第二章 祖母の遺産 3

「で? この変な文字は何て書いてあるの?」

「おお、そうだった。ええと、『十個の命令』……」

「何それ?」

「大きな文字の翻訳だよ。多分、ケースの中身の名前だと思う。それから……『私は唯の一個の神である』、『アイドルを作ってはならない』。……なんだこりゃ? 神様にアイドル?」

 古めかしいケースに書かれたヘブライ語。それを翻訳したところ、出てきたのは神様とアイドルという何の関係も無さそうな単語だった。ヘブライ語ではなかったのかと、萎えそうになる気持ちを押さえつけ、郁は翻訳を読み続けた。

「『神様をうかつに呼ぶな』……」

「神頼みはダメってことかしら?」

「『日曜日には休め』……」

「当たり前よね」

「『父親と母親を尊敬しろ』……」

「何だかあれね、小学校の時に廊下に貼ってあった今週の標語みたい」

「標語……か……。十個の命令、じゃなくて、十個の標語……、標語……。あ! ナイス、仄香! それだ!」

「ええ?」

 いきなり大声を出し、郁は仄香を指差した。

 頭の良さ、あるいは勘の良さというのは、何もないところから現れるわけではない。そこに至るまでに蓄積された知識や経験から導き出されるものだ。名探偵が欠片のような証拠から真実を導き出すように、また、一流のサッカー選手がゴール前で予想外の動きを見せて得点を奪うように。

「『十戒』だ! 『モーゼの十戒』だよ!」

「『十戒』って、海がどばーって割れるやつ?」

「ええと、まあ、それで合ってるよ。その『十戒』だよ。『殺すな』、『姦淫するな』、うん、やっぱり『十戒』だ」

「『カンイン』って?」

「それは……、ええと、後で自分で調べてくれるとありがたい」

 簡単なものであったとはいえ、謎が解けたことによって郁は軽い興奮状態にあったのだが、仄香の素朴な問いかけに興奮が一気に冷めてしまった。もっとも、冷めた原因は問いかけそのものではなく、その答えである。

「は? あたしのはガラケーだって、今言ったばかりでしょ」

「帰ってから一人で調べてよ! それから、間違っても親とか他の奴には聞いちゃダメだからね!」

「何よ、そんなコト言うなら教えてくれたっていいじゃない、ケチ! そもそも、これはおばあさまのなのよ? 一緒に調べてくれるって言ったのに、何でこれだけ教えてくれないの!?」

「うっく……。しょうがないな。分かったよ。これからいろいろ調べようってのに、これだけ調べないわけにはいかないもんね」

「最初っから素直に言いなさいよ。で?」

「セックス」

「……は?」

「姦淫ってのは不倫、不義、密通なんかの、配偶者や恋人以外とのセックス、だよ。セックスの意味は分かるよね?」

 努めて事務的に説明した郁に対し、言葉の意味を理解した仄香は、顔から火が出る思いがした。実際に顔は耳まで真っ赤になっているだろう。

「この……、ば、ばっ、……………………ゴメンナサイ」

 顔を真っ赤にして郁を罵ろうとした仄香だったが、繰り返し聞いたのが自分であった事を思い出して、勢いがしぼんだ。

「んー、あー、ええと…… それで、続きなんだけどさ……」

「もっと詳しく説明しようか?」

「いらない!」

「ぐえっ!」

 そっぽを向きながら仄香は肘を出したが、それが幼馴染みの脇腹にクリーンヒットした。

「あてて、この暴力女め……。学校でこれを見せてもらえばよかった……」

「学校でなら大人しくてるわよ」

「理不尽だ」

 学校では大人しい文化系の女子高生でいる仄香であるが、郁と二人でいるときには、意外と口より先に手が出てしまう。気の置けない間柄と言えば聞こえはいいが、手を出される方にしてみればたまったものではない。もっとも、郁の方も仄香の反応が分かっていて相手を茶化しているので、お互い様である。

 クラスメイトの瑞希が二人のこの様子を見れば、付き合っていると思っても仕方がないだろう。

「ケースの表面に書いてあるってことは、『十戒』ってのが中身の名前かな? ……うん? 香水が、五本? ね、仄香、開けてもいい?」

「いいわよ」

 ケースを再びひっくり返し、郁は留め金のある方を手前に持ってきた。指先で留め金を弾き、ケースのフタを開ける。

「……なんだか、中も年代物の雰囲気があるね」

 事前に仄香が話していた通り、ケースの中身は五本の香料瓶だった。

「フタのポケットにおばあさまのメモが入っていたわ。これ」

 そう言って、仄香は作業台の脇に置いてあったメモ紙を手に取った。

 受け取った郁は薫子のメモを一瞥する。やはり気になったのは、仄香と同様に『魔香』の文字であった。

「薫子さんでも分からなかったんだ」

「そうなの」

「仄香も?」

「まだ試してないわ」

「へえ、仄香にしちゃ珍しい。貴重な香料が手に入るんなら、薫子さんと同じでどこへでも行っちゃうのに」

「表面の文字が気になってね。これを確かめてからの方がいいと思ったの」

「それで正解だったかも」

「え?」

「だって、『十戒』だよ? 多分、これがこの香水の名前なんだろうけど、五本のはずがないでしょ」

「あ、そか。そうだよね。六から十なんて変だと思った」

 仄香はそれぞれの香料瓶の表面に刻まれているローマ数字を指差した。

「『十戒』がこの香水のイメージっていうか、モチーフなら、二つに別れてるのも納得できるよ」

「どういうこと?」

「聖書では、モーゼが神様から『十戒』の刻まれた石板を受け取るんだけど、石板は二枚なんだ」

「へえ、じゃあ、一から五と、六から十の二つってわけね。そうすると、この香水はシリーズの半分ってわけか。残りはどこかにあるのね」

「そういうこと。いいね、この香水のを調べるだけでも面白そうだ」

「やっぱり、郁に聞いてよかったわ。香水ってイメージが大事なのよ。『十戒』の名前を知ってるのと知らないのとじゃ、受け取るイメージが随分と違うわ」

「わかってるよ。でも、『魔香』ってのがやっぱり気になるね。薫子さんのイメージと違うな」

 言いながら、郁はスマートフォンで『魔香』を検索してみた。結果は芳しくなく、出てきたのはオカルトをメインにした小説やゲームなどの創作物ばかりである。

「この、曽田って人は?」

「知らない。FFDCは、おばあさまが務めていた香料会社よ。覚えてるでしょ?」

「うん。……ね、仄香はさ、この香水にどんなイメージを抱いてる?」

 仄香は少し困ったような表情をした。

「『十戒』って、聖書のお話よね。聖書のお話ってことは、良いお話のはずよね」

「まあ、そうだね。ボクも聖書を全部読んだわけじゃないけど、多分、良いことだと思うよ」

「アタシがこのケースを最初に開けた時、籠っていた香りがほんのりと感じられたんだけど、第一印象が『黒』だったのよ」

「『黒』?」

「そう、麝香(ムスク)と薔薇がベースってのは、おばあさまのメモにもあって、アタシも夜の香りかと思ったんだけど、全体の雰囲気が『黒かった』のよね。聖書のイメージとは全然違うでしょ?」

「確かに」

 香りを表現する語句は本当に少ないため、自然と別の言葉で表現することが多くなる。このあたり、調香師でない郁には想像することもできないのだが、仄香の目には『十戒』のケースが黒いイメージで見えているのだろう。

「面白いね。『黒』いんなら、『魔香』って言葉にも繋がるよ」

「うん、そうよね……」

 郁と話をしながら、仄香の視線は『十戒』に向いたままになっている。

 幼馴染みの様子を見てとった郁は、今日はここまでだと思った。仄香の心はすでに、イメージのハッキリした古い香水に囚われている。

「それじゃ、ボクは『十戒』って名前の香水について調べてみるよ。とりあえず、『モーゼの十戒』については仄香のケータイに送っておく」

「アタシはレシピを作ってからコピーしてみるわ。ありがと、郁」

「はーいよ」

「お礼は、そのうちね」

「期待してないよ。んじゃ、また明日」

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