第六章 二人の距離 4

「何度来ても同じだぞ」

「いいえ、何度でも言います。あの家はお母さんの、そしてあの工房は私のモノです。もう、ずっと前から、おばあさまと約束してました」

「だが、証拠が無い」

「……」

 仄香と郁の目の前にいる伯父は、ふんぞり返るという表現そのままの姿でソファに沈み込んでいた。

 何度目かの訪問になるのか、伯父の家を訪れた仄香と郁は、これまでと同じ応接間に通されていた。高価そうな壷やら置物やらが飾られた部屋で、この家の主は胡乱気な視線を少女と少年に向けている。

「ここしばらく、親戚連中と話し込んでいたみたいだがな、連中には相続する権利が無い。そいつは法で決まっている。つまり、関係の無い連中だ。だから、アイツラがどれだけ罵ろうと、何の意味も無い。鬱陶しいだけよ」

 どうやら、味方につけた親戚の人たちは、仄香の味方となって伯父に働きかけてくれていたようである。

 並の神経の持ち主なら、親戚から寄ってたかって詰められたならば、精神が消耗していることであろう。そうなれば、仄香と郁の作戦が上手くいったということになる。

 だが、少女の目の前に座る金に汚い肥満体の男は、そんな親戚たちの声など、全く意に介していないようであった。

 仄香は、心ならずも見慣れてしまった応接間を改めて見回した。高そうな美術品や工芸品が無節操に並ぶ、成金趣味の部屋である。図太い神経と雑な感性が無ければ、こんな部屋にはならないであろう。人生経験の少ない仄香でも、この部屋の主がまともな美的感覚を持っていない事が見て分かる。調香という、曲がりなりにも芸術に携わっている仄香からすれば、芸術を判断するのに金額しか物差しを持たない伯父は、理解しがたいメンタルの持ち主と言えた。

「時間の無駄だな。同じ事しか言えんのなら、とっとと帰れ。帰って継美に伝えろ。裁判ならこっちの準備は整っているってな」

 と、そこへ遠慮がちなノックの音とともに、少し疲れたような印象の中年女性がお盆に紅茶を載せて応接間に現れた。仄香の伯母、つまり、目の前の傲岸不遜な男の妻である。

「ありがと、伯母さん。後は私が」

「え? ええ……、じゃあ、よろしく」

 疲れたというよりは気弱な印象であろうか。有無を言わさず仄香がお盆を受け取ると、何かを言いたそうな視線を自分の夫に向けた。しかし、視線を返さない夫に溜息を洩らし、結局は何も言わずに応接間から姿を消した。

「……ふん」

 夫婦の間で何があったのかは分からないが、なにやら険悪な様子である。その原因が犬も食わないモノなのか、離婚事由になりそうなものなのか、年端もいかない少女と少年には想像もつかない。あるいは、これが平常運転で、別段ケンカをしているわけではないのかもしれない。

 が、今の仄香と郁にはどうでも良い話である。

「ねえ、郁。確認なんだけど、裁判になったからっていっても、私たちが特別不利ってわけでもないのよね?」

「ん? ああ、そうだね。薫子さんたちの遺言書がない以上、遺産分割協議で…………」

 伯父に向かって話し始めた郁を確認して、仄香は視線をティーカップに移した。

「法定相続人の割合はあくまで目安で…………」

 そして、伯父が郁に向って話を聞き始めたのを見計らって、仄香はお盆からティーカップをそれぞれの前に差し出す。

「だから、ボクたちは…………」

 動きは少しぎこちなかったが、郁の話を煩わし気に聞いている伯父は、仄香の動きに気付いていないようだ。

 香りと言うものは、アルコールで揮発させることによって周囲に匂いの分子を振りまく。だが、黒い香りは効果が激烈であるだけに、のべつ幕なしに効果があってはならない。なので、いくつかの手順を踏むことによって、限定的に効果を発揮させる必要がある。

 よく喋る小僧を前に、仄香の伯父は余裕の態度でティーカップに口をつけた。

 それを見て、郁の隣に座り直した仄香は、心の中でニヤリと笑う。あとは、自分の身に着けている香りを振りまけば良い。

 遺産協議について熱心に語る郁に合わせるように、仄香も身振りや手振りを大袈裟にして伯父の説得に参加した。

 このまま続けていけば……。

 と、伯父の様子が目に見えて変わってきた。しかめっ面、仏頂面で五月蠅げに姪たちの話を聞いていた伯父の表情に、なにやら怪しい笑みが浮かび始めたのだ。

「だから、必ずしも……。……?」

 いきなり変わった目の前の男の表情に警戒心を刺激されたのか、郁の話がしぼむように止まった。

 その表情は、これまでに見た事のない感情を露にした顔だった。もしかして、仄香の伯父は何か隠し球を持っていて、それをここで披露する気になったのだろうか。

 だが、ソファに深々と座る中年太りの男の反応は、二人の想像とはまるで違っていた。

「だから、アタシたちの……」

「待て!」

 伯父は熱弁を再開しようとした仄香に掌を向け、鋭い一言で姪の口撃を止めた。

「は、はい……」

「何か……、暑くなってきたな……」

「そうですか?」

 部屋は空調が十分に聞いており、外の暑さは感じられない。暑いというのなら、むしろ喋りっぱなしの仄香の方であろう。仄香は自分のこめかみに薄っすらと汗が浮かんでいるのを感じたが、隣に座る幼馴染みの顔には、汗をかいている様子は見られない。

「ふう、ふうう……」

「オジさん? 身体の調子が悪いんですか?」

 明らかにさっきまでとは様子の違う仄香の伯父に不安を覚えたのか、郁は心配するような声を掛けた。

「いや……、すこぶる体調は良い」

「ええと……、とてもそうは見えないんですが……」

「いいぞ、すごく良い……。こんな気分は初めてだ……」

 さすがにおかしな気配を感じたのか、郁は隣で呆然としている仄香の耳に囁いた。

「仄香、オジさんって何か持病があったりする?」

「ううん、そんなの無いし……。でも、多分、これって……」

「仄香!」

「は、はい!」

 やおら立ち上がり、伯父は姪とその幼馴染みを見下ろした。

「あの小屋が欲しいといったな!」

「え……、ええ、そうよ! 言ったわ! あそこは! おばあさまとアタシのモノよ!」

「ふうう……。どうしてもか?」

「どうしてもよ!」

「そうか。だったら……、はあ……、その為なら……、なんでも、出来るな?」

「な、なんでもって……」

 テーブルの向こうで立っていた伯父は大股で歩み寄ると、いきなり仄香の肩をソファに抑えつけた。

「きゃあっ!」

「お、おい! おっさん!」

 突然のことに一瞬呆けた郁であったが、幼馴染みの苦鳴で我に返ると、自分より遥かに大柄な男を仄香から引きはがそうとした。

「うるさい! ガキは黙ってろ!」

「ぐあっ……!」

 野太い腕を一振りして、伯父は郁を応接間の壁に弾き飛ばした。派手な音を立てて小柄な身体が壁に叩きつけられる。

 そのまま郁には目もくれず、伯父は両肩を掴んだまま仄香をソファに押し倒した。

「い、郁っ!」

「あの臭い小屋が欲しいんならな、俺のモノになれ!」

「ひぃっ! な、何言ってるの、伯父さん!」

 姪の悲鳴など耳に入らないといった風に、仄香の胸倉を掴んだ伯父は、力任せにブラウスを引きちぎった。下着に包まれた少女のささやかの胸が露になる。

「昔からお前が気に入らなかったんだ。母さんとそっくりなお前がな。だが、母さんの死んだ今、お前が俺のモノになれば……、なれば……」

「いやあっ! 助けて、郁っ!」

「うわあああああっ!」

 次の瞬間、バカン!という小気味良い音と共に、陶器が派手に割れる音が応接間に響いた。壁際の棚には大きな壺が飾られていたのだが、郁は暴行する男の頭に力いっぱい、それを叩きつけたのである。

 バラバラと砕けた陶器の破片が、仄香と伯父の周りに落ちてくる。

「ぐ……、むうう……」

「お、重い……」

「仄香!」

 幼馴染みに覆いかぶさる男をソファから蹴り落とし、郁は肉布団に潰されそうになっていた仄香を引きずり出した。

「ふ、ふえええええ……、郁うううぅ……」

 男の獣欲をまともに受けてしまった仄香からは、普段の気丈さなど完全に掻き消えてしまっていた。身動き一つしない肉の塊を不安げに見下ろし、自分を助け出してくれた幼馴染みの首に縋り付くと、仄香は派手に泣きだした。

「いったい、なんなんだよ、仄香のオジさんは……。いきなり姪を襲うなんて普通じゃないよ」

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