第一章 秘密の香り 5

「一、二、三、……」

 工房の安楽椅子に身をゆだね、いつもと同じように仄香は柱時計の鐘の音を数えていた。古風な柱時計は長針と短針が真上を向いて重なっており、日付が変わったことを示している。

「十一、十二。さ、寝よう。……え?」

 十三回。

 数え間違えたのだろうか、仄香は柱時計の鐘が十三回鳴ったような気がした。思わず柱時計を凝視する仄香。

 いつもなら正時を知らせる鐘の音が鳴り終わると、ゼンマイや歯車のかすかな機械音も止まるのだが、なぜか柱時計の機械音が止まらない。

 不思議に思った仄香が柱時計の正面に来ると、カタンという小気味良い音と共に、振り子の下の部分の台座が扉のように開いた。

「何? からくり時計だったの?」

 ムーンフェイズなど柱時計には珍しいなと思っていたが、こんな仕掛けがあるとは今まで気付かなかった。

「十二時になったら開くようになってたのかしら……。ううん、違うわね。今までそんなこと無かったし」

 祖母の薫子と同じ生活サイクルで早寝早起きをしていた仄香は、薫子が死んだ後も同じ生活習慣を続けていた。毎朝六時には起きているので、遅くとも十一時にはこの工房を出るようにしている。だが、休日前など、たまに夜更かしをして十二時過ぎまで香料の本を読みふけっていたこともあったのだが、柱時計の仕掛けが動いたことは今までに一度も無かった。

「何か、別の条件が……。あ! これかな?」

 柱時計を下から上まで眺めやった仄香は、文字盤のムーンフェイズが満月を指していることに気が付いた。長針と短針と、そして月の満ち欠けを示す月のマークがすべて真上を向いている。

 つまり、満月の夜十二時にのみ、柱時計に隠された秘密の収納が開くようになっているようである。

「でも、そうすると、今度はなんでそんな仕掛けをおばあさまが遺したのかってことなんだけど……」

 仄香は開いた扉の奥を覗きこんだ。

「これを隠そうとしてたのかしら……」

 仄香が隠し収納から取り出したのは、大学ノートを縦に半分くらいにした大きさのケースであった。素材は堅そうな木で出来ているが、角がすり減っているところをみると、かなり古いものらしい。真鍮製らしい蝶番も留め具もかなり古びており、デザインの古風さもあって年代物の雰囲気がある。

 仄香は柱時計の隠し収納を閉じた。小さな機械音が連続していたが、それが止むと隠し収納は二度と開かなかった。恐らく、次の満月の夜を待たなくては開かないのだろう。

 隠し収納から取り出したケースを、仄香はオルガンと呼ばれる作業台の上に置いた。作業台には、ビーカーやピペット、ムエットと呼ばれる試香紙などが並んでいる。

 ケースの表面には文字のようなものが書かれていたが、仄香はそれを読むことができなかった、なぜなら、見たことのない文字であったからだ。漢字でもひらがなでもカタカナでもなく、アルファベットでもキリル文字でもギリシャ文字でもない。蛇がのたくったような見慣れない文字である。

 それが模様ではなく文字だと仄香が思ったのは、箇条書きで書かれており、何かの条文のようだと思ったからだ。

 各行は左で揃えられ、ケースの左側に五行、右側に五行の文字列となっている。そして、それら二×五の十行の下に、もう一行、少し大きめのサイズの文字列が書かれていた。右側の五行に対して左側の五行は薄く書かれており、もしその文字が読めたとしても、左側はかなり読みにくいであろう。

 文字については明日、郁に聞いてみることにした。仄香の幼馴染みは、こういったものに対する雑学的な知識が豊富なのである。文字そのものをすぐに読むのはさすがに出来ないであろうが、どんな文字であるのかはすぐに分かるだろう。

 文字のことを後回しにした仄香は、真鍮製の留め具を外し、ケースのフタを開けた。

「……わあ」

 ケースの中にはガラス製の小瓶が五つ収められていた。ガラス瓶の意匠は、まるで宝石のようであった。艶やかな曲線と、光を屈折散乱させる精緻なカット。太陽の下にあれば、目を奪われるような輝きを魅せるだろう。だが、それはお勧めできない。なぜなら、ケースに収められていたのは香水瓶であったからである。

 香水瓶であることに仄香が気付いたのは、魅惑的なデザインの瓶であるからというわけではない。ケースを開けると同時に拡がった、官能的な香りのためである。どうやら、ケースのフタが閉じられていた期間はかなり長かったようである。それに加えて瓶自体が古いものであったため、わずかに香りが漏れ出していたらしい。

「……ベースは麝香ムスク、それに薔薇……、それも、オールドローズの……ロサ・ダマスク……、夜の香りね。何かしら……、少し刺激があるわ……。香りにヒドイ混乱はない……から、五つとも同系列のシリーズの香りかな……?」

 香りを感じた仄香は、反射的に香りの分析を始めてしまった。これは、もはや習慣とも言えるもので、すれ違った人が着けていた香りを、仄香は即座に分析することができる。シンプルな構成であれば、すぐに処方箋を書き表すことも可能だ。

 それぞれの小瓶の表面には、浮彫の意匠でローマ数字が刻まれていた。数字は順に、ⅥからⅩである。

「六から十? ってことは、一から五もあるのかしら……。ん?」

 香りと精緻な意匠の小瓶に目を奪われていた仄香であったが、フタの裏側のポケット部分に紙片があることに気付いた。それを取り出し、折り畳まれていた紙片を広げる。

 その瞬間、仄香の心が懐かしい気持ちで満たされた。

「おばあさまの字……」

 紙片に書かれていた字は、亡き祖母、薫子の筆跡であった。彼女が次々と生み出した奇跡のような香りと同様に、薫子の字も流麗で優雅さに満ちた筆跡だ。

 しかし、書かれているのは、きわめて散文的なものであった。


  成分

  麝香と薔薇がベースであるが、不明な成分も多数。→未知の天然香料?

  基本成分は全て同じだが、それぞれに何か別の成分が配合されている。

  これが肝か。


  若干、落ち着かなくなる気分になるので、取扱いに注意。


  FFDCの曽田君に相談

  本物の魔香?


「この香水のことか……。つまり、おばあさまはこれを調べていたのね。隠してあって、今までに誰も取りに来ていないってことは、誰かに頼まれたものじゃない」

 薫子は、結婚するまでは外資系の大手香料会社、フレグランス・アンド・フレーバー・ディストリビューション・カンパニーの日本支社に調香師として勤めていた。通称FFDCはニューヨークに本社を持つ国際的な企業で、現在世界で流通している香料の四割を取り扱っているという。

 退職後に自前の調香工房を構えた薫子であったが、実際のところ、個人で工房を営むのは非常に大変である。一般に使われている香料は、天然香料が約二百種、合成香料が約三千種である。特に天然香料は自然の天候や環境の変化、さらには原産地の政変などでも価格や流通量が大きく変動するので、個人で揃えるのはなかなか難しい。

 薫子は在職中の実績から、退職後もFFDCから仕事の依頼を受けることが多かった。その見返りとして、個人の工房としては破格の数の香料を揃えることができたのである。

 また、香料を調達するために自身で世界各国の原産地を巡ったことによって作られた人脈もあり、薫子の工房にはFFDC本社にも無いような貴重な香料もある。

 しかし今、仄香の手にある香水はFFDC絡みのものではないようだ。

「この、曽田って人に聞いたら、何かわかるのかしら……。でも、魔香って何だろ?」

 調香とは、純粋な科学である。

 嗅覚や天然香料など、生理学的な部分については未だ分かっていないことが多いものの、多くの研鑽と化学の発展で芸術の域にまで達している。

 FFDCの在職中は類い稀な嗅覚と豊富な知識、そして誰にもマネのできないセンスで薫子は多くの香水を生み出しており、『魔法使い』とも呼ばれていた。だが、それでも、彼女の持っている技術は科学的なものだ。

 その薫子が遺したメモの中で異彩を放っている『魔香』の文字。

 祖母に似つかわしくない単語。

 そもそも、薫子が見極められなかった香りなど、ほとんどないと言っていい。

「おばあさまでも分からなかった香水か……。ふふ、面白そう」

 仄香自身は、調香の技術については未だ祖母に及ばないと思っている。超えるべき壁、とまではいかないが、遠くに見える山の頂くらいには思っている。いずれ、祖母の居た高みに到達してみたいと、漠然と考えてはいた。

 そこへ、この謎の香水である。

 成分や来歴を解き明かすことができれば、薫子に近付ける。

 仄香はケースをオルガンと呼ばれる作業台の上に置くと、亡き祖母に挨拶をして工房を出た。

 真夜中であるにもかかわらず、外の意外な明るさに仄香は空を見上げた。中空に見事な満月が輝いている。

「そっか、満月なんだっけ」

 人は月の満ち欠けによってバイオリズムが変化するという。今のこの胸の高鳴りは、はたして満月のせいであろうか。

 ケースから広がった甘く刺激的な夜の香りを思い返し、仄香は心に決めた。

 あの香水の全てを明らかにしてみせる!

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