第五章 悪徳の栄え 2

 時刻は夜の七時前。西の空はわずかに白みがかった茜色が残っているが、街灯の光が無ければ周囲は暗がりに包まれているだろう。

 ニュースによれば、事件が発覚したのは早朝で、犯行は恐らく夜間とのことである。夜間と言っても、夕暮れから黎明まで、その時間帯は長い。つまり、犯行時間は最大で二十四時間前ということになる。

「でも、昼間、学校にいる間にはこんな事件のこと、全然気づかなかったわね」

「結構猟奇的な事件だからね。発見者だっていう女子は、先生たちに口止めされてたんでしょ。授業も答案の返却だけだから午前中で半ドンだったし、マスコミが来たのも午後とか夕方だったのかもしれないな」

「明日は多分、学校が大騒ぎね」

 今日が答案の返却日だったので、一学期の残りは明日の終業式だけである。その後は学生最大のお楽しみである夏休みに突入する。

「いや、明日どころか、今頃SNSとかでお祭りになってるでしょ」

「ああなるほど、確かにね。さて、残っているのかどうか、微妙なところだわ……」

「現場の匂い?」

「ええ。さっそく警察犬ごっこをする羽目になるとは思わなかった」

 自転車を裏門の脇に停めた郁は、閉ざされた裏門のノブに手を掛けた。試しにひねってみたが、最終下校時刻はとうに過ぎているので、当然ながら鍵がかかっている。

 どうやって中に入ろうかと、顎に手を当てて郁は思案した。

「忘れ物を取りに来たとか言って……、仄香? わ、ちょっと!」

 周囲を見渡し、人気が無いことを確認した仄香は、自分の自転車の荷台に足をかけると、躊躇なく壁を乗り越え始めた。短めのスカートを履いているのも気にせず、軽い身のこなしで塀の向こうへ消える。

 幼馴染みの突発的な行動に唖然とした郁であったが、同じように周囲を見渡してから、自身も塀を乗り越えた。

「仄香!」

 郁の声には答えず、振り返った幼馴染みは、人差し指を唇に当てた。静かにしろということらしい。そして、ポケットから携帯電話を取り出し、電源をオフにする。

「ほら、郁も電源を切って」

「いやいや、マナーモードでいいでしょ?」

「バカね、緊急地震速報とかJアラートだと音が鳴っちゃうじゃない」

「そんなの滅多に来ないよ……」

 そう言いつつ、郁は仄香の言う通りにスマートフォンの電源をオフにした。

「さて、ウサギ小屋はどっちかなっと?」

 紫村井学園は意外と広い。五十年ほど前の高度経済成長期に、住宅地と小高い山の間に有った林を切り開いて紫村井学園は造られた。今の少子化世代からすると想像も出来ないであろうが、当時は生徒数もかなり多く、日本中でいくつもの学校が新設されていた時期だ。紫村井学園もその一つで、将来の余裕を見込んで設計された為、校庭は広く、教室の数も多い。さらに剣道場や柔道場、文化部が使用する部室棟や茶室まである。

 生物部が使用している飼育小屋は、校舎から見て校庭の反対側にある。いわゆる学校の裏手で、造成から残った林はそのまま山に繋がっている為、学園の敷地がどこまでなのかは判然としない。ときどき、林に住むタヌキが校舎に迷い込んでくることもある。

「確かこっちね」

 迷いのない足取りで進む仄香に、郁は大人しく着いて行った。

 その時、進む先から生暖かい風が吹いてきた。昼の暑さと湿気が残る、あまり気持ちの良くない風である。

「……っ!」

「仄香?」

「血生臭い……」

 二人の進む先には花壇があり、その先にウサギ小屋が見えてきた。ウサギ小屋の正面には水草の生い茂る池があり、水が循環ポンプから絶え間なく池に流れ込んでいる。

 濃い空気とでもいうのか、辺りには夏特有の、水や植物が発するしっとりとした匂いが漂っていた。それは、水辺に草木の生い茂る夏の香り。だが、仄香の言う血の匂いは郁には感じられない。

 問題のウサギ小屋の入り口には、工事現場にあるような赤いロードコーンがあり、黄色と黒のいわゆるトラ棒が横たわっていた。一目で進入禁止と分かるようになっている。

 黄色と黒の縞々棒を前に一瞬躊躇した仄香であるが、意を決したように唾を飲み込むと、トラ棒を跨いで小屋に入っていった。

「む……っ」

 ウサギ小屋の内部は、元からあった獣臭さに加え、仄香でなくても感じられるような血の匂いが漂っていた。さすがに、死骸は全て片付けられていたが、ここが小動物の血の海であったことは間違いない。

 と、慎重に香りを嗅いでいた仄香の視界が、一瞬黒くなった。その感覚は、仄香にしか分からない。夕闇の薄暗さとは全く違う、視覚に紛れ込んだ嗅覚。それは、感覚の錯誤。いわゆる共感覚と呼ばれる現象である。

「あ……った……。けど……」

 仄香の頭の中心に、こびりつくような不快感が溜まってきた。

 血の匂いというのは、普段の生活で嗅ぐことはほとんどない。日常的に血に触れているのは、医療関係者か、畜産業者くらいであろう。野生生物にとって血の匂いというのは、獲物のものか、同族への危険信号である。海中で血を流せばサメが寄ってくるし、テリトリーの中で血を流せば、同族へ外敵が来たことを知らせられる。防災のため都市ガスにわざと不快な臭いが含まれているのと同様に、血の匂いを嗅いだものは、生物的な本能として不快感に襲われるのだ。

 さらに、鋭敏な嗅覚は、目の細かい網に例えられる。その場に存在する香りの微粒子を、仄香の鼻は全て捉えてしまうのだ。そしてその網には、匂いが溜まる一方なのである。嗅覚は脳とほぼ直結している為、例え芳醇な香りであっても、繰り返し嗅いでいては鼻がおかしくなってしまう。早急にリフレッシュしなければならない。

 揺れる身体を引きずるように、仄香はウサギ小屋から出ようとした。入り口を塞いでいるトラ棒を跨ごうと、片手をロードコーンにかける。

「あ、あれ?」

「おっとぉ」

 ロードコーンの頂点に片手を突いたつもりが、仄香は目測を誤ってよろけてしまった。

 反射的に、郁が少女の身体を支える。

「あ、ありがと……」

 倒れそうになった仄香の手を取った郁は、幼馴染みの腕を無造作に自分の肩に回して少女の身体を背負った。

 ふらつく身体を、あっと言う間に郁に預ける形になって仄香は驚いた。郁は自分よりも小柄なのに、幼馴染みの背中は意外とがっしりしている。安心しきってしまった仄香は、自分の胸が不意に高鳴ってしまうのを感じた。

「だ、ダイジョブ、ダイジョブ……、自分で歩けるわ」

「そう?」

 自分の心臓の鼓動が、背中を通じて郁に感じられてしまうかと思い、仄香は慌てて幼馴染みの背中から離れた。照れ隠しのように速歩きで郁の前に出る。

 裏門の通用扉はオートロックになっている為、内側からは簡単に出ることが出来る。もう一度塀を乗り越えるようなことはせず、二人は普通に裏門を抜けた。二人の背後で、自動的にロックがかかる音がする。

(んん? あれ? あれれ?)

 仄香は、自分の鼓動が激しくなっているだけではなく、顔も熱くなってきているのに気が付いた。ここまで一緒に来てくれた幼馴染みの顔を、まともに見ることが出来ない。

 考え事をする振りをして、仄香はさっさと自転車に跨ろうとした。

「で?」

「ひゃい! なな何?」

「何、じゃないよ。何のために夜の学校に忍び込んだの」

「あ? ああ、ああ、そうだったわね」

 上げた片足を戻して、仄香は郁と並んで自転車を押し始める。

「どうしたの? なんか様子が変だよ、仄香。手掛かりを見つけたんじゃないの?」

「何でもない!」

「で?」

 郁は訝しんだ様子も見せず、最初と同じ口調で仄香に訊ねた。

「ええと、……黒よ」

「そっか。やっぱり当たりか」

 仄香は郁に見えないように、大きく深呼吸してから幼馴染みに向き直った。心臓はまだ強く脈打っているが、平静を装うことは出来る。

「そうね。これで分かっているだけでも、カンニングで『戒めの八:汝、盗むなかれ』、ウサギ殺しで『戒めの六:汝、殺すなかれ』をクリアしたことになるわね」

「残りの、『羨むな』、『ウソをつくな』ってのは簡単だしなぁ。犯人は分からないけど、儀式の準備は順調に進んでるみたいだね。『姦淫』は……、そいつ次第だけど」

「どういうこと?」

「犯人が男だったら、そこで止まっちゃうかも」

「???」

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