第三章 盗人の残り香 2
「……これ、今流行ってるワイヤー・ソーを使った泥棒だね」
ピリピリする鼻をすすりながら、郁は壊されたドアの金具部分を調べていた。幸い、鼻血は出なかったものの、鼻腔の奥で何か尖ったモノがゴロゴロしているような感覚が残っている。ドアノブに手を掛けながら、郁は恨みがましい視線を幼馴染みに向けた。
工房の鍵が壊され、『十戒』を盗まれてしまった仄香は、裸電球の灯りの下で幼馴染みがドアを調べるのを黙って見ていたが、郁の視線は無視して答えた。
「わいやーそー? 流行ってるの?」
「うん。ちょっと電気工作ができる人なら簡単にマネできるから、テレビじゃあんまり報道されてないんだよ。でも、ネットじゃ去年あたりから結構話題になってたよ」
ワイヤー・ソーとは、簡単に言えば糸状のノコギリのことである。鋼線に工業用ダイヤモンドの粒をまぶしたもので、チェーン・ソーのように高速で回転、または振動させることによって対象を切断する。家庭用の充電式掃除機や電動ドライバーのバッテリーを使ったものが多く、本体部分は片手で保持できるサイズだ。
使用方法は、ワイヤーの一端をドアの隙間に差し込み、ロックしている鍵の金具部分を潜らせる。そして、ワイヤーを本体に繋いで、鍵の金具をワイヤー・ソーの輪で閉じる。後はスイッチを入れ、本体を手前に引くだけで、金具を簡単に切断できるというわけだ。
特徴としては、とにかく音が静かということである。実際には静かなのではなく高周波のために聞こえにくいのだが、昼間に使用すると、車の音や生活音に紛れてほとんど聞き取れない。
「盗まれたのは、『十戒』だけ?」
「うん。奥の冷蔵庫や耐火金庫は無視みたい」
冷蔵庫には温度変化に弱い香料が収められており、耐火金庫には入手するのが難しい貴重な香料がしまわれている。だが、それらに手を掛けられた様子はないようだ。
「継美さんは気付かなかったのかな?」
薫子と同様に、郁は仄香の母親も名前で呼んでいる。
「今日は午後から友達とお茶会で、買い物してから帰ってきたのが夕方よ」
「それじゃ、時間は十分すぎるくらいあるな」
ワイヤー・ソーによる鍵の切断は、準備も含めて一分くらいで済む。『十戒』はオルガンに置いてあったから、探すのに時間もかからなかったろう。三分もあれば、目撃者も無しで盗むことが可能だ。また、仮に見られたとしても、普通に鍵を開けた動作にしか見えなかったに違いない。
「警察には?」
「……行かない」
「なんで? これって立派な犯罪だよ?」
「これ以上、知らない人間を工房に入れたくないの」
すねたような表情で仄香は答えた。
「鍵屋さんとかどーすんの? こんなことがあったんなら、ホームセキュリティとかも考えた方が良いし」
「それは仕方ないわ。でも、証拠を探すためとか言って、ここを荒らされるのは絶対にイヤ! ……貴重な香料をダメにされるかもしれないし」
──なるほど、香料が心配なのもあるけど、単純に自分の聖域に他人を入れたくないんだな。だから、さっきはあんなに取り乱してたのか……。
「それに、犯人は分かってるわ。あの黒い女……」
「昨日の夜中に来たっていう女か。ホントにそうかい?」
「それ以外無いでしょ! 昨日の今日で、ピンポイントに『十戒』だけを盗んでいったのよ?!」
「確かに怪しさ満点だけどさ……」
仄香の言い分も確かに一理あるが、決めつけるのもどうかと郁は思った。
「絶対に見付けてみせるわ……」
「どうやって?」
「あの女は、おばあさまと会ったことがあるって言ってたわ。だから、曽田さんとか、おばあさまの知り合いをしらみつぶしよ」
「『十戒』を知りませんかって?」
「違うわよ。アタシたちと同年代なのは確実だから、そんな若い調香師を知りませんかっていくの」
調香師となるにはどれくらいの時間がかかるのであろうか。
一般に、調香師は数千ともいわれる香料を嗅ぎ分けることができるのだが、そのためには香料を記憶するための経験が必要である。嗅いだことの無い香りを使うことなどできないのだ。仄香や薫子のように鋭い嗅覚を持っていれば、香りを覚えるまでの時間が普通の人よりもはるかに短くなるが、そういう才能は稀である。覚えるまで繰り返すというのは、どんな職業でも変わらない。
海外の有名なスクールに通って調香の技術を学んでも、会社などの現場で本格的な調香に携われるようになるのは何年もかかる。調香の世界は職人の世界でもあるので、やはり十分な下積みと経験が必要となるのだ。
「若い調香師なんて滅多にいないんだから、すぐに見つかるわよ」
もっとも、調香師には資格というものはない。
仄香のように、薫子に師事しただけの“自称”で調香師を名乗っても構わないのだから、あの黒い女もその可能性がある。
「まあ、一番可能性が高いのは確かだよね。とりあえずはその線で行こうか」
「あと、郁にもう一つお願いがあるんだけど……」
犯人探しに郁も協力するのは、仄香の中では既定路線のようである。まあ、この流れで断るというのは郁の中にも無い。だが、さらに追加されたお願いに、郁は溜息をついてしまった。
「ここの鍵、何とかしてくれない?」
その後、郁はDIY製品を扱っている二十四時間営業の大型店に自転車を飛ばし、交換用のドアノブセットを購入し、説明書を見ながら鍵を付け替え終えたのだが、すべてが終わったのは、日付が変わってからであった。
*
『十戒』が盗まれてから、仄香と郁は薫子の住所録を頼りに、片端から黒い女を探していった。
何人かは仄香とも面識があったので、そういった人から順に、直接会って話を聞いたり、知人にあたってみるとの約束を取り付けたりした。また、面識がなかった場合でも、『魔法使い』の孫ということで、スムーズに話を聞いてもらえることができた。
だが、調べ始めてから三日になるが、今のところ、成果は上がっていない。
FFDCの曽田には、盗まれた翌日に黒い女のことを尋ねたものの、彼も知らないとのことだった。ただ、『十戒』を盗まれたことはまだ伝えていない。先日会ったばかりだが、年下にも丁寧な口調で話す曽田の人柄を見るに、『十戒』を盗まれたなどと言えば、分析に加えて犯人探しにも協力を申し出そうだ。『十戒』の調査分析は完全に私事である。祖母の威光があるとはいえ、頼みごとを二つも同時にするのはさすがに気が引ける。
手がかりの掴めないまま、さらに二日が過ぎた頃、曽田から仄香に電話があった。
夏の日差しがキツくなってきた放課後の四時過ぎ、帰宅途中のバスから降りたところである。郁は今日、掃除当番なので、後から工房に来る予定だ。
『十戒』の分析で何か分かったことがあるのだろうか。住宅地の歩道を歩きながら、仄香は通話ボタンを押した。
「仄香さん、よく聞いてください」
「はい?」
古いタイプの携帯電話から聞こえてきた曽田の声は、予想外の緊張を孕んでいた。
「仄香さんが持ってきた『十戒』と呼ばれる香水ですが、あれは非常に危険なものです」
「危険……ですか? やっぱり、何かおかしな成分が混じっていたんですか? 麻薬とか……」
「そんな生易しいものではありません。いいですか、あの香水を二度と嗅いではいけません。本当なら廃棄した方が良いのでしょうが、うかつな方法で香りが広がったら、どんなことになるか想像もできません」
「ちょ、ちょっと待ってください。『十戒』の話ですよね? アタシが持って行った香水の。何か分かったんですか?」
「先生があれを隠した理由が分かったかもしれません。いえ、詳しいことは分からないままなのですが、とにかくアレは危険です。出来れば完全に密封した方が良い」
「意味が分かりません。ちゃんと説明してください」
郁と一緒に夕食を共にした曽田という男は、真面目で実直、物腰も柔らかい好青年といった印象だった。しかし、電話口の声はその印象を裏切っている。一生懸命に落ち着こうとして、動揺が隠せていないような感じだ。
「もう一度言いますが、詳しいことは何も分かっていません。ですが、あの香水の持つ効果の一部が分かりました。いえ、効果というよりも、アレを使うと何が起こるのか、ということですが……」
「……」
張りつめた曽田の声が携帯電話から聞こえているが、どうにも現実感がない。何か、エイプリルフールにバレバレのウソを聞かされているような気分だ。だが、話の内容はともかく、曽田の声は真面目で緊張感に溢れている。
「すみません、僕は大分あわてていますね。ですが、とにかく、あの香水は二度と使ってはいけません。何があったのか、事実だけを伝えましょう」
「ええ、お願いします……」
よく分からないまま、仄香は返事をした。
「先日、仄香さんから預かった香水を私の部下に渡して分析をさせました。部下は二人とも女性で、一人はメガネをかけており、もう一人は裸眼で2・0の視力があります」
「……えと、メガネと、視力?」
焦っているような曽田の声で、仄香は黙って聞いていようと思ったのだが、話がいきなり飛んでしまって思わず聞き返してしまった。
「そうです。二人は同じ部屋で分析をしていたのですが、ふと話題が視力のことになりました。そして、メガネの部下が、もう一人の視力が羨ましいと言ったところ、目の良い部下が、いきなり自分の目を抉り出したのです」
「………………………………え?」
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