第六章 二人の距離 1
およそ三年前。
仄香と郁が中学二年生のころの話である。
幼い頃から家同士の付き合いがあったおかげで、二人は昔から家族のような関係であった。いつも一緒にいるのが当たり前。自分が何かをするときには、常に郁が半歩下がった後ろにいる。しかし、何かあったときには半歩前に出て仄香をかばってくれる。二人はそういう関係であった。
もっとも、大抵は仄香のワンパクに郁が後始末をしている、ということが多かったのだが。
ある日、仄香は祖父と共に祖母の薫子を交通事故で失った。ほとんどの事故がそうであるように、それは仄香にとって突然の出来事であった。
仄香にとって薫子の存在の消失は、そのまま生きる意味の消失を意味していた。
香りを愛で、香りを調え、香りを新たに創り出す。幼い仄香にとって、芳しい香りに囲まれた素晴らしい日々は、すべて祖母から与えられたものであったのだ。そしていつかは、自分も祖母のように、誰もが陶然とするような香りを創りたいと思っていた。仄香にとって心地良い香りに満ちた生活は、そのまま生きる目標なのであった。
それが、突然失われた。
学校が終わり、家に帰ってくると、すぐにカバンを放り出して調香工房へと向かう。心躍る香りに誘われて扉を開けると、そこには優しい祖母の笑顔が待っている。
――それが、今はもう無い。
切なくて、寂しくて、仄香は胸が壊れそうな思いがした。誰もいない工房には虚無が満ちているようであった。いないと分かっているのに、ふと気が付くと、祖母の影を探してしまう。扉を開けるときには、もしかしてという気持ちを捨てきれない。
そんな時、いつもと変わらない様子で半歩後ろにいてくれたのが郁である。倒れそうな背中を支え、崩れ落ちそうな身体に力を貸してくれる、頼りになる幼馴染みの男の子。
そして、郁がいなければ、祖母の思い出が詰まったかけがえのない工房も、きっと失われていたに違いない。
*
『工房を潰せ、ですって?』
『仕方ないだろう。親父たちの資産の半分は、お前たちが今住んでいる家とあの工房だったんだからな』
祖父母の葬儀が終わって一週間後、手続きやら何やらが落ち着いたころ、仄香の伯父が高砂家を訪れた。
伯父を応接間に通し、二人分のお茶をテーブルに乗せた仄香は、隣のリビングで聞き耳を立てていた。だが、聞こえてきた母親の怒声は、ドアに耳を当てる必要も無いくらいにハッキリと聞こえてきた。
薫子は夫と共に交通事故で亡くなったのだが、夫妻には継美を含めて三人の子供がいた。この三人が、法定相続人ということになる。継美は三人兄妹の真ん中で、残りは兄と妹という構成である。仄香にとってこの二人は伯父と叔母にあたる。
仄香の両親は、祖父と薫子の面倒を最期まで見るという名目で祖父母の家に同居していた。そして死後は、長女の継美がそのまま土地と建物を遺産として受け取る、という口約束を交わしていたのである。正式な遺言は無いものの、特に反対する者もいなかったので、そのままで話は進んでいくと誰もが思っていた。たまに高砂家に顔を出す妹の幸恵は、姉に両親を任せていた手前、特に異論はなく受け入れており、そして伯父の方は、滅多に高砂家に寄り付く事も無い疎遠な間柄であった為、相続問題など誰もが起きないと思っていた。
だが、応接間に通された仄香の伯父は開口一番、祖父母の意思を完全に無視することを話し始めたのだ。
『ふざけないで! お父さんとお母さんの面倒を最期までみるから、土地と建物は私が貰うって約束だったじゃない!』
『ああ、確かに言ったな。だが、こんなに早いとは思わなかったし、バランスが悪すぎる』
『バ、バランス……、バランスですって?』
『知り合いの不動産屋と経理士に聞いたんだが、土地と建物の評価額は、親父たちの遺産のだいたい半分くらいだそうだ。本来は俺たち三人で均等に割るものを、口約束とはいえ半分を継美が持っていくのは納得がいかない。幸い、遺言書も無いしな』
『幸い……、親が死んで幸いだなんて、何て言い草よっ! どの口が平等なんて言うの! 父さん母さんの事を私に丸投げして! 結婚控えた幸恵はともかく、兄さんなんて長男の癖にこの家に寄り付きもしなかったじゃない! 正月やお盆の度に、二人がどれだけアンタを待ってたと思うの!』
『仕方ないだろう、仕事が忙しかったんだからな!』
しばらくの間、ドアの向こうには息苦しい沈黙だけが満ちていた。
隣のリビングで応接間の話を聞いていた仄香も、誰も出てくる様子の無い扉を見つめて、身動きすることが出来ない。
『……』
『……』
『とにかくだ。お前がこの家と土地の権利を主張するなら、俺にも考えがある』
『何よ』
『裁判ってことだ』
『ふ……、ふざけないで!』
『ふざけちゃいない。大真面目だ。だが、それだと時間も金もかかる。俺も妹相手にそんなことはしたくない。だから、折衷案を持ってきたんだ』
『それが、工房を潰せ?』
『そうだ。工房だけじゃない。この家も潰してマンションにするんだ。マンション経営の権利を含めて均等に割れば、俺たち兄妹が争うことも無い。めでたしめでたしだ。それにあんな建物、臭くて近所迷惑だろう』
伯父の無遠慮で不躾な言葉を聞いたその瞬間、仄香は絶叫を上げそうになった。
(臭い……、臭いですってえっ!)
仄香は、今すぐ応接間に飛び込んで、あの醜い肉の塊を叩きのめしたい衝動にかられた。ベラベラと汚染物質を垂れ流す口を殴りつけて黙らせたい。ブヨブヨと醜く、中身が真っ黒な腹に蹴りを入れたい。
それは、台所に現れる黒い害虫に対するモノに似て、それでいて明らかに異なる真っ黒い感情。
(……なんでっ! なんであんなヤツがあああっ! おばあさまっ!)
それは、殺意であった。
自分勝手な欲望を垂れ流す醜い豚を、この手で無残に屠殺したい。祖母の全てを臭いの一言で斬り捨てる人非人を、この世から完全に消し去りたい。祖母の思い出が詰まったかけがえのない調香工房を壊そうとするハイエナを、肉片も遺さず叩き潰したい。
苦しい。気持ち悪い。吐き気を催すのに息苦しい。伯父の顔を想像しただけで、腹の底から不快感がせりあがってくる。だが、何も吐き出すことが出来ない。それでいて、大きく息を吸い込もうとしても、肺が満足に空気を取り込めない。
不快で、不愉快で、苦しくて、辛い。
目の前が暗くなり、頭がガンガンする。
ドアの向こうからは母と伯父の声が聞こえてきているが、仄香には内容が分からない。耳には入ってきているのだが、頭の中で乱反射して意味のある言葉としてとらえることが出来ないのだ。
「あ……か……は……」
仄香は苦しい胸をかきむしるようにして、応接間から逃げ出した。伯父の言葉が瘴気となって漏れ出す不快な場所に、これ以上居続けることが出来なかった。
「……そのマンションを造るのは、兄さんの息のかかった不動産屋ってワケね。いったい、どれくらいのリベートが返ってくるってのよ! 平等が聞いてあきれるわ!」
「否定はしない」
「……! 否定しなさいよ! この人でなし!」
「何とでも言え。親父たちが死んだ今、家長は俺だ。それに、何もお前から全てを奪うなんて話じゃない。均等に分けろと言っているだけだ。他人から見れば、お前の方が強欲の守銭奴に見えるかもしれんぞ」
「な……っ!」
「恨むんなら、ちゃんと遺書を残していなかった親父たちを恨むんだな」
そう言って、仄香の伯父は出されたお茶を一気に飲み干すと、高砂家の応接間を後にした。
継美は兄を見送りもせず、しばらくの間、空になった兄の湯飲みを見つめていた。手は固く握りしめられ、小刻みに震えている。何かをこらえているようであったが、やおら立ち上がると湯飲みを手に取り、応接間のドアへ力一杯投げつけた。
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