第一章 秘密の香り 4


「大丈夫、瑞希?」

「ありがと、仄香。でも、ホントに何をしたの?」

「言ったでしょ? 魔法よ」

「あー、日曜の朝にやってるような?」

「いやいや、あんな素手でドツキ合いするようなのじゃなくて、ホラ、この間までシリーズで映画やってたようなやつをイメージしてよ」

「あー、あんな感じかぁ」

「ただまあ、秘密の技を使ったのはホントだから、あんまり聞かないでくれると助かるな」

 そう言って、仄香は潤一に突き出した人差し指を立て、自分の唇にあてた。これ以上は聞かないでくれ、という沈黙のジェスチャーだ。

「あ、その指……」

 と、瑞希は仄香の指と、すでに自分の席に戻った郁を交互に見た。

「ん? んきゃ……!」

 その視線の意味に気付いて、仄香は思わず変な声を上げてしまった。冷静な振りをしつつ、指をポケットティッシュでぬぐう仄香だが、その視線は郁の方をチラチラと向いている。

 視線に気付いた郁が、再び立ち上がって声を掛けてきた。さっき拾った仄香のハンカチを持ち主に返す。

「香山さんを助けようとしたのは分かるけどさ、ほどほどにしておきなよ。あれって痴漢撃退のヤツじゃないの?」

 ハンカチを左手で受け取った仄香は、真紅のポーチからさっきとは別のアトマイザーを取り出した。そして再びハンカチに何かを染み込ませると、ポケットにしまいこむ。

「いいのよ。似たようなものだったでしょ?」

 白昼の流血沙汰を起こした張本人にもかかわらず、仄香に悪びれる様子は全くない。

 あっけからんとした幼馴染みの笑顔に、郁は諦観の溜息をついてしまった。

 仄香の見た目は、極めて真面目で大人しい普通の女子高生なのだが、中身は偽悪趣味のある問題児である。余人にはマネのできない技術と知識を持っており、その中にはさっきのように危険なものもある。そして必要と思ったら、それを使うことに一切の躊躇が無い。だから郁は、昔から冷や汗をかくことに慣れてしまっていた。

 最近になって気付いたのだが、彼女の真面目で無害そうな外見は、エキセントリックな中身を隠すためのカモフラージュであるようだ。思い返せば、昔は中身も外見も奔放な彼女に振り回されていたのだが、仄香の祖母、薫子が死んだ日を境に随分と大人しくなったように思えた。

 だが、どうやらそれは、ネコを被っていただけらしい。


「クソッ、クソッ、クソッ……。何だ、あの女!」

 トイレで鏡に向かった潤一は、ようやく鼻血が収まったのを確認すると、血まみれになったティッシュをゴミ箱に放り込んだ。そして新しいティッシュを濡らし、口の周りに残った血の跡をぬぐう。

「……クソッ!」

 忌々しげにゴミ箱を蹴りつけてから廊下に出ると、一人の女子生徒が待ち構えていた。

 潤一の、彼女に対する第一印象は『黒い』である。

 漆黒の艶やかさを持ったストレートのロングヘア。冷房が苦手なのか、夏服の上に黒いカーディガンを羽織っている。そして、スカートから伸びる脚は黒いストッキングに包まれていた。胸のリボンの色は緑、つまり一学年上の三年生らしい。

「ひどい有り様ね」

「うるさい! 何なんだ、お前は?」

「初対面の先輩相手に『お前』ってのはずいぶんと失礼ね。でも、ま、それくらいじゃないとね」

「何の話だ?」

 元々イラついていた潤一であったが、初めて会うなり訳の分からないことを言う女子生徒に対して好意的になれるはずもない。潤一は無視して自分の教室に戻ろうとした。だが、背後からかけられた声に思わず振り返ってしまう。

「あなたが何をされたか、教えてあげましょうか?」

「……!」

 無言で振り返った潤一は、数歩戻って黒い女子生徒の正面に立った。気の弱い女の子なら、軽く悲鳴を上げて目を逸らしそうなくらいに敵意を込めた視線を相手に向ける。なまじ整った顔立ちをしているだけに、負の感情をあらわにした潤一の顔は正視に耐えない。

 しかし、女子生徒は全く臆することなく、むしろ潤一の目の奥を覗きこむように視線を返してきた。

 火花が散りそうなくらいにキツイ視線を、お互いに交し合う。

「……良い眼だわ。資格は十分そうね」

「だから、何の話だ?! 僕が何をされたか、知ってるんなら言え!」

「良いわね、その傲慢さ。そうね、せっかちなあなたに結論から言うと、赤いポーチを持ったあの娘があなたに劇薬を嗅がせたのよ」

「……やっぱりか! あの香水オタクめ!」

「どこへ行くの?」

「あの女に目にもの見せてやる!」

「無理よ。やめておきなさい」

「何だと?!」

「香水の持続時間は、普通三、四時間。今行ったら、あの娘の言う通り、あなたはまた血まみれになるわよ」

 感に障る、クスクスとしか言い様のない笑いを黒い女子生徒は漏らした。

 イラつく気持ちを隠そうともせず、潤一は言い返した。

「何でだ?! 匂いを嗅がなきゃ良いんじゃないのか?!」

「あの娘の創る香りはそんな甘いものじゃないわ。何しろ、『魔法使い』の孫なんですからね」

「魔法使いぃ?」

 仄香は魔法と言っていたが、この女子生徒が言う通りであれば、潤一にかけられたのはただの香水である。どのように不思議な効果があったとしても、それは純粋に生理的な化学反応である。

 だから、潤一は『魔法』という単語に胡散臭げな反応をした。

「そうよ、『魔法使い』。どの分野でもそうだけど、傑出した才能の持ち主が振るう技は、凡人から見れば魔法にしか見えないものよ。そして、あの娘の祖母は、調香の分野では『魔法使い』の異名で呼ばれていたの。『魔法使い』の孫が凡人のハズはないでしょう?」

「……ふーっ」

 潤一は大きく息を吐き出すと、さっきまでとは打って変わって落ち着いた様子で黒い女子生徒に尋ねた。

「で、お前は何なんだ?」

 表面上、潤一は冷静になったように見えた。少なくとも、本人はそのつもりである。だが、心の奥底では仄香に対する憎悪が燃えており、瑞希に対する執着がわだかまっていた。

 だから、潤一は気付かなかった。自分が『冷静にさせられた』ということに。

 黒い女子生徒は、潤一の発作的な行動を押さえると同時に、情報を小出しにしながら潤一の思考の方向をコントロールしていたのだ。これは別に難しい話術などではなく、普通の営業マンであれば大抵身に付けているものである。

 元々傲慢な性格であった潤一は、当然ながらそんなことには気付かず、最初と変わらない居丈高な態度で訳知り顔の女子生徒に詰め寄った。

「私も調香師の端くれなのよ。古い、幻の香水を探しているの」

「そいつが僕と、何の関係があるんだ?」

「その香水を持っているのが、多分、『魔法使い』の孫なのよ。あなたには、それを手に入れる手助けをしてほしいの」

「……僕にメリットは?」

「その代わり、あの娘への仕返しを手伝うってのはどう?」

「ふざけろ。その程度のことで僕を使おうとするな。あの女へやり返すだけなら僕一人でやれる。お前の手助けを借りる意味なんか無い」

「あなた、鼻は良い方?」

「はぁ?」

「嗅覚ってね、音や光と違って意識しにくいの。でも、意識しにくいだけで、匂いは確実に脳に響くわ。それはさっき体験したでしょう?」

「……!」

 潤一は思わず自分の鼻に手を当てた。

「そして、体験したにもかかわらず、それがどんな匂いだったのか分からない。あの娘はそういう香りの使い方ができるの。あの娘が本気になったら、あなたは近付くこともできないわ。そう、あなたがご執心の髪の長い娘にもね。さっき、また血まみれになるって言ったけど、あれは比喩でも何でもない、事実なの」

「……」

「でも、私を手伝ってくれたら、あの娘の香水を破る方法を教えてあげる。それだけじゃないわ。髪の長い娘も、あなたの思うままにすることができる」

 話がうますぎる。そう潤一は思ったが、仄香へやり返し、瑞希を手に入れられるのなら悪い話ではない。それに、いきなりうまい話を持ってきた女を信用する方がどうかしている。美味しいところだけもらって、後は知らんふりという手もある。

 どこまでも自己中心的なことを考えながら、潤一は黒い女子生徒の提案を受け入れることにした。

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