第二章 祖母の遺産 6
そんな郁を横目で見つつ、仄香は呟くように聞いてきた。
「郁はやっぱり、おじさまのこと、気にしてる……の……。ああ、ううん、ゴメンナサイ……、何でもない……」
「ん? ……ああ、そのことか。いいよ。さすがにボクだっていつまでも子供じゃない。父さんは、家族よりも面白いモンを見付けちゃった。ただ、それだけのことさ」
郁の父親は、今は日本にはいない。昔は大学で民俗学を教えていたが、郁が高校に入学した時を境に、「フィールドワークだ!」と言って日本を飛び出してしまった。時折、思い出したように、手紙と一緒に現地の得体のしれない特産品を送ってくる以外は、ほとんど音信不通である。
今では母親と二人、つつがなく暮らしているので、郁は父親の不在にも慣れてしまっている。実際、仄香に父親のことを聞かれるまで、きれいさっぱり忘れていたくらいだ。
郁が気にしていたのは、“仄香が大人の男と食事の約束をした”というところだ。しかし、一緒に歩いている幼馴染みは気付かなかったようである。
「まあ、二人っきりで会うというわけじゃないから、大丈夫か」
「いったい、何を心配しているのよ。現役の調香師に香水の話を聞くだけよ?」
──幼馴染みで阿吽の呼吸とかよく言われるけど、別に以心伝心ってわけじゃないんだよな……。
郁は苦笑いをしつつ、話題を変えた。
「ところで、昨夜の黒い女って、結局何者か分からないの?」
「全然。おばあさまの知り合いって言ってたけど、アタシたちと同年代で、おばあさまの知り合いって、ちょっと考えられないのよね」
「そうだよなぁ。そんなのがいたら薫子さんから話を聞いててもおかしくないし」
「調香師っていうんなら、アタシが『十戒』を持っていないなんてウソ、すぐに気付いたはずなのにそんな素振りも無かったし。分かんないことばっかりよ」
「ま、分かりそうなことから調べていこうよ。そのために、曽田って人と会うんでしょ?」
「こんばんは、フレグランス・アンド・フレーバー・ディストリビューション・カンパニーの曽田です」
駅前の待ち合わせ場所に現れたのは、爽やかな雰囲気をした青年であった。
リムレスのメガネ。軽く天然パーマの入ったようなくせっ毛は短め。スーツの上着を小脇に抱え、反対側の手でビジネス用の手提げ鞄を持っている。全体的に、清潔感溢れる好青年といった雰囲気だ。年の頃は二十代後半だろうか。三十は行ってないように見える。
「は、初めまして……、高砂仄香です……」
にこやかに差し出された手を握り返しながら、仄香は曽田をまじまじと見つめてしまった。
郁の目には、幼馴染みの頬がほんのりと赤くなっているような気がする。
「そちらは、仄香さんの彼氏かな?」
「いえいえいえ、コレはただの幼馴染みで付添いです!」
「……初めまして、長谷川郁と言います。幼馴染みで付添いです」
仄香の紹介に、郁は憮然とした顔つきになってしまっていたのだろうか。社会人らしくにこやかにしていただけの曽田の表情が、面白げな顔つきになった。
女子高生と会うくらいで緊張していたわけはないのであろうが、一回り以上も年上の青年の心情は、一介の男子高校生でうかがい知ることはできない。
「さて、立ち話もなんですから、お店に行きましょうか」
曽田が先導する形で、となりに仄香。仄香から半歩遅れて郁がついて行く。
二人が連れて行かれたのは、駅からほど近い高級ホテルの最上階にあるレストランであった。ホテル自体もフロントからして高級感あふれる雰囲気であったが、レストランもそれに輪をかけてハイソなイメージだ。
スーツ姿の曽田は問題ないが、仄香は自分たちの制服姿が場違いのような気がした。
「ね、アタシたちのカッコ、まずいんじゃない?」
「大丈夫でしょ。学生の制服は冠婚葬祭、どこにでも着ていけるオールマイティな服だよ。むしろ普段着の方がまずかったと思うけど」
「そりゃま、そうよね……」
ファミリーレストランに普段着で行くのとは明らかに違う雰囲気に、仄香は少し気圧されかけていた。レストランのリッチな内装を眺めながら、私服で来なくてよかったと、仄香は本気で思う。
クロークに鞄を預け、三人はタキシード姿のグリーターに案内されて窓際の席に向かった。
「わあ……っ」
窓の外には、駅前の繁華街を中心に見事な夜景が広がっていた。宝石箱をひっくり返したような光のモザイクが、遠く見える海際まで満遍なく続いている。海際にはイルミネーション豊かな観覧車がゆっくりと回っており、その下の海浜公園には植物園の温室がライトアップされていた。
「気に入ってもらえました? 僕もここから見る夜景は大好きなんですよ」
席についた郁は、テーブルに用意されていたナイフやフォークに目をやった。どうやら、コース料理が予約されていたようだ。
「あの、ぶっちゃけた話、ボクら財布の中身が心配なんですけど……」
「ちょっと! ぶっちゃけすぎでしょ!」
「安心してください。もちろん、ここは僕がもちますよ。久しぶりに仄香さんに会えて、ちょっとはしゃいでるだけです」
「…………え?」
「曽田さんは、仄香と面識があったんですか?」
「面識というか、ちょっとお話ししたという程度ですけど。僕がFFDCに入社したばかりの頃、上司に連れられて、何度か『魔法使い』の工房に行ったことがあるんです」
「覚えてる、仄香?」
「ううん……」
「ははっ。構いませんよ。君らが小学生の頃の話です。それに、僕たちが普段、工房にお邪魔したのはほとんどが昼間でしたからね。君らが学校にいる時間ですよ」
それからしばらくは、食事を楽しみながら薫子の話題を中心に当たり障りのない会話を続けた。といっても、薫子がFFDCとどんな付き合いをしていたのかという話を、曽田が独演会よろしく話していたといった感じだ。
「……というわけで、薫子さんが亡くなってから、ウチと工房とのお付き合いは疎遠になってしまったんです。何しろ、後を継いだのが、失礼ながら年端もいかない少女でしたからね」
「そうだったんですか……。でも、考えてみれば当たり前ですよね。アタシみたいな小娘じゃ、プロの調香師のお役に立つなんてありえないでしょうし」
コース料理が一通り終わり、三人の前には食後のコーヒーがあるのみである。
「ただ、僕は早いうちに仄香さんに会いに行こうとは思っていたんですよ」
「え?」
「先生から、仄香さんの話はよく聞かされていたんです。『あの娘は私よりも才能がある』……とね」
「そんな、まさか……」
確かに仄香は、祖母の薫子から調香について様々なことを教わっていたし、褒められたことも多々あったが、仄香自身は祖母に遠く及ばないと思っている。
「本当ですよ。ただ、当時は僕自身も、会社内で責任のある立場に任命されたりして忙しくなってしまったんです。時間が取れるようになったのはここ最近の話でね。だから、仄香さんの方から連絡があって、ちょっとビックリでした」
ちょっと間を置くようにして、曽田はコーヒーカップに口をつけた。
「それで、僕に何か相談があるそうですね」
食後の落ち着いた雰囲気で、ようやく本題に入れそうである。
「曽田さんは、生前の祖母から何か相談をされましたか?」
「先生の方からですか? いいえ、特に話を聞いたことはありませんね。相談というなら、むしろ僕らの方からする事がほとんどでしたよ」
「そうですか……。では、改めて、これの分析をお願いしたいんです」
そう言って、仄香はいつもの真紅のポーチから小瓶を五つ取り出した。『十戒』の中身を小分けしたもので、それぞれ六から十の番号がラベルに書かれている。
「香水、ですか? 嗅いでも?」
「構いません。ただ、祖母のメモにもあったんですけど、軽い興奮状態になるみたいなので、もしかしたらマズイ成分が含まれているのかもしれません」
「では、失礼」
目の前に並べられた小瓶の一つを手に取り、曽田はキャップを開いた。当然ながら鼻を直接つけるようなことはせず、手で扇いで香りを鼻に寄せる。
「薔薇……ダマスク・クラシックか……、それに
「曽田さんでも分かりませんか……」
「アニマル・ノート……みたいだけど、
仄香は『十戒』を見付けた経緯をかいつまんで曽田に説明した。
「詳しくは全然分からないんですよ。祖母のメモには『魔香』……、魔法の香りって書いてありました。それから、これらが入っていたケースには『十戒』って書かれてたんです」
「……! それ、本当ですか?」
「え?」
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