第五章 悪徳の栄え 4
「郁はあたしのこと、ホントはどう思ってるんだろ……?」
三年前のあの時から、自分たちの距離感は変わっていない。遠くなることはなかったが、近付くこともなかったのだ。まるで、二人の間に見えない何かがあるみたいに。
仄香はベッドから起き上がると、テーブルの上に置いてあった真紅のポーチを手に取った。そして、一番深いところから年季の入ったアトマイザーを取り出す。
それは、元は可愛らしいピンク色のアトマイザーであったのだろう。だが、ノズル部分のメッキは擦り切れて地の色が見えており、容器部分のプラスチックは傷だらけで中の液体が曇って見える。
香水は空気に触れると劣化が早いので、容器には密閉性が求められる。実際、仄香が普段使っている他のアトマイザーは、定期的に新しいものと交換していた。
しかしこれは、このアトマイザーだけは、三年前のあの日から使い続けている。いや、正確には、ポーチの中に収められているだけで、実際には使っていない。これは、仄香にとって特別な香水であった。
さすがに、中身も数年前と同じというわけではない。中身だけは常に新しいものに入れ替えている。だが、これを使ったことは、たったの一回しかないのだ。
仄香はアトマイザーのキャップを外し、手首に香水を吹きかけるポーズを取った。そして、そのままの姿で固まってしまう。
アトマイザーを構える仄香の表情は、ひどく硬かった。もし誰かが今の彼女を見れば、慌てて取り押さえようとしたに違いない。なぜなら仄香は、まるで手首にカミソリを当てているような体勢と表情をしていたからだ。
どのくらい、そのままでいただろうか。力を抜き、大きく深呼吸した仄香は、キャップを閉めてアトマイザーを再びポーチに戻した。そして、脱力したようにベッドに倒れ込む。
「すぅ……、はあ…………」
仰向けの楽な体勢で、仄香は再び大きく息を吸い込み、深々と息を吐き出した。なんだか、ひどく疲れたような気がする。
問題は解決の糸口すら見えず、悩みは増えるばかりである。
悩ましいのは確かだが、自分と郁の関係はこの際おいておこう。これまで変わらなかった関係が、『十戒』というきっかけがあったとはいえ、いきなり変わるとも思えないからだ。
やはり、最優先なのは『十戒』の行方であろう。
だが、さっき郁が言った通り、手がかりはほとんどない。かろうじて分かっているのは、犯人が学校にいるということくらいであるが、紫村井学園高等学校は生徒数が千人近い。また、犯人は生徒ではない可能性も残っているから、学校に出入りする関係者を含めると、とてもではないがその中から犯人を見つけ出すのは不可能だ。さらに言えば、犯人は一人とは限らない。条件が漠然としすぎていて、よほどの名探偵であっても現状では犯人を特定することはできないだろう。
「でも、郁なら、何とかしてくれそうなんだけどな……」
困ったときには助けてくれる。そして何とかしてくれる。幼馴染みで想い人である郁を、仄香は誰よりも信頼している。
「眠い……。ああ、ダメだ。お風呂に入らないと……」
ウトウトし始めたその時、仄香の気が緩んだ瞬間を狙ったかのように、携帯電話の着信音が鳴りだした。
「うきゃっ!」
跳ね上がる心臓。
一瞬、何の音か分からなかった仄香はベッドから飛び起きた。そして、テーブルに置いた携帯電話を手に取る。
「……曽田さんからだ」
恐らくは『十戒』の件で様子見に電話でもかけてきたのだろう。だが、進展していないどころか後退しているような気もする今は、電話に出る気になれない。
鳴り続ける型遅れの携帯電話を持ったまま、仄香は電話に出るかどうか、しばらくの間迷っていた。
*
ウサギ惨殺事件の翌日、紫村井学園は一学期の最終日を迎えていた。明日からは全校生徒待望の夏休みである。
生徒は全員、講堂に集まり、ありがたくも退屈な校長先生の話を聞きながら、ある者はこれから訪れる長い休みのことについて、またある者は一学期の成績が記録された通信簿について思いを馳せていた。
そして終業式の最後に、生活指導の教師から昨日起こったウサギ小屋での出来事が語られた。ニュースやSNSで話を知っていたものもかなり多かったためか、多少のざわつきはあったものの、騒然とした雰囲気にはならなかった。
犯人が捕まっていないこともあり、夜間の外出に注意すること。そして事件について知っている者がいる場合は、教師などに申し出ることなどを伝えて式は終了した。
式の終了後、教室では一学期最後のホームルームが行われた。通信簿を受け取り、担任による夏休みの注意事項などが頭の右から左へ抜けていくと、解放された生徒たちは晴れて夏休みへと突入した。一部には補習などで解放されない生徒もいるが、仄香はギリギリで赤点を回避出来たので、その心配は無い。試験前に、郁は仄香と短期集中で勉強の時間を取ったのだが、その甲斐があったようである。
「ねえ、仄香とは付き合わないの?」
「また、その話?」
ホームルームが終わった後、何か別の用事があるのか、仄香は「ゴメン、先に帰るね」と一言残してさっさと教室からいなくなってしまった。仄香の突発的な行動には慣れている郁は、特に何も聞かずに彼女を見送った。ただ、ほんのりとした違和感を覚えたものの、その正体は分からなかった。
「だって、気になるもの」
「前にも言ったよね。ボクは今の距離感がちょうどいいと思ってるんだ」
今の仄香の頭には『十戒』の事しかないはずである。『十戒』がらみの事であるのなら郁に相談をするはずだから、多分、プライベートな用事なのだろう。
少し遅れて郁も帰ろうとしたところで、クラスメイトの香山瑞希が話しかけてきたのだ。
「アンタたち二人を見てるともどかしいのよ。イライラするわ。誰もアンタたちの間に入れないのに、二人の距離は空いてるの。くっつけばいいのに、それ以上近付かない。変よ、これって」
「そんなことを言われてもなあ……」
「怖いの?」
「え?」
「今の距離感が気に入ってるって言ったわよね。それって離れないってことだけど、近付かないってことでもある。何かアクションを起こして、距離が離れてしまうのが怖いの?」
郁はクラスメイトの瞳を正面から見た。普段の無駄話をしている時には見られない、真剣な光が瑞希の瞳に宿っている。いつも教室で仄香とふざけ合っているときとはまるで違う、誤魔化しや逃避を許さない、どこまでも真摯な瞳だ。だが、郁はその光に耐えられずに目を逸らしてしまう。
「ホントに、香山さんはキツイね……。その通り、怖いんだ。昔、仄香の好意を拒絶した時、しばらく仄香は口をきいてくれなかった」
「拒絶した……? 長谷川君が? 仄香を?」
「自分が完全に正しいと思えるなら楽なんだろうけど、今も昔も、自分が仄香にしたことが正しかったかどうか分からない。でも、昔の自分には仄香を受け入れられなかったんだ」
「一体……、何をしたのよ……?」
郁は瑞希の瞳を再び正面から見据えた。快活なクラスメイトの瞳には、下世話な好奇心などではなく、純粋に友人たちを心配する思いが浮かんで見える。
「……そうだね。誰かに聞いてもらうのもいいかもしれない」
郁は、知識が豊富である。
そして、豊富な知識を使いこなす知性も持っている。
だが、郁の頭の中には、人と人との関わり合いを指南する知識が欠けていた。
世の中には、対人スキルを磨くための書物が数多く存在するし、書店のビジネス本のコーナーには、それだけで一ジャンルを築くほど豊富な種類の本が並んでいる。
だが結局のところ、これらの書物が示すのは、経験に勝るものは無い、という大昔の偉人が喝破した通りのありふれた結論であった。
そして郁には、その経験がない。十代半ばの少年としては大人びて見える部分もあったが、人と人の、ましてや男女の付き合いは頭で考えて分かるものではない。
以前、瑞希に考えすぎと言われたが、郁自身もそう思う。だから、この機会に聞いてもらうことにした。
「仄香のおばあさん、薫子さんっていうんだけど……」
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