第二章 祖母の遺産 1
夏が好き
夏は山の青葉が繁るから好き
けぶる森の香
新緑の木々から降り注ぐ爽快な香り
*
小学校の授業が終わり、仄香は寄り道もせずに真っ直ぐ自宅に戻ってきた。いつも一緒に登下校している幼馴染みの郁は、今日は掃除当番なので、まだ学校だ。
「ただいまー」
「はい、お帰り」
玄関からすぐのリビングでは、いつも通り母親の継美が趣味の刺繍をしながら昼ドラを観ていた。
小学生らしい闊達さで階段を駆け上がり、二階にある自分の部屋の扉を開ける。すると、部屋の中から爽やかなグリーン・ノートが漂ってきた。
部屋に入る前に、大きく深呼吸して香りを嗅ぐ。仄香の部屋には、祖母の薫子が調香した香水が、可愛らしいデザインの瓶に収められていた。瑞々しい青葉の香りが基調の心地好い香り。仄香は、この香りが大好きであった。
しかし、今日はいつまでもグズグズしてはいられない。
ランドセルを学習机に載せ、教科書やノートを入れ換えて明日の準備をする。今日は宿題が無いことを確認し、もう一度連絡手帳を読み返して漏れが無いことを確かめると、最後に一呼吸してから部屋を出た。
「おばあさまのところにいるね」
「はーい」
リビングの母親に声を掛けた仄香は、玄関で靴を履くのももどかしく、母屋から少し離れたところに建てられている祖母の調香工房に向かった。
入り口のドアの前に立ち、弾む心を押さえてノックする。
「おばあさま、仄香です」
「お入りなさい」
万事において孫の仄香に甘いと言われる薫子だが、礼節の部分だけは非常に厳しかった。
「ただいま、おばあさま」
「お帰り、仄香」
工房の奥、香料瓶の並んだオルガンと呼ばれる作業台から、祖母の薫子は孫の仄香に振り返った。細身のメガネを外して可愛い孫娘の姿をとらえる。
薫子はちょうど六十才。先日、還暦を迎えたばかりである。しかし、髪の白さを除けば五十代、見る人によっては四十代にすら見えるような肌ツヤだ。背筋は真っ直ぐで声も張りがあり、老いを全く感じさせない貴婦人である。逆に、髪は七割以上が白くなっており、そこだけ見れば年齢通りの老い方だ。娘の継美からは染めればいいのにと何度も言われているが、「自然が一番」と言ってそのままである。
「新しい香り? ダマスク・ローズと……、それから……ジャスミンが少し……、後は何だろ……、スパイシーな香りが二つか三つ、ホンのちょっと入ってるね。幸恵さん、かな?」
「当たりよ。凄いわね、仄香。大分、色んな香りが分かるようになってきたのね」
「うん! だって、おばあさまの香りってとっても良いんだもの! でも、スゴいのはおばあさまよ。香りを嗅ぐと、その人が頭に浮かぶんだもの!」
調香というものは、ただ漠然と香料を混ぜ合わせて作るものではない。最初にイメージを浮かべ、場面や使用者を考慮し、それをイメージさせる言葉にする。そして、その言葉を表現する香りを調えるのだ。
味覚のように、嗅覚には直接的に表現する言葉は少ない。だが、調香師は香りを言葉で表現することを求められるので、俳人やコピーライターと同様の才能も必要とする。
ゲランの『夜間飛行』という香水のネーミングなどは、それらの代表的なものの一つだ。
幸恵は仄香の母の妹、つまり叔母にあたる。継美とは年が少し離れていて、二十代半ばである。もうすぐ結婚するのではないかと親戚中で話題となっているので、おそらくデート用の香水なのであろう。
薫子は仄香を普通に褒めたが、内心では孫の嗅覚に舌を巻いていた。
「それで、おばあさま、今日はどんなことを教えてくれるの?」
「そうねえ、それじゃ、今日は仄香に悪いことを教えてあげようかね」
「……え? ワルいこと? ワルいことって、しちゃイケないこと?」
「そう。それをしたことがバレると、叱られたり嫌われたりすることよ」
「……ううん、アタシそういうのはいらない。嫌いになるってことは、その人にとってイヤなことなんでしょ? そんなのダメだよ、おばあさま。そんなの、知りたくない」
「ふふ、仄香は良い娘ね。叱られるからじゃなく、人に嫌なことをしたくないからなのね。でもね、仄香、世の中は仄香みたいに良い人ばかりじゃないし、良いことばかりでもないわ。そんなとき、この悪いことは役に立つ。それに、良いことをしても悪い結果になるときもあるし、悪いことをしても良い結果に終わるときもあるの」
「よく分かんない。悪いことは絶対にしてはダメなんじゃないの?」
「普通はそうね。だから、これから教えることは、すぐに使ってはダメよ。でも、仄香が必要と思ったのなら、躊躇わずに使うこと……」
カーテンの隙間から朝日が射し込んでいる。
眩しさに顔をしかめ、仰向けで天井を見つめながら、ベッドの中で仄香は呟いた。
「おばあさまったら、子供に何てことを教えてくれたのよ」
仄香が香りの悪用法を祖母から教わったのは、小学校の半ばである。
それまで祖母が教えてくれたのは、リラックスさせる香りや安眠できる香りの組み方であった。祖母の調香したそれらは、世間一般に流通している香りよりも遥かに高い効果をもたらしたのものの、香りの使用方法としてはごく普通のものである。
また、時と場合によって合う香りも異なってくるので、場面場面に適した香りを教わったりもした。朝、目覚めたときには、爽やかなグリーン・ノートやシトラスなど柑橘系の香り。落ち着いて会話を楽しむときには、広く重めなフローラル系の香り。パーティなどの華やかな場面には、ほんのり興奮させるムスクをベースにするが、ムスクは鼻の奥にこもる感じがするので、それを緩和するために軽く広がりのあるハーブ系の香りをブレンドする、といった具合である。
さすがに学生の身分では、キツめの香水を身に着けて登校するわけにはいかない。朝の支度を終えた仄香は、グリーン・ノートや柑橘系の香りが、薄く淡くほんのりと漂うだけの霞のような香水を胸元に吹いて家を出た。
*
「ほーのかー、今日、薫子さんの工房に行ってもいいかー?」
梅雨明け後、夏の日射しがキツくなってきた放課後である。
幼馴染みの郁は、聞いている方がダレてくるような言い方で、帰り支度をしている仄香に尋ねてきた。
高砂の家は郊外の古い住宅地にある。敷地は、ニュータウンの建売住宅であれば二、三棟は余裕で建てられるくらいに広い。幼い頃の仄香と郁は、広い家の中でかくれんぼをしたり、庭を駆けずりまわったり、勢い余って池に落ちたりして遊んでいた。
仄香の祖母の薫子が造った工房は、母屋から少し離れたところに建てられている。工房自体は六畳くらいの部屋であるが、簡易キッチンやトイレも備えているので、ちょっとした隠れ家的な雰囲気がある。そういった場所は、幼い子供の心をワクワクとさせるもので、仄香と同じように、郁も幼い頃から薫子の工房に入り浸っていた。季節が夏の場合には、特に頻繁に訪れていたが、それは涼しさを求めてのことである。
香料を保存するにあたって避けなければならない要素はいくつかある。その最大のものは光であるが、温度も光に劣らないくらい、香料にとっては注意しなければならない要素だ。
光による劣化を防ぐため、薫子の工房には窓がない。そのため、換気と温度管理を目的とした業務用の空調を備えており、真夏の陽気でも工房内は快適な環境が維持されている。
香料は温度が十度上がると、約三倍の速度で劣化するといわれている。そのため、香料のお店では保存用の大きな冷蔵庫を備えているし、メーカーや流通業者は建物自体が巨大な冷蔵庫となっている倉庫に香料を保存している。
薫子の工房にも冷蔵庫があり、劣化の早い香料はそこにしまっている。温度による劣化が鈍い香料は壁の棚やオルガンに並べているが、それでも高温にさらすわけにはいかないので、夏場には冷房を強く効かせることになる。
「ウチに涼みに来るんならちょうど良かったわ。郁に調べてもらいたいことがあるの」
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