成したもの”ということになります」

「つまり、何が分からないのかが分かってきた、ということですか……」

「残念ながら、その通りです。そして、申し訳ないのですが、この件については凍結させてください」

「凍結……、ですか。仕方ありませんね……」

 『十戒』は危険なシロモノである。すでに犠牲者が出ているのだ。これ以上、曽田に迷惑をかけるわけにはいかなかった。

「犯人はおそらく、『十戒』の持つ正しい効果を知っているんでしょう。『魔香』というものが、本当に人の心を操るものだとしたら、非常に危険なモノです。すでに手元にないのなら、そんなもの、初めから無かったことにして忘れるという選択肢もあります。むしろ、その方が良い」

 そもそも、仄香は曽田に一方的に糾弾されても仕方のない立場にある。だが、曽田は仄香を責めるようなことはせず、むしろ仄香の身を案じてもいる。

「これから、どうします?」

「もちろん、『十戒』と犯人を捜します。そんな危険なモノだと分かったのなら、なおさら放っておけません。祖母があれを隠したのは、きっと危険な香水だと知っていたんですね。『十戒』の正体を解明するにしろ、廃棄するにしろ、それは工房の主である私の責任です」

 背筋を伸ばし、凛とした声で仄香は宣言した。

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