第六章 二人の距離 3
「あ・ん・の……クソジジイーーーーっ! ここまででやったのに……! 後は! アイツだけなのに……! わあああああああああああ! ああっ! わあああああっ!」
溢れる無力感で、仄香の心は爆発寸前であった。大声で泣きわめているのは、伯父に対する黒い感情で心が弾けてしまうのをなんとか押しとどめる為である。思うままに感情を吐き出していないと、心が壊れてしまいそうになる。
昼間、郁が一緒にいるときなら、それを堪える事が出来る。弾けそうな心を、幼馴染みの手が押さえてくれる。近くにいるだけで、そして、いつもと同じ「大丈夫だよ」と言ってくれるだけで、仄香の心は平静を保つ事ができる。
だが、人気の無い深夜の工房で叫ぶ仄香の隣には、頼りになる幼馴染みはいない。いくら仲が良くても、四六時中一緒にいるわけでは無いのだ。
腹の底から叫びながら、何もかもを壊しそうになる気持ちを辛うじて堪え、少女はオルガンのデスクを力いっぱい叩いた。その反動で、オルガンの上に出しっ放しになっていた小瓶やピペットが、不安げにデスクを踊りまわってしまう。
仄香はデスクを叩いた。何度も、何度も叩いた。だが、心はまるで落ち着かない。
仄香の伯父が高砂家を来訪してから一か月が経っていた。
この一か月の間、仄香は高砂の家と工房を継ぐことを、伯父の家を除いた親戚全てに説得して回ってきた。そしてそれはほとんど受け入れられ、後は伯父夫婦を説得するのみとなったのである。
だが、しかし……。
「あんの……、守銭奴があああっ! 死ね! 死ね! 死んじゃえっ! なんで、おばあさまが死んで! あんなヤツが生きてるのっ!」
真っ黒な憎悪を込めて、仄香は拳でデスクを叩き続けた。静謐な環境を望んだ薫子の意を汲んで、調香工房は完全な防音が施されている。だが、それすら突き抜けて母屋に響いてしまいそうに派手な音が、工房の中に鳴り響いた。
と、その時、仄香の目の前に、布で装丁された本が落ちてきた。オルガンの上には書棚があるのだが、仄香がオルガンを叩いたおかげで、ずり落ちてきてしまったようだ。
「これ……、おばあさまの、黒い香りのレシピ……」
タイトルの無い、暗い色合いのバラ模様で装丁されたその本は、薫子が遺した手書きのレシピ集であった。仄香はレシピを手に取り、ほとんど無意識にページをパラパラとめくる。そこに書かれているのは、決して安易に使ってはならない、禁断の香りの調香法であった。別段、隠してあったわけではないが、普段から目にする物でもない。そして、薫子が生きていた頃は、勝手に読む事を禁じられた本である。仄香はほとんど毎日、祖母から調香の手ほどきを受けていたが、薫子は時折思い出したかのように、そのレシピを手に、香りの黒い使い方を孫に伝授していた。
その時、仄香の心に灯ったのは黒い炎であった。黒い感情を燃料に、静かに、激しく、真っ黒い炎が少女の中で噴き上がる。
「これを……、使えば……」
年端もいかない普通の少女が人に殺意を覚えるなど、尋常なことではない。しかし、お金に執着する醜い大人の本性を目の当たりにしてしまった仄香の心には、血の繋がった伯父に対する墨色をした憎悪の炎が燃え始めていた。
単に金銭的な交渉で折り合いがつかないというのであれば、これほどの怒りは湧かなかったであろう。だが、仄香の伯父は祖母の薫子がやってきた仕事をまるで理解しておらず、工房を『臭い小屋』とまで言い放ったのだ。
それに、気のせいかもしれないが、対面で話しているときの伯父の視線がとても気持ち悪く感じられた。生理的に嫌悪感を催すような視線である。
交渉の場において相手から好意的な印象を得る為に、仄香は薫子直伝の香水を身に着けていた。大抵の相手は元々好悪の情がフラットなため、芳しい香りを身に着けた仄香は、最初から好い雰囲気で話を進めることが出来た。そして、仄香が求める遺産相続の話について、ほとんどの親族は味方になってくれることになっていた。
しかし、伯父の意思は頑なで、それでいて好意とは似て非なる視線を、睨みつける姪に投げつけていたのだ。あれはいったい何だったのだろうか。
いずれにしろ、単純な遺産分割という事であれば、理は伯父の方にある。しかし、生前の薫子夫妻の意思や、実際に夫妻と同居していた事実から、周囲の親戚たちのほとんどは仄香の味方となっている。それに、普段の伯父の金銭がらみの行状もあってか、仄香が本題を切り出す前から積極的に仄香に賛意を示す者も少なくなかったのだ。
だが、やはり最後は、遺産相続者本人の意思による。
叔母の幸恵は問題なく仄香や姉の継美の味方となったが、伯父だけは、話を受け入れるつもりが完全に無かったのである。
『仄香が必要と思ったのなら、躊躇わずに使うこと……』
黒い香りを扱う時の、薫子の教えが仄香の脳裏によみがえる。
「それって、今よね、おばあさま……」
*
「仄香、今日は違う香りを着けてるんだね」
伯父の家へ向かう道すがら、これまでの交渉で身に着けていたのとは異なる香りを漂わせている仄香に、郁は問いかけた。
「ええ。おばあさまの特別製よ」
「……大丈夫なの?」
「ちょ……! どーゆー意味よ?!」
いきなりぶつけられた幼馴染みの予想外に失礼な物言いに、仄香は反射的に気色ばんだ反応を返してしまった。
仄香の破天荒な行状に対して、郁が文句を言ったりボヤいたりする事は珍しくない。何しろ、香水の事に関しては見境が無くなる仄香である。目に映るモノよりも、自分の嗅覚に従って行動するから、いつの間にか入ってはいけないところにいた事も一度や二度ではない。そして、郁がその後始末をする事も。
小学生の頃、通りがかったヒナゲシの群生地に違和感を覚えた仄香が、香りに誘われて川沿いに広がる花畑に特攻した事があった。またかという表情の郁を伴ってヒナゲシの原を突き進んだ仄香は、川堤の上に設けられた道からは見えない場所に、ケシの花畑が広がっているのを見つけてしまったのだ。
ケシ。あるいはハカマオニゲシとも呼ばれるそれは、害の無い園芸種であるヒナゲシとは異なり、アヘンの原料となる危険な植物だ。もちろん、法で栽培が禁止されている。人知れず自生している事もあるのだが、仄香の見つけた花畑には、人の手が入っている形跡があった。つまり、アヘンの密造が行われていたという事である。
仄香は珍しい香りに浮かれていただけだったのだが、郁は警察に通報したり、どうやってこの花畑を見つけたのかを説明したりで大変だった。ちなみに仄香の為に、ケシの花束をこっそりと確保したのは、警察には内緒である。
意識してにしろ、無意識にしろ、仄香のこういった破天荒な行動に振り回される郁は、やれやれと言ったボヤきを漏らす事が多かった。
だが、香水そのものについて何かを言った事は無い。
そんな郁が、仄香の香りに対する疑いを口にした。これは多分に珍しい事だった。それだけ、今の仄香の様子が普段とは異なって見えたのだろう。落ち着きがない、あるいは競走馬で言う『入れ込み過ぎ』という状態に見えたのだ。
「それ。そういうところだよ。変な気合いが入ってるみたいだからね。普段の仄香ならしないミスをしてるんじゃないかと気になったんだよ」
「…………あう」
露になってしまっていた決意のほどを指摘されて、仄香は思わず頬を染めて目を逸らした。本当に、この幼馴染みには何もかも見透かされてしまう。しかしそれは、仄香にとって決して不快なモノではなかった。
実のところ、薫子の黒い香りを使う事に、仄香は後ろめたさを拭いきれずにいたのだ。躊躇わずに使うという祖母の教えがあるものの、やはり人の心を操るという行為には、人として越えてはいけない線があると思う。
伯父に対して使う事には、本当に躊躇いはない。だが、そういう香りを使うという事実を、大好きな幼馴染みには知られたくなかった。だから、今日の香りはただ「特別製」と言ったのだ。
「大丈夫よ。おばあさまのレシピの中から、ちょっと強い香りを選んだだけ。でも初めて使うから緊張しちゃったのかも」
「香水で仄香が緊張するなんて、意外だね。そんなに特別な香りなの?」
「効き目はスゴイらしいわよ」
と、仄香は曖昧に、だが自信満々に答えた。
郁は、薫子の黒い香りの事は知らない。
孫娘に悪い事を教えるとき、薫子は幼馴染みにも秘密にするよう、仄香に言いつけたのだ。
黒い香り。それは本当に危険なモノである。仄香はまだ教わっていなかったが、薫子のレシピの中には、使い方によっては人を容易に死に至らしめるものもあった。『十戒』ほど簡易で強烈な効き目ではないにせよ、薫子の黒い香りも余人に知られてはならないものなのである。文字通り、門外不出の秘法というワケである。
それを、お互いに隠し事をせず、何でも話す関係の幼馴染みからも秘密にする。それによって、黒い香りが本当に表に出してはいけないモノだと、薫子は幼い弟子の心に染み込ませたのだろう。
そして仄香は、その言いつけを忠実に守っている。
今、仄香が身に着けているのは『蠱惑』という名の香りだ。
「大丈夫よ。おばあさまの香りは世界で一番スゴいんだから。きっとこれで、上手くいくわ」
「……そうだね。薫子さんを信じるよ」
「……」
「……なに?」
「そこは、アタシを信じるよって言ってほしかったな」
「? そんなの当たり前じゃん」
「は……ひょあ……はうう……」
「ホントに大丈夫? 朝から変だったけど、今はもっと変だよ?」
持ち上げて、落とされる。嬉しい事を言ってもらった直後の無神経な物言いに、仄香は、自分のこめかみで何かが弾ける音が聞こえたような気がした。
本当に、本当に、この幼馴染みは……。
「……仄香?」
「……………………バカああああああっ!」
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