第二章 祖母の遺産 2

 郁は、少し警戒しながら仄香に聞き返した。

「また、面倒くさいこと?」

「なぁーに嬉しそうな顔してんのよ」

 郁も仄香と同様に文化系であるが、知識欲が並外れて旺盛である。面白いと思ったことは徹底的に調べないと気が済まず、そこから派生した事柄にも食いついてしまう。郁が小学三年生の時、親に全三十巻の百科事典を買ってもらったことがある。インターネットやスマートフォンで調べれば、多くの情報をすぐに得ることができるが、紙には紙の良さがあるという親の教育方針で、分からないことがあると、すぐに百科事典で調べるように躾られた。

 親の躾もあったのだろうが、もともとそういう性格でもあったのだろう、郁は暇さえあれば百科事典に向かい合うようになっていた。学校の同級生たちがマンガだ携帯ゲーム機だといって遊んでいるとき、郁はひたすら知識を追っていたのだ。

 郁の読んでいた百科事典は関連項目が調べやすくなっており、文章中に別の項目があるときは太字でかかれていた。WEBブラウザ上のハイパーリンクのようなものである。そのため、一つの項目を調べながら、別の派生項目も調べていくうちに、百科事典が付箋だらけになってしまったことも多い。

 新しい知識を得るとき、何かを調べるとき、郁は無上の喜びを感じるのだ。

 だから、仄香が何かを知りたいときには、いつも郁に聞くことにしている。その場で答えがもらえなかったとしても、必ず調べて答えてくれるからである。

「昨日、おばあさまの工房で、古い香水を見つけたの」

「見つけた?」

 郁がその言い回しに疑問を持ったのは当然である。仄香が薫子の工房を引き継いでから三年になるが、これまで仄香は工房に収められた香料や資料を調べ尽くしたと思っていたからだ。

「工房には大きな柱時計があるでしょ?」

「ああ、『おばあさんの古時計』か」

 郁は童謡にちなんで、柱時計をそう呼んでいる。

「あれね、からくり時計だったの。昨日の深夜十二時に、時計の台座にあった秘密の収納が開いたのよ」

「へえ、からくり時計! 面白いね」

 単純な好奇心に駆られて、郁の目はさらに輝いてきた。

 郁に物事を頼んでおいてなんだが、このあたり、仄香は幼馴染みのことを子供っぽいなと思ってしまう。

「でね、その中に古い香水があったんだけど、ケースに書いてある文字とかが全然読めないのよ。そもそも、文字かどうかも分からないし……」

「ふんふん、実に興味深い。早速調べに行こうか。とにかく暑いし」

 知識欲を刺激されているのは間違いないのであろうが、それで暑さを忘れられるわけでもない。郁の物言いは、あくまで涼むことが最優先であるかのようであった。


「おじゃましまーす」

 三つ子の魂百まで、とはよく言ったものである。幼い頃から工房に出入りしている郁は、仄香と同様に挨拶だけは薫子にキチンと躾られていた。薫子が亡くなってからも、それは変わらない。

「うーん、涼しーっ! 快適、快適!」

 香料を温度による劣化から守るため、工房は空調を二十四時間連続で効かせている。梅雨明け後の外気温二十六度に対して、工房内部は十六度。その涼しさは、まさに天国と言っていい。

 工房は薫子の調香師としての希望を最大限取り入れた形で設計、建築されたものだが、いつの頃からか工房の一角には仄香と郁のためのスペースが出来上がっていた。工房中央の安楽椅子に比べてこじんまりしたサイズの椅子に鞄を置き、郁は仄香に導かれて作業台の前に来た。

「これよ」

「へえ、ホントに古そうだね。中身が香水?」

「そ。五本の香水瓶が入ってるの。で、なんか、フタに文字が書いてあるでしょ。でも、全然読めなくて……」

 ケースの文字列をさっと眺めた郁は、微かに鳥肌が立つような感じを覚えた。皮膚の下がざわつくような、得体の知れない感覚だ。

「文字……、なんだろうけど、何かな? 『ヴォイニッチ手稿』みたいな感じがする」

「ボイ……、何?」

「『ヴォイニッチ手稿』。昔の図鑑みたいな本なんだけど、書いてある文字は未だに誰にも読めないんだ。解読されてない」

「解読されてないのに、なんで図鑑みたいって分かるの?」

「文字と一緒に、挿し絵もいっぱい描いてあるからなんだ。植物とか、星雲とか、裸の女の人たちとか。ちょっと待ってね」

 郁は制服のポケットからスマートフォンを取り出すと、アルバム機能でいくつかの画像を仄香に表示して見せた。

「なんか、気持ち悪い絵ね。郁ってば、こんなのをスマホに入れてるの?」

「いやいや、さすがにそんなコトないよ。ボクのパソコンに入ってるのをネット経由で見てるだけだから」

「どっちにしろ、保存してるんじゃない。ホントにこういうのが好きよね」

「まーね。この画像にある植物とかは、実際には存在しない架空のものばっかりなんだ。錬金術の時代に書かれたって説があって、そういう魔術的なマニュアルかもしれないという人もいる。他にも、大昔の中二病患者がノリノリで書いた黒歴史ノートって話もある」

「何よそれ。結局何が書いてあるの?」

「だから言ったろ? 解読されてないんだ」

「それじゃ、これもそうなの?」

 仄香は木製の古びたケースを一撫でした。

「いや、大丈夫だよ。ボクも一瞬分からなかったけど、これ、逆向きみたいだね。右から左に書いてあるんだ」

 ケースを開く向きで見ると、日本語や英語などと同様に文字は左から右に書いてあるように見える。

 だが、郁はケースの上下をひっくり返し、通常と逆向きにしてみた。蝶番の部分が手前に来る。

「アラビア語……、いや、ヘブライ語……かな?」

「分かるの? こんな小さな蛇がのたくったような文字が」

「中東の人たちに失礼だよ。大体、日本語だって外国から見ればおかしな言語なんだ。ボクらはもうネイティブだから意識はしてないけど、ひらがな、カタカナ、漢字で数千文字も日常的に使っているなんて、普通はありえないよ。漢字に至っては同じ文字でも音読み訓読みがあるし、他の文字との組み合わせで意味も読み方もまるで違うものもある」

「まあ、ねぇ……。それにしても、相変わらず無駄な知識は多いわね」

「無駄言うな。博学って言ってくれ」

「雑学にしておいてあげる」

「……それで手を打とう」

 言語に対する軽い薀蓄を披露しながら、郁はスマートフォンのアプリを起動した。画面はカメラモードになっており、ケースの表面に書かれたヘブライ語らしき文字が映っている。

「何をしてるの?」

「OCR。文字認識ソフトさ。画面内の文字を認識して、テキストに起こしてくれるんだ」

「へえ、そんな便利なアプリがあるんだ」

「……よし、認識オッケー。やっぱりヘブライ語だ。で、こいつを翻訳ソフトにぶちこむっと」

「随分と便利なのね、スマホって」

「道具ってのは何でも便利なもんだよ。まあ、フツーは電話とメールくらいにしか使わないけどね。仄香もそろそろガラケーから機種変した方が良いんじゃないの?」

「イヤよ。電話とメールなら、それこそコレで十分なんだから」

 そう言って、仄香はポケットから白い折り畳み式の携帯電話を取り出した。表面や角には細かい傷がたくさんついている。

「そんなメーカー保証も切れそうな古い機種を、後生大事に使わなくてもいいと思うんだけどな。壊れた時が大変だよ」

「その時はその時よ。それに……、これは、おばあさまが中学の入学祝いに買ってくれたものなのよ。大事に使いたいわ」

「そりゃ……、しょうがないな……」

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