第二章 祖母の遺産 7

 『十戒』の単語を耳にした瞬間、曽田は心持ち顎を引き、少し上目づかいで仄香に再度聞いた。まるで、重要な秘密を知っている目撃者を睨む刑事のように。気のせいか、声音も少し低くなっているようだ。

「本当ですよ。ケースに書かれていたのはヘブライ語で、『十戒』の条文でした」

「君が調べたのかい、郁くん?」

「ええ」

「ヘブライ語なんて、よく読めたね」

「郁は、どーでもいいことをいっぱい知ってるんです。頼りになるんですよ」

「褒めるか貶すかどっちかにしてくれ」

「アタシには、ただ蛇がのたくったような字にしか見えませんでしたけど」

「参ったな……、まさか、本物じゃありませんよね?」

「えと……、どういう意味です?」

 仄香は、曽田が薫子のメモと同じことを呟いたのに驚いた。

「……これから話すことは、都市伝説だと思ってください。あくまで、噂話です」

 曽田は大きく深呼吸してから、喉湿しのようにコーヒーを一口含んだ。

「香水を扱う者の間で、たまに聞かれる話です。人の心を操る魔法の香水、『魔香』というものがあるってね。起源ははっきりしないんですが、十六世紀の錬金術の時代に、魔法を使って作られたと言われています」

「魔法、ですか……」

「胡散臭いと思うのは当然ですよ。ただ、その効果は魔法としか思えない。そんな香水がある、という噂です。ところで、嗅覚は他の四感と異なる点がいくつかあるのを知っていますか?」

「機能的に未解明なことが多い。脳に直接繋がっている。鋤鼻器じょびきという使われていない器官がある……」

「さすが、『魔法使い』の孫ですね」

 すらすらと答えた仄香を、曽田は感心した眼差しで見つめた。

「ジョビキって?」

 好奇心の塊である郁は、聞いた事の無い単語に食いついた。

「普通の匂いを嗅ぐのとは別の器官が、鼻の中にはあるのよ。フェロモンを嗅ぐための器官って言われてるけど、まだ分かっていないことも多いの」

「それじゃ、フェロモン香水ってのは、その鋤鼻器で嗅ぐのかな?」

「あー、フェロモン香水ね……」

 仄香と曽田は一瞬目を合わせ、分かっている者同士の微妙な笑みを交わし合った。

 当然、二人のそんな様子は、郁にとって少し気に入らない。

「何だよ? ボク、何か変なこと言った?」

「フェロモンってね、本当は無色無臭なのよ。ですよね、曽田さん」

「ええっ?! そうなの?」

「本当ですよ。だから、ウチも含めて世間で販売されているフェロモン香水っていうのは、正確にはフェロモン・プラス・香水なんです」

「どっちも鼻で嗅ぐから混同しがちだけど、実際には受け取る器官が別物なの。受容器から脳に直接ってのは同じだけど。……ああっ、ごめんなさい、話が脱線しちゃった」

「大丈夫ですよ。脱線してません」

「え、そうなんですか?」

「ええ。もし本当に存在するとしたら、『魔香』というものの正体は、フェロモン香水じゃないかって言われてます」

「フェロモン……」

「そうです。一般にフェロモンというのは、動物や虫、植物などから分泌される生理活性物質です。フェロモンを嗅いだ生物は、あらかじめ決められた本能に従って行動するんですよ。つまり、言語を持たない生物同士のコミュニケーション手段と言えますね。プログラム言語の命令みたいなもの、と捉える学者もいます。しかし、ヒトは言語が発達したので、フェロモンを使ったコミュニケーションは不要となり、鋤鼻器は退化したのだと考えられていました。しかし、近年の研究で人にも有効なフェロモンがあり、鋤鼻器も機能しているらしいことが分かりました」

「それで、『魔香』というのが……」

「そう、強い効果をもったヒトフェロモン、かもしれません」

「面白いですね」

「面白いんですよ。もっとも、我々の間で『魔香』が話題に上るときは、やっぱりオカルト的な扱いですね。例えば、人の心を読むことが出来る。好きな相手を意のままにできる。あとは……、そうですね、どんなウソでも相手に信じ込ませることができる、とか。まさに魔法ですよ」

「……!」

 その瞬間、仄香は昨夜の黒い女のことを思い出した。

 あの時、仄香は『十戒』の香りを身にまとっていた。香水として身に着けた訳ではないが、レシピを作るために繰り返し嗅いでいたのだ。身体にも染みついていただろう。そして、あの黒い女は、自分も調香師だと言った。彼女の鼻がどれほど鋭いか分からないが、調香師を名乗るものが、話のできる距離で相手の発する香りが分からないはずがない。

 あの女が『十戒』の香りを全く知らない可能性もある。だが、だとしても、わざわざ夜中に来るなどという怪しいことをしたにもかかわらず、『十戒』など知らないという仄香のウソをあっさりと信じたように見えたのはおかしい。

 あれは、『十戒』が効果を発揮して、“仄香のウソを信じた”のではないだろうか。

「どうしました、仄香さん?」

「いえ、なかなか信じられない話で、どう反応したらいいのか……」

「すみません、ちょっと脅かしすぎましたか」

 さっきまでの真面目な雰囲気が霧散し、曽田は最初に会った時と同じ柔和な笑みを年若い調香師に向けた。

「……! かか、からかったんですか?」

「はは、そんなことはありませんよ。『魔香』の噂話は本当です。でも、これがそうとは限らない」

 曽田は目の前に並んだ小瓶の頭を軽く弾いた。

「というより、『魔香』というものが実際にあったとしても、それは分子単位で解明できる、と思います」

「ガスクロマトグラフィーを使って、ですか?」

「そうです。よく知ってますね、郁くん」

「大丈夫ですか? 香料として研究され尽くされている薔薇ですら、いまだに香りの全てを完全に解明できてはいないんでしょう?」

「本当によく知ってますね。仄香さんが頼りにするのも分かったような気がします。ええ、確かに、薔薇の香りにも未解明なところはたくさんあります。しかし、時間はかかるかもしれませんが、それらはいずれ解明できるでしょう。分析器の精度もどんどん上がっていますし、得られたデータを分析するためのコンピュータも高性能になっています。時間の問題ですよ。だから、これの分析は私たちに任せてください。工房からの依頼として、正式に承ります」

「あ、いえ、本業に支障の出ない程度でかまいませんので……」

「大丈夫ですよ。ウチの部署は、工房からの依頼を最優先で処理するようになっています。先生がいらっしゃった頃からの、これは決まりなんですよ。工房の主が代替わりしてからの最初の依頼です。安んじてお任せください」

 目をつむり、胸に手を当てるという、いささか芝居がかった仕草で曽田は仄香の依頼を受け入れた。

「今後はこちらへ連絡してください。私の携帯電話の番号も記載してあります」

 そう言いながら、曽田は内懐から名刺ケースを取り出し、仄香と郁に一枚ずつ名刺を差し出した。

 中央に曽田芳和の名前。左上にFFDCのマークと、右下に会社の住所や各種電話番号、メールアドレスがプリントされている。ごく標準的な名刺であった。肩書は『第三分析室室長』とある。

「それじゃ、これがボクたちの連絡先です。こっちが仄香で、こっちがボク」

 名刺を出した曽田に対して、郁も当たり前のように制服のポケットから名刺を取り出した。さすがに社名が入っているような社会人的な名刺ではなく、ただ名前と携帯電話などの連絡先が記載されているだけのシンプルな名刺だ。

「あんた、何で名刺なんて持ってるのよ……」

「もちろん、連絡先の交換のためだよ」

 こういったものを予め用意している幼馴染みに感心はしたものの、あまりにもそつが無さ過ぎて、仄香は逆に呆れてしまった。

 本当に、自分の幼馴染みは頼りになる。

「分析結果は、一週間から十日くらいで連絡できると思います」

「ええ、よろしくお願いします」

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