第三章 盗人の残り香 4

「ちょっと、長谷川くん!」

「何、香山さん?」

 昼休み、学食に行こうと席をたったところで、クラスメイトの香山瑞希が郁に話しかけてきた。

「仄香、何かあったの? 最近、随分と疲れてるみたいなんだけど……」

「ああ、香水のことで、調べものが大変みたいなんだ」

「大丈夫かしら……、もうすぐ学期末試験なのに」

 紫村井(しむらい)学園では、七月の頭に学期末試験がある。その後、試験休みを経てテストの返却、終業式、そして学生最大のお楽しみである夏休みとなる。三年生であれば、受験のせいでお楽しみどころではないが、二年生の仄香や郁は、まだそれほど焦る必要はない。

「大丈夫だよ。ボクも手伝ってるし、無理をしてそうなら休ませるよ」

「……ホントに二人は付き合ってないの? なんか、すでに長年連れ添った夫婦みたいな感じがするんだけど。長谷川くんは、仄香のこと、どう思ってるの?」

「ボク? 好きだよ」

「……は?」

 あまりにもストレートな返事に、瑞希は一瞬、反応ができなかった。

「え、待って待って。それって、あれ? 幼馴染みだから、家族みたいな感じってこと? 姉と妹みたいな」

「妹? いや、普通に、女の子の仄香が好きだよ」

「……仄香に告白しないの?」

「ぶっ! ……いきなりだね、香山さん」

「だって、あなたたちが付き合ってないなんて、信じられないもの。端からみたら、どうみても仲の良いカップルよ。だから、誰も仄香に手を出さないんじゃない」

「へえ、仄香ってモテるんだね」

「他人事みたいに……」

「仄香の好みを聞いたことがあるかい?」

「好み? 男の子の?」

「そ。背が高くて、スポーツをやってて、自分を引っ張ってってくれるようなヤツ。D組の片桐や、B組の及川みたいなのがタイプらしいよ」

 D組の片桐亨はサッカー部の副キャプテンをやっており、郁の言うように背の高いガッチリとした体格だ。副キャプテンとはいうものの、実際の部活動ではリーダー役をこなしており、女子生徒の人気も高い。去年の体育祭では、一年生ながら応援団の団旗を振って女子の黄色い声援を浴びていた。

 B組の及川尚哉は生徒会の副会長で、掛け持ちで弓道部にも所属している。小学校の頃から弓道を続けているらしく、県大会でも上位の常連だ。秋の生徒会選挙では、生徒会長に立候補すると公言している。

「ボクとはまるで正反対だろ?」

 背が低く、文化系で、いっつも仄香に振り回されている。

 確かに正反対だが、あまりにも真反対すぎると瑞希は思った。

「ね、それって……」

「それにね、ボクは昔、仄香を振っちゃってるんだ」

「え? 長谷川くんが、仄香を?」

「そう。それはもう、こっぴどくね。中学校の頃だったけど、あの時は、しばらく口も聞いてくれなかったな」

 その時にいったい何があったのか、瑞希は知るよしもないし、聞いてはいけないような気もした。ただ、郁の見せた自嘲の笑みが痛々しくて、思わず目を逸らしてしまう。

「で、でも……。今では長谷川くんも仄香のことが好きなんでしょ? だったら……」

「仄香が今でもボクのことを好きなのか、分からない。さすがに嫌われてはいない自信はあるけど、ボクを男として見てるかどうかっていうと、疑問だね。それに、筋が通らないでしょ? 『あの時は振ってゴメン。でも好きになったから、やっぱり付き合って』、なんて言えないよ」

「こ、この……頭でっかちが……」

「え?」

 郁の顔から目を逸らしてしまった瑞希であったが、続いて出てきた郁の言葉に思わずイラッとした。

 情熱的で感情豊かといえば聞こえは良いが、直情的で気短かともいえる瑞希の性格は、煮え切らない態度を見せる郁にガマンができなかった。

「考えすぎなのよ! 男ならガツンと行きなさいよ! 大体、仄香の好みだって、長谷川くんへの気持ちの裏返しでしょ? そんなのバレバレじゃない!」

 瑞希は思わず立ち上がり、拳を握りしめて郁に叫んだ。

 教室には半分くらいのクラスメイトがいたが、彼らの注目を浴びるのも構わずに瑞希は熱弁を振るう。

「大丈夫よ、あたしが保証する! きっとOKもらえるって!」

 驚いた顔で瑞希を見上げた郁は、軽い興奮状態になって力説するクラスメイトに微笑みかけた。

「ありがと、香山さん。でも、いいんだ。ボクは今のこの距離感が気に入ってるんだ。仄香の……妹扱いでもね」

「せめて、そこは怒りなさいよ……」

 軽くため息をついて、瑞希は席に座り直した。

「女の子ってね、好きな人と一緒にいるだけで幸せな気持ちになるし、手を握るだけで心臓が飛び出しそうになるわ。抱き締められたらもう、天国にいるような気分になれるの」

 色っぽいことを言っているはずなのだが、瑞希の口調は淡々としていた。

「キスなんてしたら、身体が溶けるような気持ちが味わえるわ」

「協和潤一とも、そうだったの?」

 瑞希の動きが固まった。まるで油の切れた機械のように、ぎこちない動きで郁に視線を向ける。ギギギという錆びた音が聞こえるようだ。

 郁は、特に何かの考えがあって潤一の名前を出した訳ではなかったが、瑞希の刺すような視線を浴びて少年は後悔した。

「ふー…………。ええ、そうよ。アイツともそうだったわ。付き合っているときは良い気持ちだったし、アイツの回りにいた女子の羨むような視線も快感だった。でも、今はもうダメ! 絶対にムリ!」

「気持ち一つでそんなに変わるの?」

「アイツの正体を知らなかったからよ! 半年前の私を殴りたいわ! アイツの近くにいると気分が悪くなるし、この間も手を掴まれただけで鳥肌が立ったし、もし抱き締められでもしたら地獄の苦しみを味わうでしょうね!」

 あまりの悪し様な言いように郁は少し呆れたようになったが、噂に聞く潤一の女関係を、身を持って知ってしまった女の子を前にしては、思わず苦笑いするしかなかった。

「えーと、何の話だったかしら? そう、とにかく、女の子ってのは男子からのアプローチを待ってるのよ! だから、とっとと告っちゃいなさいよ!」


 普段の仄香はお弁当派である。毎朝六時に起きているので、自分のお弁当も余裕を持って作れるのだ。

 食べる場所は日によって違うが、いつもはクラスメイトと一緒に、教室や中庭のベンチで昼食を採っていた。持ち寄ったお惣菜や買ってきたパンなどを広げて、ちょっとしたランチ・パーティになったりする日もある。

 しかし、今日の仄香は一人で食べたい気分になっていたので、弁当箱を持って屋上へ向かっていた。屋上は普段から開放されているが、中庭と違ってベンチが無いため、昼休みにはあまり利用されていない。

「はあ……」

 階段を登りながら、仄香は溜息をついてしまった。

 理由はもちろん、黒い女が見つからないためである。

 曽田の言った通り、確かに『十戒』は薫子の作品ではない。たまたま祖母の工房から見つかったが、薫子が、単に得体の知れない香水を隠していただけかもしれない。

 だが、仄香は、あれを祖母が出した最後の課題だと思っている。もちろん、勝手な思い込みであるが、『魔法使い』という遥か遠い山の頂にいつか辿りつきたいという仄香の望みに、わずかでも近付けられるモノであるような気がしたのだ。何しろ、薫子ですら正体を見極めることのできなかった香水だ。

 だが、ことはそんな仄香の、単純な思いだけで済む話ではなくなってしまった。

 仄香が持ち込んだ香水のせいで、赤の他人が自ら目玉を抉り出すという、奇怪な事件が発生してしまっているのだ。もちろん、香水の成分分析を依頼しただけで、失明するようなケガ人が出るなどとは普通は想像もできない。だが、知らなかったからと言って、それで仄香に責任が無いとは言えないだろう。仄香の持ち込んだ香水によって、悲惨な事故が起こったのだ。

 しかし、曽田は年若い調香師を責めるようなことはせず、むしろ彼女の身を心配していた。だが、それで仄香の気持ちが軽くなるようなことはなかった。

 何とかして、『十戒』の正体を暴く。

 そのためには、まず黒い女を探す。

 初めは単なる好奇心であったが、今では自らに課した使命として『十戒』と黒い女を追っている。一介の女子高生が抱くにしては奇妙で、そして重く難しいものであるが、仄香はこれを放り出すつもりは無かった。

 真面目な外面でカムフラージュしつつ、幼馴染みを振り回すエキセントリックな少女であるが、礼節に厳しい薫子に育てられただけあって、仄香は芯の部分ではひどく生真面目なのであった。

 階段を登りながら、仄香は大きく深呼吸をした。肺活量の限界まで息を吸い込み、息を止める。そして、最後の1ccまで絞り出すように、大きく息を吐き出した。

「よし!」

 他人が見たら何事かと思うのであろうが、階段の踊り場で、仄香は拳をグッと握りしめて次の一歩を踏み出した。

 その瞬間、仄香の視界を、黒い影が通り過ぎた。

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