第三章 盗人の残り香 1
秋が好き
秋は花が静かに散るから好き
薫る風の香
大地に舞い落ちる濃密な香り
*
曽田に『十戒』の成分分析を頼んだが、だからと言ってただ待っているのは、仄香の性に合わない。郁とはまた違った方向で仄香の好奇心は人並み外れているのだ。こと香水に関しては、仄香は止まることを知らない。
自宅に戻ってきた仄香は、母屋の自室に戻ることもせずに直接工房へ向かった。
時刻は夜の九時過ぎ。
繁華街であればまだ人通りが多いのであろうが、高台の住宅地にある高砂家の周辺は、すでに人気が無くなっている。しかし、夏の宵ということで窓を開けている家も多いため、テレビの音や家族の団らんの声が聞こえてくるので、真夜中のような静謐には至っていない。
ポケットから鍵束を取り出し、工房の鍵をドアに差し込もうとしたところで、仄香はドアがわずかに開いていることに気が付いた。
一瞬、鍵をかけ忘れたのかと思ったが、さらにおかしいことに気付く。
ドアノブをひねってもいないのに、ドアが抵抗なく開いたのだ。
「え……? 何……、これ……?」
ドアを引き、鍵の部分を見ながらノブをひねる。しかし、そこには、普段ドアを閉めるためのラッチボルトも、鍵を施錠するためのデッドボルトも無かった。
と、爪先に何か硬いものが当たる感触がした。何かが落ちているようだ。淡い門灯に照らされた足元を見ると、親指大の金属の塊が二つ落ちていた。それは明らかに、ドアを閉める鍵の部分が切断されたものだった。
その二つを見て、仄香はようやく工房の鍵が壊されていることに気付いた。
「ウソ、ウソ、ウソ……!」
喉元を氷塊が滑り落ちていくような感覚が仄香を襲った。冷たいものが肺腑を滑り落ち、全身に鳥肌が立つ。一瞬遅れて、今度は背筋を冷たいものが這い回った。冷たく、気持ち悪い何かが身体の中を動き回っている。
工房には貴重な香料がたくさんあるのだ。単に市場価格が高いものだけではなく、今では入手困難な香料もある。そういった香料の価値は、それこそお金で贖えるようなものではない。
崩れ落ちそうな脚に力をこめ、仄香は工房に身体を運んだ。震える手で壁を探り、明かりのスイッチを入れる。
「……なんとも、ない?」
裸電球に照らされた工房の中は、いつもと同じように見えた。
良い意味で想像と違っていた風景に、仄香は大きく息を吐き出した。
鍵が壊されていると分かった瞬間、頭の中を荒らされた工房内の風景が占めたのだが、それは完全な幻であった。香料の収められた棚、様々な言葉で書かれた香料の本、中央の安楽椅子、オルガンと呼ばれる作業台……。全てがいつもと変わっていなかった。
ただ、一点を除いて。
「……まさか!」
工房の奥、オルガンの前に立った仄香は、鍵を壊した人間の目的を理解した。
『十戒』が、盗まれていたのだ。
「もしもし、仄香? 何か忘れ物かい?」
曽田との会食のあと、自宅近くで仄香と別れた郁は、自室で部屋着に着替え終わった時に仄香からの電話を受けた。
さっき別れたばかりなのに電話をしてくるとは、何か伝え忘れたりしたことがあったのだろうか?
『こ、ここっ……、こう、ぼ……が……』
「コケコッコ・ボーイ?」
『来て……っ! すぐ……、でないと……、アタシ……アタシ……、ふ……ふええ……』
「どどどーした、仄香?!」
電話口でいきなり泣き声が聞こえてきた郁は、心底驚いた。
あの仄香が泣いている。
教室で気に食わない男子を血まみれにして平気な仄香が、泣いているのだ。
ここ三年ほどは、幼馴染みの泣き声など郁は聞いたことがなかった。
『鍵が……、カギが……』
「わかった、すぐ行く! どこにいるんだ?! 工房か? 工房にいるんだな?」
『こ……う……、おばあ……まの……』
スマートフォンを通話状態にしたまま、郁は自室を飛び出し、玄関に突撃した。
驚いた母親の美佐子が問い掛ける。
「ちょっと、さっき帰って来たばかりでしょうに! こんな夜にどこ行くの?」
「仄香のとこ!」
母親の返事も待たず、郁は玄関を飛び出した。そのせいで、美佐子の「ま、情熱的ね」というセリフは聞こえなかった。
郁と美佐子が住んでいるのは、仄香の家から歩いて十分くらいの距離にあるマンションの六階である。エレベーターを待ちきれなかった郁は、外階段を一気に駆け下りた。一階に下りてもその勢いは止まらず、駐輪場から引っ張り出した自転車を猛然と漕ぎ始める。それからわずか二分で、郁は坂を登りきったところにある高砂家に到着した。自転車のスタンドを乱暴に立て、勝手知ったる風に門扉を開けると、池のある広い庭に向かう。薫子の調香工房はその先にある。
工房に目を向けると、池の向こう側にある建物のドアから明かりが漏れていた。その光景は、郁に激しい違和感を抱かせた。なぜならそれは、今までに見た事の無い光景であったからだ。
薫子の工房の入り口のドアが、開けっ放しになっていたのだ。
品質管理。
セキュリティ。
主の気質。
そこに関わる全てが、だらしなさとは無縁であったため、工房のドアが開け放たれたままであるなど、郁はこれまで一度も見たことが無かった。幼い頃、仄香と一緒に工房へ出入りするようになった郁は、薫子から再三ドアをきちんと閉めるように注意されてきたのだ。躾の意味もあったのだろうが、温度管理は香料の品質に直結するだけに、薫子がひどく怒った理由も今では分かる。実際、あれほど恐ろしい笑顔は、あの時以来見たことがない。
それだけに、これは本当に異常事態である。何か、尋常でない出来事が起こったようだ。
「仄香!」
扉を開けて工房に入った郁は、一瞬仄香を見付けられなかった。天井から下がる裸電球が工房内を照らしているが、幼馴染みの姿が見えない。
「……郁!」
と、安楽椅子の向こう側から仄香が飛び上がってきた。どうやら、床に座り込んでいたようだ。
「いったいどうしたの?」
身体に染みついたクセで、いつものように郁は扉をしっかりと引いた。そしてきちんと扉が閉まっていることを確認するために、もう一度押し返す。普段であれば、三角形のラッチボルトが引っかかり、扉は開かないはずである。だが、ドアノブを捻っていないにもかかわらず、扉は何の抵抗も無く再び開いた。予想外のことに、郁はドアノブを掴んだままたたらを踏んでしまう。
「うわわっ! 何だ、これ?」
「そこっ! 鍵をあけようとしたらもう開いてて変だと思ったら中はなんともなくって誰もいなくてでも誰かが入ったみたいで『十戒』がなくってビックリして郁に電話したら郁がすぐに来てまたビックリして盗まれた! 盗まれちゃったの!」
必死の形相で幼馴染みに迫った仄香は、郁の両肩を掴んでガクガクと揺さぶった。仄香の方が拳一つ分背が高いので、郁は迫力のある幼馴染みに覆いかぶされたような体勢になる。落ち着いたゆっくりとした動作であったなら、なかなかロマンティックな状態であるのだが、大きな目をさらに大きく開いて郁に迫る仄香は、色気とは無縁の鬼気迫る形相であった。
「どうしよう! ね、郁、どうしよう!」
慌てふためく仄香など、幼い時以来見たことがなかった郁は、とにかく落ち着かせることにした。
「落ち着きなよ、ほーのかっ」
「うきゃっ!」
肩を揺さぶられた体勢のまま、郁は仄香の脇腹をガシッと掴んだ。そのまま十本の指を全て立て、脇腹をいやらしい動きでマッサージする。
「きゃはっ! い、いやっ! 脇は、脇はやめて!」
郁の両肩を掴んで迫っていた仄香だったが、今度は郁から離れるように腕を突っ張らせた。
しかし、小柄な幼馴染みは、完全な無表情で少女の両脇をワキワキとしたまま離さない。
「ちょ……、ダ、ダメ……、やめ……止めて! ……止めてって言ってるでしょ!」
「おわっ!」
耐え切れなくなった仄香は、とうとう郁を思い切り突き飛ばしてしまった。同時に、自分も体勢を崩して後ろに倒れ込んでしまう。
「いったー……」
「ごめんね、仄香。落ち着いた?」
「落ち着くわけないでしょ! このバカ!」
「……わわっ」
「……?」
手を差し出して立ち上がるのを助けようとした郁であったが、いきなり顔を横に向けて仄香から目を逸らした。
「……あっ」
倒れ込んだ拍子に制服のスカートがまくれ上がり、少女の白い太腿が少年の目に晒されていた。郁が思わず目を逸らしたのはこのためだ。さらに、その奥にある艶めかしい曲線とともに、白い布地も幼馴染みの目に映っていたようだ。
仄香は頬を赤らめてスカートの裾を掴み、人には見せない部分を慌てて隠す。
「……見た?」
「見てない! 水玉なんて見てない!」
「……っ!」
恥ずかしさに頬を染めていた仄香の表情が、一気に氷点下になった。郁の手を借りずに立ち上がり、さっきまでの慌てぶりなど微塵も見せない様子で真紅のショルダーポーチを手に取る。
「ま、待って待って! 脇は悪かったよ! だから、それはやめて!」
いつものポーチから携帯用のアトマイザーを取り出した仄香は、噴霧口を幼馴染みに向けた。
それは、吸血鬼に向ける十字架のようにギラリと輝いた。
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