第六章 二人の距離 2
「はーっ、はーっ、はー……っ」
二階の自分の部屋へ駆け込むように戻った仄香は、ベッドで仰向けになって大きく深呼吸をしていた。意識して大きく息を吸い、しばらく止め、そして大きく吐き出す。吐いて、吐いて、身体に溜まった毒を絞り出すように、肺にある空気を限界まで吐き出す。そして再び大きく息を吸い込む。
何度かそれを繰り返して、仄香はようやく落ち着きを取り戻した。
頭はまだ、こめかみの辺りがズキズキするが、耐えられないほどではない。
玄関ドアの開け閉めする音と、伯父の車が遠ざかっていく音で、仄香は伯父が高砂家を後にしたことが分かった。あれから話はどうなったのだろうか。母に話を聞かなくてはならない。それに、喉も渇いた。
階下に降りようとして身体を起こした瞬間、仄香の耳に何かが割れる音が聞こえた。
「お母さんっ?」
さっきの毒々しい会話のこともある。嫌な予感がして、仄香は階段を転びそうになりながら駆け下り、応接間に飛び込んだ。
「お母さんっ! 何の音っ?!」
「入っちゃダメ!」
「えええっ?」
勢いよく応接間に入ろうとした仄香であったが、母の強い声でドアノブを握り、かろうじて足を止める。ドアノブだけで身体を支えるようになり、しがみつくように仄香は身体を廊下へ戻した。
「ど、どうしたの、お母さん」
「ちょっとね、湯飲みを落としちゃって」
確かに、応接間に入ろうとした仄香の足元で、客用の湯飲みがバラバラに割れていた。さっきの勢いで応接間に足を踏み入れていたら、足の裏をザックリと切っていただろう。
それを踏んでしまったときのことを想像して、仄香は身体を震わせた。
「落として、割っちゃったの?」
「そうよ?」
応接間には絨毯が敷かれており、落としたくらいでは湯飲みが割れることは無い。
応接間のドア付近に散らばった湯飲みの破片を拾う母を手伝いながら、仄香は母の心中を察した。
「お母さん、おばあさまの工房とこの家、無くなっちゃうの?」
「……! 大丈夫よ、そんなことは、させない……」
だが、年端のいかない少女の目から見ても、母の言葉はとても弱々しく見えた。
*
「どうしよう、郁! この工房が無くなっちゃう!」
「落ち着いてよ、仄香」
伯父が高砂家に相続争いという爆弾を投下していった日の夜、仄香は郁を工房に呼び出した。
「あんたはどうしてそんな冷静なのよ! 薄情者! 恩知らず!」
「そんなことを言われるなんて心外だな。ボクだって工房を取り壊されるのなんてイヤだよ」
「だったら何とかしてよ!」
「………………はぁ。これまで仄香の無茶振りを何度も食らってきたけど、これはとびっきりだな」
「でも、何とかしてくれるんでしょ?」
不安気な、それでいて期待のこもった目で郁を見つめる仄香。
「そんなの改めて言われるまでもないよ。だから心外だって言ったの」
「じゃあ!」
「まあさすがに、任せろ! なんて自信を持って言えないけど、努力はするよ」
「うん! ありがと、郁! 大好き!」
仄香にとって、郁の『任せろ』は成功と同義である。だが、今回はさすがに、まだ幼さの残る少年には荷が勝ち過ぎるだろう。それでも、仄香は幼馴染みに多大な信頼を寄せていた。
「お礼にはまだ早いよ。それに、多分、大変なのは仄香の方だよ。ボクに出来るのは仄香の手助けだけだ」
「アタシの?」
「そう。この工房は、とっても価値があるものなんだろう?」
「当たり前でしょ。郁も知ってるじゃない」
「でもって、その価値を伯父さんや親戚なんかに話して納得してもらわなくちゃならない」
「うん」
「でも、あんまり価値があることを強調すると、今度は香料を売れ、なんて話になりかねない」
「そ、それは……」
「確か、国宝級の香木とかもあるんだよね。知る人ぞ知るってモノみたいだけど」
「う……、うん……」
この工房に収められた香料の資産価値は計り知れない。だが、知らない人間にとっては、匂いのついたタダの水や古木である。相続の対象ではあるものの、そんなものに金銭的価値を見出すのは難しい。そして、法的にも『家財道具一式』として扱われるので、金銭的な相続税の対象にはならない。むしろ、価値が無いとされた方が、相続的には有利に働くのだ。
「下手をすると、土地や建物より、中身の方に価値があるってことになる。まあ、実際にそうなんだろうけど、それを向こうに知られるとさらに話がややこしくなる。だから、工房は中身を含めて薫子さんの趣味の道具一式って建前で話を進めなくちゃならない」
「ど、どーするのよ……」
郁を信頼するのは仄香にとって当たり前であるが、それでも、この事態をどうにかするのは難しいように思えてきた。齢十四の少年少女だけでは、本当は初めから無理筋の話なのだ。しかし、郁が協力すると言ってくれて、仄香はそれだけで上手くいくように思ってしまった。そして、郁の言い方では自分の役割の方が大変なもののようである。冷静に考えれば当たり前の話なのだが、やはり大人未満の少女ではそういったことには頭が回らない。一言で言ってしまえば、世間知らず、ということである。
その点、郁は雑学が趣味と言ってもいいくらいに年齢不相応な知識が多い。そして、知りたいと思ったことは、大人顔負けの情熱で知識を吸収している為、仄香の目から見て、幼馴染みの少年には知らないことなど無いのではないかと思えてしまう。
「とりあえずは正攻法だね。仄香の伯父さんは、高砂の家についてあんまり関わってこなかったんだろう?」
「うん……。最後にアタシが会ったのは……? いつだっけ?」
思い出すのにしばらくかかったのは、頭が拒否反応を起こしているからではない。簡単には思い出せないくらい、伯父は高砂家に寄り付かなかったのだ。
「ええと、確か小学校の三年か四年の頃だったと思う。お正月に来たのにお年玉をくれなくてがっかりした覚えがあるわ」
「まあ、とにかく何年も前の話だってことだ。お爺さんも薫子さんも全然介護が必要な人たちじゃなかったけど、世間的に見ればいい歳だからね。薫子さんたちの世話を頑張ってたって、親戚連中に涙ながらに話したらいいよ」
「えー、泣き落とし……?」
いかにもイヤそうな顔で仄香はこぼした。確かに、仄香の性格から考えれば、情に訴えるのは苦手だろう。
「やるんだ」
だが郁は、普段見せたことの無い強い口調で仄香に言った。
「郁……?」
「これは仄香にしか出来ないことだよ。さっきも言ったように、僕に出来るのは手助けだけだ。でも、その手助けは全力でする。ボクにしか出来ないこともある。だから、仄香は仄香にしか出来ないことを全力でやるんだ。大丈夫、説得に必要な材料はボクが揃えるよ。仄香は自信満々な振りで親戚連中を説得して回るといい。味方をいっぱい作るんだ」
それは仄香が初めて見た、郁の強い意志を秘めた表情であった。
いつでも何も文句を言わずに付き合ってくれた郁。常に仄香の味方をしてくれた幼馴染み。人とぶつかりがちな仄香と周囲の間に立って、クッションになってくれた頼れる男の子。
仄香は、そんな郁が大好きである。
その郁が、大丈夫と言ってくれている。手助けしてくれると言っている。
「そんなの……、ホントにアタシに出来るの?」
「そこで、仄香の香水の出番だよ。薫子さんに聞いたことがあるんだけど、話し合いの時に良い香りを漂わせてると、交渉とかがスムーズにいくんでしょ?」
「うん、まあ……、そうね」
「仄香なら出来るよ。薫子さんの創った香りは、みんなを楽しませてくれる。そして仄香は、それを一番上手く使えるんだ」
今はまだ先が見えない。だが仄香は、郁と一緒に全力で工房を守ろうと決めた。
全力で守る。
そうすれば、きっと……。
それからしばらくの間、仄香と郁は親戚巡りをした。
祖母の遺した工房がとても大切なものであること。金銭的な価値を誤魔化しつつ、貴重なものも多いこと。薫子の業績と、それを継ぐことが出来るのは仄香だけであること。
それに加えて、伯父の悪評もあったのであろう。周囲との話し合いは、拍子抜けするほどスムーズに進んでいった。
もちろん、なんの障害も無かったわけではない。始めは自分たちに直接関係の無い相続話など、無関心でいたような親戚も多かったのだ。だが、何度か訪れるたびに態度が軟化していくのが、仄香たちにも実感として分かった。それは薫子直伝の香水を身に纏っていたおかげでもあったのだろう。話始めと終わりで態度がガラリと変わった事も、一再ならずあったのだ。
仄香と郁の親戚巡りは、このまま順調にいくと思われた。
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