第二章 祖母の遺産 4
「んー!」
オルガンに向かい続けていた仄香は、両腕を上げて大きく伸びをした。壁の柱時計を見て、間もなく日が変わることに気付く。
夕方から今まで、仄香はぶっ続けで『十戒』の分析に取り組んでいた。
どんなに良い香りでも、連続して嗅いでいては鼻が利かなくなってしまう。嗅覚をリセットする方法はいくつかあるが、基本的にしばらく鼻を休めれば回復するので、仄香は庭に出て散歩する方法を好んでいた。
季節がら、今は緑の香が強い。工房を設計したのは祖母の薫子だが、周辺の樹木についても薫子の意思が反映されていた。薔薇や金木犀のような強い香りを持つ樹木は無く、代わりに薄く爽やかなグリーン・ノートをふりまく木々が植えられている。
鼻が利かなくなってくると、仄香は工房と母屋の間にある庭の池を軽く一周したり、夕闇の風に吹かれたりして嗅覚をリセットしてから工房に戻る、ということを繰り返していた。食べ物にも多様な香料、いわゆるフレーバーが使われているので、仄香は夕食も取らずに分析を続けた。
生前、薫子も同じようなことをしていたので、母親の継美は特に何も言ってこない。多分、キッチンには仄香の分の夕食が残されているだろう。
もっとも、普通の香水であれば、これほどの時間はかからなかったに違いない。
音楽を嗜む者であれば耳コピーが容易であるように、調香師であれば覚えのある香りのレシピを作るのは難しいことではない。使われている香料が多く、作られてからの時間の経過も考慮しなければならない場合もあるが、仄香や薫子のように鋭い嗅覚をもっていれば、さほど時間をかけずに香水をコピーすることが可能だ。
時間がかかったのは、薫子のメモにあったように、長く嗅いでいると落ち着かない気分になるからである。実際、仄香は何度も軽い興奮状態に陥っていたが、その度にリフレッシュを繰り返していた。
五つの香水の分析はある程度終わったが、ここまでは薫子も分析できたに違いない。問題は残りの香料だ。やはり、それぞれに謎の香料が使われているようだ。二つか三つ、仄香の知らない、そして薫子も知らなかったであろう未知の天然香料が使われている。それが、興奮状態になってしまう原因なのは間違いない。
「まさか、麻薬みたいなものなのかしら……。FFDCの曽田さん……、か……」
薫子のメモを読み返して、仄香は溜息を洩らした。
FFDCのような大手の香料会社であれば、必ず分析器を持っているはずだ。ガスクロマトグラフィーと呼ばれる分析器は、気体の成分を分子レベルで測定することが可能である。現在、多くの天然香料の代替として合成香料が製造されているが、それはガスクロマトグラフィーを用いた分析結果によるところが大きい。ヒトの感覚だけでは分からない、匂いに対する分子レベルの解析が可能なのである。
代表的な動物性天然香料には、麝香(ムスク)、海狸香(カストリウム)、竜涎香(アンバーグリス)、霊猫香(シベット)がある。このうち、麝香の採れるジャコウジカ、そして海狸香の採れるビーバーは、それぞれ絶滅危惧種である為に、ワシントン条約で捕獲が禁止されている。また、竜涎香はマッコウクジラから採れるのだが、こちらも商業捕鯨が禁止されていて、建前上、偶然によってしか入手できない。霊猫香の採れるジャコウネコは特に規制されてはいないが、昨今では動物虐待が叫ばれたりしている。
以上のような理由に加え、植物性の天然香料は生産地における天候不順や、時には政変などによって安定した供給が難しく、価格の変動も激しい。
「一般に知られているような香料じゃなさそうなのよね……。おばあさまの工房に無いくらいなんだもの……」
さすがに知らない香料を使われていては、如何に嗅覚が鋭くても分析することはできない。未知の成分については、ガスクロマトグラフィーに頼らざるを得ないであろう。おそらく、薫子もそうしようとしたみたいである。
曽田が何者かは分からないが、薫子と親交があったのなら年賀状くらいはやり取りしているかもしれない。明日、母親に祖母の住所録を見せてもらうことを決めて、仄香は工房を出ようとした。
その時、ちょうど柱時計が鳴り始めた。
「一、二、三、……」
昨日のこともあるので、仄香は慎重に鐘の音を数えた。
「……、十一、十二……」
だが、今夜は十三回目の鐘の音は鳴らなかった。思わず、安堵の吐息を漏らす。
「やっぱり、満月の夜限定か……。随分と手の込んだ隠し方ね。そこまでして隠さなくちゃならなかったのかしら……」
祖母の真意は分からないが、夜中に工房に出入りする人間が、かつては薫子だけであり、今では自分だけであることを考えると、他人には見せないようにしていたとしか思えない。
「曽田って人なら、何か知っているかもね。色々と聞いてみたいな」
とりあえず、今日のところは夜も遅い。曽田に会う手間をざっくりと頭で計画しながら、仄香は工房を出た。
「おやすみなさい、おばあさま」
鍵をかけ、夜空を見上げると、天空には十六夜の月が輝いている。今夜は風が強く、雲の塊が月を遮って通り過ぎていく。
と、天空の強風が一足遅れて吹いてきたかのように、一際強い風が仄香に吹き付けてきた。
流れる髪を押さえ、天を仰ぎながら仄香が母屋に向かおうとしたその時、庭と道路を区切る生垣の向こうから女の声が聞こえてきた。
「こんばんは、高砂仄香さん」
「うきゃっ! ……どど、どちら様?」
誰もいないと思っていたところへいきなり声を掛けられ、仄香は飛び上がって驚いた。
「昔、薫子さんにお世話になったものです」
その女は、暗闇の中から影が切り取られてきたかのようであった。さっきまでの月明かりは雲に隠れ、女の姿がハッキリとしない。年の頃は仄香と同じか、少し上といった感じか。長いストレートのロングヘアに、黒いパンツスタイルのヒジネススーツを着ている。
とにかく、その女は黒かった。
「……何の、ご用ですか?」
仄香は警戒感を隠すこともせずに尋ねた。見た目も怪しいが、こんな夜中にアポもなしで突然来るのが怪しすぎる。口調は丁寧だが、それで怪しさが緩和されるわけでもなく、むしろさらに増している。
月が、雲間から再び顔を覗かせた。黒い女の輪郭が視界に浮き上がる。
白い顔。切れ長の目。ほんのりと赤い唇。浮世離れした、市松人形のように綺麗な顔立ちの女だった。見た目は仄香と同年代か、少し上のようだ。
「あなたが、先生の後を継いだのかしら?」
「工房のコトを言ってるのなら、その通りだけど……」
「と、言うことは、あなたが『魔法使い』の後継者になるのね」
「おばあさまをそう呼ぶ人は久しぶりね。おばあさまとはどういう関係なの?」
祖母の知り合いというのであれば、仄香は普通、丁寧な対応をするだろう。だが、深夜という時間と、女の黒い雰囲気が仄香の態度を刺々しいものにさせていた。
「私も調香師なの。昔、先生にお世話になったことがあってね。師匠と呼ばせてもらうほどではなかったけれど、魔法の技を間近で見せてもらったことがあるわ」
「それで?」
女を睨む仄香の態度を気にした風も見せず、黒い女は淡々と続けた。
「古い香水を探しているんです。とても古い香水を……。『十戒』という香水をご存知?」
「知らないわ」
反射的に仄香は答えた。うまく言えないが、この女には本当のことを言ってはいけない。そう思っての反応であった。
「確かにおばあさまの工房には古い香水や珍しい香料があるけど、そんな名前の香水は知らないわね」
「ムスクとロサ・ダマスクがベースの香りなんだけど」
「さあ? そんなありふれた組み合わせだけ言われても、ちょっと分からないわね。おばあさまの工房の香水は一通り把握しているけど、『十戒』なんて名前の香水は見たことが無いわ」
不思議だった。自分の口からウソがスラスラと流れ出てくる。初めは反射的にウソをついたのだが、今はウソを補完するための言葉が自然と口から出てくるようだ。
「そう、残念。知らないのなら仕方ないわね。『魔法使い』のお孫さんなら、何か知っているのかもと思ったのだけれど」
「あなた……、いったい、誰? ……わっぷ!」
突風が吹きつけてきた。人に聞くばかりで、ちゃんとした自己紹介もしない女に、仄香が誰何の問いを発したその瞬間であった。
月が雲に隠れ、落ち葉が舞い、初夏の湿った生暖かい風が仄香の髪を乱す。
仄香が再び顔を上げた時、生垣の向こうにいた黒い女の姿は無かった。まるで、元居た夜陰の奥に溶け込むように。
「……何だったの、いったい?」
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