第五章 悪徳の栄え 3
『姦淫』とは、道徳に背いた性行為の事である。宗教によって細部は異なるが、現代の言葉に当てはめれば『不倫』か『寝取り』といったところであろうか。
悪魔召喚の真偽は保留するとしても、『十戒』自体が持つ魔法のような力はどうやら本物らしい。ウソをつけば相手は容易くそれを信じるし、羨望の言葉を口にするだけで相手は易々とそれ差し出してくる。
つまり、『十戒』の力を使えば、他人の女を簡単に寝取ることが出来るのかもしれない。
「普通の男子なら、女とセックスするのに躊躇うことは無いと思う。『十戒』の助けで簡単に他人の女を寝取ることが出来るんだから、こんなに美味しい力は無いんじゃないかな。いっそのこと、『戒めの七』に溺れて、何もしないでいてくれた方がありがたいくらいだね」
幼馴染みの口からポンポンと出てくる『セックス』だの『寝取る』だのといったという単語に、仄香は思わずたじろいだ。確かに、『十戒』に記されている悪徳は、普段の生活では忌避されるものばかりだ。だからこその戒めなのであろうが、『十戒』を追う以上、避けては通れない話題である。
しかし、一緒に『十戒』を追ってくれている仄香の幼馴染みは、そんな少女の恥じらいなど気にする様子もなく、淫らな単語を淡々と使ってくる。
「えと……、犯人が、その……、女の人と……アレを、したことがないようなヤツ……だったら?」
「女の子と話した事も無いキモオタだったりしたら、多分、そこでストップするね。いくら『十戒』の力があっても、相手の娘に気後れしてしまうんなら、そこまでだよ。先へ進むなんて出来やしない。不思議な力を手に入れたキモオタが、女の子を自由にするなんて、マンガの中だけの話だよ」
「……そんなものなの?」
「そんなものだよ。どっちにしろ、犯人が男だったら『戒めの七』で止まることが期待できる。経験豊富なイケメンのモテ男で無い事を祈ろう」
「女だったら?」
「えー、それをボクに聞くのかい? 仄香の方が分かるんじゃないの?」
「それは……」
言われて、仄香は想像してみた。もし、郁に彼女がいたら……、『十戒』を使ってでも……。
「だ、ダメえっ!」
「ほほ仄香?」
いきなり叫んだ幼馴染みに、郁は思わずビクリとしてしまった。自転車を押す手に力が入り、ブレーキを強く握ってつんのめってしまう。
「あ……、ゴメン、郁。……何でもない」
――ダメ。それは絶対ダメ。同じ失敗はしないのよ……。香水の力は、使わない……。
昼の暑さが残る夕暮れの中、仄香は昔してしまった失敗を思い出して寒気を感じた。
近付きもせず、遠ざかりもしない。今の微妙な関係となってしまったほろ苦い出来事を思い返して、少女は身を震わせた。
「ホントに大丈夫かい? 悪かったよ、変な話になっちゃってゴメン」
「ああ、ううん。アタシの方こそゴメン。犯人が男か女かなんて、どうでも良いわよね」
どうでも良い訳は無いのだが、仄香は乱れてしまった自分の心を悟られないように、話題を無理やりに打ち切った。
本当に、今は『十戒』を探すことに専念しないといけないのだ。色恋なんてどうでも良い。
「おっとそうだ、スマホの電源を入れ忘れてた」
さすがに郁も話題が気まずいと思ったのか、電源を落としたままだったスマートフォンの電源を入れた。直後に、不在着信を知らせる音が鳴る。
「うわお!」
「な、何?」
「……継美さんからだ。三十五件?」
慌てて仄香も自分の携帯の電源を入れた。郁のスマートフォンと同様に、大量の不在着信の通知が表示される。と、その瞬間に仄香の携帯に着信が来た。
『やっと出た! 仄香! あなたたち、どこにいるの?!』
「ゴメンなさいいい! すぐに戻る!」
そう言って、返事も待たずに通話を切る。そして、わざわざ自転車のスタンドを立てて止め、大仰に郁の前で両手を合わせる。
「郁! お願い!」
郁はあからさまに大きくため息をついた。
仄香のワガママに付き合うのはいつものことである。
「分かったよ。テキトーな言い訳を考える」
「ありがと、郁! 大好き!」
天使が囁いたのか、変な神様が降りてきたのか、仄香はどさくさに紛れて自分の素直な気持ちを口にした。だが、帰ってきたのは胡乱な目つきとロマンスの欠片もない言葉であった。
「……もっと色っぽく言ってよ」
「ぶっ! なな何言ってんの?!」
「冗談だよ。早く帰ろう。継美さんのご飯が待ってるよ」
「………………」
「仄香?」
「……バカぁっ!」
「はいい???」
さっさと自転車に跨った仄香は、訳が分からないと言った顔の郁を残して、往きと同じ速さで走り出した。
汗を滲ませながら高砂家に戻った二人は、夕食の盛り付けられたテーブルを背にした継美にこってりと搾られた。何とか夕食にありつくことが出来たのは、郁が口八丁で言い訳を唱えたおかげである。
継美は継美で、二人が何か隠しているのは承知している様子であったが、娘の幼馴染みを信頼しているのか、あまり強くは追求してこなかった。
御飯のお代わりをして食後のコーヒーまで堪能した郁は、調べることを思いついたと言って、すぐに帰ってしまった。継美の追求から逃げ出したのは明らかである。
「バカ、郁のバカ……。何が『色っぽく言って』、よ」
なんとなく取り残された感じのした仄香は一人で自分の部屋に戻り、抱き枕を抱えながらベッドで悶々としていた。
理由は二つ。
一つはもちろん、『十戒』の件である。犯人の手がかりがほとんど無いにも関わらず、事態が少しずつ悪い方へ進んでいるのを止められない。見えないところ、知らないところで、誰かが『十戒』を使って悪事を働いている。この状況がひどくもどかしい。
「そりゃ、あたしは女子力なんてものは全然無いけどさ」
ウソ、カンニング、羨望、そしてウサギの殺害。
『十戒』に記された悪徳は、悪徳であるだけに、普段の生活では禁忌である。つまり、普通に生活している分にはあまり触れることの無い行為だ。
「でも、だからって、あんな真顔で言うこと無いじゃない」
それが、自分の身の回りで立て続けに起こっている。『十戒』の事を知らなければ、自分が何か悪いことでもしたのかと思ってしまいそうになるくらいだ。
そして、おそらくこの件はまだまだ続く。郁の予想した通り、あと一つの悪徳である『姦淫』を犯せば、悪魔召喚の為の条件が整う。あれが本物の悪魔召喚のアイテムであるかどうかは、この際関係ない。『十戒』を盗んだ犯人が、本物と信じて動いているのが問題なのだ。悪魔を呼び出す、などとは今でも信じられないが、『魔香』というものが現実に存在し、それの持つ超常的な力を目の当たりにしては、完全に否定することもできない。少なくとも、『十戒』を盗んだ犯人は、本当に悪魔を呼び出すつもりで悪徳を重ねているのだろう。
「あたしの取り柄っていえば調香だけなんだけど、そんなの郁にも分かりきってることだしなぁ……」
単純な正義感と調香師(パフューマー)としての矜持から、これまでの犯人の行いは許せない。そして、祖母の遺品を管理するという責任感から、犯人の目的は何であれ、それは絶対に阻止したい。
同時に、『十戒』の正体を完全に暴き、祖母の居た高みへと一歩進む。仄香は白い天井を眺めながら、改めて自分の心に誓った。
そして、悶々としていた理由の二つ目。
実のところ、今の仄香の心を占めているのは、この二つ目の方であった。
「ああっ! もうっ!」
行き場の無い憤りを込めて、仄香は抱き枕を壁に投げつけた。鈍い音を響かせて哀れな抱き枕がベッドの上に落ちる。
ノロノロとした動きで再び抱き枕を抱え込んだ仄香は、そのままもう一度ベッドに横たわった。
「ドサクサまぎれってのが良くなかったの……かな……? 良くなかった……んだよねぇ。はぁ……」
幼馴染みに向かって「好き」と言ったのは久しぶりである。
それが男女の恋愛的な意味で言ったのであることは、言った方も、そして言われた方も承知している。だが、三年前のあの時から、二人の距離は変わっていない。そして、たった一言で変わる関係でもないのである。
「目の前にいるし、話もできる。手は届くんだけど……、遠いなぁ……。積極的な瑞希が羨ましい……」
クラスメイトの瑞希は、仄香とは親友と言っていい間柄だ。どんなことでもお互い気兼ねなく話が出来るし、悩み事の相談もする。瑞希の恋愛相談などもその一つだ。
仄香が他人から香りの相談を受けることは珍しくないが、仄香自身で調えた香水を渡すことは滅多にない。だから、瑞希の恋愛成就のために調香したのは特別な事と言える。瑞希自身が仄香の香水を求めた訳ではないが、なんとか意中の人を振り向かせたいという彼女の強い思いに仄香は応えたのだ。
その強い思いが、仄香には羨ましい。
「……あ、これって『十戒』……だ」
犯人が何を求めているかは知る由もないが、犯人の行動が強い思いの結果であることは何となく分かった。さすがに『窃盗』や『姦淫』、『殺害』は誰に聞いても完全無欠の悪徳であろうが、『偽証』や『羨望』は日常生活でもありうるものである。『羨望』などは、それをプラスのモチベーションに変える者もいるだろう。
だからと言って、犯人を許せるものではないが。
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