第二章 祖母の遺産 5

 十六夜の月は雲に隠れ、街は静かに眠っている。駅から離れた閑静な住宅地の中でも、高砂家は見晴らしのいい高台に立地している。繁華街を遠くに見下ろす坂道で、黒い女は満足げな笑みを口元に浮かべた。

「ふふ、見つけた……。ついに見つけたわ……」

 一般に調香師は、数千に及ぶ様々な香りを嗅ぎ分けることができる。調香師によっては、人を覚えるのに顔立ちや体格ではなく、その人が発する体香で記憶する者もいるくらいである。

 『魔法使い』の孫から漂ってきたあの香り。あれは間違いなく『十戒』の香りだ。仄香から『十戒』の香りが漂ってきたということは、彼女が『十戒』のことを知っており、しかもあの娘の手元にあるということだ。さらに言えば、ついさっきまで、『十戒』の香りを嗅いでいたようでもある。

 だが、彼女は知らないと言ってウソをつき、『十戒』の存在を隠そうとした。

 それこそが、『十戒』の存在をもっとも確実なものとしていた。

 なぜなら、女は仄香の言ったウソを“信じた”からである。

 『十戒』の持つ本当の効果を知らなければ、仄香のウソを心底信じてしまい、疑うことは無かっただろう。

 仄香は『十戒』を知らず、工房にも無く、手がかりを失って、黒い女はまた最初から『十戒』を探さなければならくなると思い込み、途方に暮れてしまったろう。

「『汝、偽証するなかれ』……。その逆、『汝、偽証せよ』。……ふふ、すごいわ、本当に効果があるのね。まさに魔法だわ」

 心に湧き上がる無条件の信用と、理性が導き出した結論との矛盾を理性でねじ伏せ、黒い女は唇を笑いの形に歪ませながら、夜の街に消えて行った。


   *


 闇夜の風のような黒い女が去ってからすぐ、何となく胸騒ぎがした仄香は、閉じたばかりの工房に取って返した。入り口脇にあるスイッチを押して明かりを点け、ドアをしっかりと施錠する。

 と、その瞬間、何かが爆ぜるような音が聞こえた。冬場にセーターを脱いだ時に聞こえる静電気のような音だ。

 音の聞こえてきた作業台の方へ向かう仄香。そこには『十戒』のケースが置いてある。

 音の原因が掴めないまま、仄香が『十戒』のケースを開けようとしたとき、フタの文字が変化していることに気付いた。『十戒』の内の一行が色濃くなっていたのだ。まるで、今その部分だけ書き入れたかのようにハッキリとしている。

 仄香はその一行を指でなぞってみた。

「何、これ……?」

 仄香はケースを上下ひっくり返し、『十戒』を正しく読めるような向きにする。

 『十戒』はヘブライ語で書かれているので、右から左に読むようになっている。一番上に香水の名前であろう大きな『十戒』の文字。その下の右側が薄い字で『十戒』の『一』から『五』。左側が少し濃いめの字で『六』から『十』である。

 左側の上から四つ目、『九』だけが、パッと見で分かるくらいハッキリとした文字になっている。

「えと、これって、九番目よね……」

 仄香はポケットから携帯電話を取り出し、郁から送られてきたメールを表示させる。

「九番目は……っと、『汝、偽証するなかれ』、か。ウソをつくなってこと、よね?」

 ウソ、ときて最初に思い浮かんだのは、今の黒い女とのやり取りだった。あの時、とっさにとはいえ仄香はウソをついた。もともと仄香は平気でウソをつくような性格ではないが、さっきは自分でも驚くくらい流暢なウソをつくことができた。それこそ、自分で信じしまいそうなくらいだ。

「アタシが、ウソをついたから? ……まさかね」

 ありえないと思いつつも、ケースの文字を指でなぞりながら、黒い女と『十戒』のことを交互に考える。

 あの女は自分が調香師であると言った。祖母とも面識があるようだ。だが、仄香はあの女に見覚えはない。年の頃は自分と同じか、少し上くらいだから、現役時代の薫子と会っているわけではないだろう。

「でも、おばあさまの異名を知ってたのよね……」

 仄香自身が薫子の通り名を知っていたのは、工房を訪れる客が、祖母の事を何度か『魔法使い』と呼んでいるのを聞いたことがあるからである。来客は例外なく、畏敬の念を込めて祖母をそう呼んでいた。工房の隅でそれを見ていた仄香は、幼心に祖母を誇らしく思ったものである。

 祖母の通り名を知っているのなら、調香師というのも本当であろう。とするなら、仄香が身にまとっている『十戒』の香りにも気付いていたはずである。

 だが、女は仄香のウソを受け入れ、夜の闇に消えて行った。パッと見には、仄香のウソを素直に信じて帰ったように見える。

「はぁ……」

 どうにもおかしなことばかりで、仄香は軽く溜息をついた。

 謎の黒い女。

 スラスラと口から出たウソ。

 それに対応するかのように変化した『十戒』の一文。

 そもそも、この『十戒』という名の正体不明な香水。

 分からないことだらけだ。

「郁なら、答えが分かるかな……」

 仄香自身はさほど意識していないが、近所に住む幼馴染みは仄香が答えに迷った時、いつでも答えを出してくれた。頭を使うことに関しては自分よりもずっと頼りになるのだ。

 明日、さっきの出来事を郁に相談することにして、改めて仄香は工房を後にした。


   *


「で、その曽田って人と会うのにボクも駆り出されたわけか」

「いいでしょ。どうせ暇なんだから」

「確かに帰宅部で、その通り暇なんだけど、その言い方は結構傷つくな……。アポはちゃんと取れたの?」

 翌日の放課後、仄香はFFDCの曽田と会うことを郁に告げた。学校帰りの制服のまま、二人は待ち合わせの場所へ向かう為に駅に向かって歩いている。道すがら、仄香は改めて郁に曽田と会うことになった経緯を説明していた。

「昨日、ママにおばあさまの住所録とかを見せてもらったの。昼休みに電話したら、今夜空いてるって。食事の約束した」

「……何歳くらいの人かな?」

「そうねぇ、声の感じから若いと思うんだけど」

「薫子さんのメモに名前が有ったってことは、少なくとも三年以上前からFFDCに勤めてるんだよね」

「そうなるわね。おばあさまのお葬式にも来てくれたみたいだし」

「……」

「何よ」

「いや、いい男だと良いねって思ったの」

「……あんた、もしかしてソッチの趣味があったの?」

「そっち? …………いやいやいや! ちがうチガウ!」

 自分の言い方も悪かったのだろうが、郁は仄香の言葉の意味するところが一瞬分からなかった。だが、分かった瞬間、郁は全力で否定した。

「分かってるわよ。冗談にそんな思いっきり否定されると、本当にそうかもと思っちゃうわよ」

「いや、まったく……。あのね、研究職の人間なんて、社会不適合者かその予備軍だと思っておいた方がいいよ」

「何よ、おばあさまのこと、バカにしてるの?」

「いやいや、薫子さんは例外だよ。今でも昔の会社の人が尋ねて来るなんて、なかなかスゴイと思うけど。そんな人はめったにいない」

「郁ってば、研究者に偏見持ってない? ほら、海外ドラマで、科学捜査のチームがカッコいいのあるじゃない。あれなんてリア充の集団よ」

「いやいやいや、ドラマなんてファンタジーだって。だからカッコいいし面白いんだよ。そうじゃなくって、JKをいきなり食事に、それも夕食に誘おうなんて、ちょっとは警戒した方が良いんじゃないかってこと」

「おばあさまの知り合いよ? 変なのがいるわけないじゃない」

「まあ、それを言われると、その通りだと思うけどね」

 仄香ほどではないが、郁も工房に出入りしていたせいで、薫子に礼儀を躾けられていた。

 最近はそういう人も少なくなったが、薫子は他所の子供であっても、自分の孫と同じように叱ることのできる老人であった。

 また、薫子は無礼な人間に対しては容赦の無い対応をしていた。希少な香料を求めて礼儀知らずな客が工房を訪れることがたまにあったのだが、その時の薫子の毅然とした、そして魔法としか見えないような恐ろしい方法で無礼な客を追い返すのを、幼い郁は何度も見た事がある。先日、仄香がクラスメイトの元彼を痛い目に合わせたときに郁が落ち着いていたのも、かつて薫子が同じ方法で無礼な客を追い返しているのを見たことがあったからである。

 逆に言えば、薫子と親交があるということは、礼節を弁えた人間であると言える。

 だから、FFDCの曽田という人物も、恐らくは常識人であるはずだ。それは分かっている。考えるまでも無い。だが、郁はついつい余計なことを言ってしまう自分を抑えることが出来なかった。郁の仄香に対する気持ちは、そう単純なものではないから、面識のない男が幼馴染みを食事に誘った事実に、ついつい要らぬ警戒心を抱いてしまったのだ。

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