第三章 盗人の残り香 5

 最初は、自分の見ているものが理解できなかった。そして一瞬の後に理解したのだが、その瞬間、仄香は叫びそうになった。

「ウソ……」

 脳裏に引っかかった影の正体に気付いた瞬間、仄香は階段を全力で駆け上がっていった。

「待って! ちょっと、待って!」

 ストレートの黒いロングヘア。色白の顔。切れ長の瞳。夏服の上に黒いカーディガンを羽織っているのは、冷房が苦手だからだろうか。

 仄香が呼び止めたのは紛れもなく、先日、夜中に工房を訪れたあの黒い女だった。

「なんで……? なんで、こんなところにいるの?」

「……はい? あら、仄香さん、こんにちは。なんでって言われても、この三年C組が私の教室なんだけど」

 そう言って、黒い女は目の前の教室を指差した。

「随分と慌ててるみたいだけど、一体どうしたの?」

「どうしたのじゃないわ! お願いだから、アタシの香水を返して!」

「香水? あなたの?」

「とぼけないで! 工房から『十戒』を盗んだんでしょ!」

 その瞬間、仄香に向けられていた笑顔が消えた。鋭いナイフのような視線を年下の調香師に向ける。

「あなた、あの時、ウソをついていたの? 知らないなんて言っていたけど、本当は『十戒』を持っていたのね?」

「うっ……」

 勢いで黒い女に詰め寄ってしまったが、確かにあの時、仄香はウソをついた。問い詰めるはずの勢いがしぼみかける。だが、どう考えてもウソよりも盗む方が悪いに決まっている。しぼみそうになる気持ちを拳で握りしめて、仄香は逆ギレ気味に詰め寄った。普段の仄香を知る者が見れば、何事かと思うに違いない。

「そうよ! 知らないなんてウソよ! でも、だからって盗んで良いなんてことにはならないわ!」

 市松人形のように整った顔立ちの黒い女は、あからさまに落胆したような溜息をついた。

「先生は礼節にとても厳しい方だったわ。でも、今のあなたからは礼節の欠片も見えない。年上に敬語を使うことを強要するつもりはないけれど、人を捕まえていきなり泥棒呼ばわりは、礼節以前に人として非常識ではないかしら?」

「でも! 『十戒』を盗むなんて、あなた以外に考えられないのよ!」

「よせ、仄香!」

 と、その時、郁が仄香の前に割って入った。上級生に詰め寄っている仄香を見かけた誰かが、幼馴染みを呼んだのだろうか。少し息を切らせた郁が、仄香の細い手を掴んでいた。

「この人の言うとおり、確かに証拠は無いんだ! 先輩が犯人だってのは、今のところ、仄香の思い込みだよ!」

「で、でも……」

 冷静さを失っている仄香の耳元に、郁は冷ややかな口調で囁いた。

「先輩の匂いを嗅いでみるんだ。犯人なら、少なからず『十戒』の匂いをさせているはずだろ?」

 普段の仄香であれば、最初に考え付く方法だろう。だが、犯人と思い込んでいる人物が目の前にいきなり現れて、かなり動揺していたようだ。

 郁の脇を抜け、仄香は黒い姿をした三年生の正面に立つ。

 黒い姿の上級生は、睨みつける仄香の視線にまるで動じる風も見せず、無言で下級生たちを見つめ返している。

 イランイラン、茉莉花ジャスミン、スズランのフローラル・ブーケ。かすかにミント系のハーブ。それらが極限まで薄められた仄かな香り。普通の人であれば気付かない、しかし、確実に相手に届く、そんな密やかで奥ゆかしい香り。

 だが、麝香ムスクとダマスク・ローズの香りはしない……。

「そんな……」

 これまでのことから考えて、確かに目の前の上級生が犯人である可能性は高い。だが、仄香の類い稀な嗅覚は、目の前の黒い女がシロであると告げていた。

「……『十戒』が盗まれたというのは、本当?」

「本当ですよ、先輩。先週、仄香の工房から、犯人は他の貴重な香料には目もくれずに、『十戒』だけを盗んでいったんです」

 呆然としている仄香の前に立ち、郁は代わりに答えた。

「初めまして。長谷川郁と言います。仄香の……、幼馴染みです」

「そう言えば、この間は名前を言うのを忘れてたわね。馥山ふくやま佳苗かなえよ」

「……ほーのかっ」

 目を開いたまま、何も見ていない様子の仄香を、郁は軽く肘でつついた。

「あっ……。ご、ごめんなさい、先輩。証拠も無いのに疑ったりして……」

「いいわよ。自分の工房に泥棒が入ったなんて、普通は冷静でいられるはずがないもの。心中、お察しするわ」

 郁は思わず、「痛み入ります」と返しそうになってしまった。リボンの色から一学年上の上級生であるとわかるのだが、話し方はどうにも実年齢以上の年上に思える。同じ調香士だからであろうか、郁は薫子を連想した。

「先輩は、何で『十戒』を探していたんですか? 香水としては古すぎるから、価値は無いと思うんですけど。骨董品アンティークとしてですか?」

「色々と知っているみたいね。逆に聞くけど、あなたたちはあれがなぜ『十戒』という名前だと知っているの?」

「え? だって、ケースに書いてあったんですよ? そうなんでしょ、郁?」

「そうですよ。ヘブライ語で、『十戒』のタイトルと、一から十までの条文が書いてありました」

「そう。そこまで調べていたのなら、『魔香』という言葉も知っているでしょ?」

「「……!」」

「あれはおそらく本物……。“魔術によって造られた香水”、つまり『魔香』よ」


「大丈夫、仄香?」

「うん……」

 午後の授業まで、あと十分ほどしかない。しかし、屋上で弁当箱に箸をつけている仄香の動きは、ひどく緩慢だった。

「黒い女が……、あの先輩が犯人だと思ったんだけどなぁ……」

「馥山先輩からは、『十戒』の香りはしなかったんだろ?」

「……うん」

「だからと言って、先輩が無実とは限らない」

「え……? ちょっとちょっと! あんたが匂いで判断しろって言ったんじゃない!」

「仄香の鼻は鋭いからね。少しでも香りが残っていれば見っけもんだと思ったんだ」

「でも、違った……」

「香りがしなかったというだけだよ。昨日使って、寝る前にシャワーでも浴びてたら、さすがに仄香の鼻が犬並みでも無理だろ」

「結局、どっちなのよ? あの黒い女が犯人なの? 違うの?」

「先輩は重要参考人で、容疑は晴れていない、ってところかな。居場所がつかめたんだから、しばらくは彼女に注目してようよ。とりあえず、『十戒』のことを試験休み中に説明してもらう約束だし」

 さっきは仄香のメンタルも普通ではなかったし、昼休みの残り時間も少なくなっていた。頭の中が虹色の仄香を横に置いたまま、余裕の微笑みを浮かべた佳苗に詰め寄るのは得策ではない。

 郁は学期末テスト後の試験休みに、佳苗から『十戒』のことを詳しく話してもらう約束をして、とりあえずは引き下がったのである。

「当面は、先輩が犯人かもしれないことを前提として動こう。……なるほど、これが冤罪事件の構図というヤツか」

「……そんなんで大丈夫なの?」

「逆に、先輩が犯人でなかった場合を考えてみよう」

「うん?」

「先輩は『十戒』のことをよく知っている、……らしい。少なくとも、ボクたちよりはあの怪しげな香水の正体を把握しているのは間違いなさそうだね。だから、先輩から『十戒』の情報を知ることができる」

「ウソを教えられるかもしれないわよ?」

「だとしても、ボクらが何もないところで調べるよりはましだと思うよ。それに、先輩は、もともと『十戒』を探して仄香に近付いた。それが横取りみたいな形で盗まれたんだ。だから、探すのに協力してもらうために、ウソを言うなんてことは無いんじゃないかな」

「なるほど……。どっちにしても、メリットはあるってことね」

「そういうこと」

 腕時計に目を落とした仄香は、食べきれなかったお弁当を名残惜しそうにしながらフタを閉じた。そして、屋上の上に広がる青空を、しばらくの間無言で見上げていた。

「……………………ねえ、郁」

「なに?」

「ありがと……。郁がいなかったら、アタシ、あの黒い女……馥山先輩を見つけただけで、多分ぐちゃぐちゃになってた……」

 しおらしく殊勝な仄香など滅多に見たことが無い郁は、少し頬を赤らめつつお礼の一言を呟いた幼馴染みにギョッとした。

 仄香は仄香で、自分のメンタルが大分弱っていることを、一応は自覚していたようである。

「……どーした、仄香。弁当が悪くなってたか?」

「素直にお礼を言ってるんだから、あんたも素直に受け取りなさいよ!」

「悪かったよ。でも、仄香はそのくらいの元気が良い」

「……バカ」

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