第六章 二人の距離 5
幼馴染みに支えられて少し落ち着いた仄香は、この惨状の原因について考えていた。
もちろん、直接の原因は薫子の黒い香水『蠱惑』のせいであろう。仄香自身が纏った香りと、伯父のティーカップに仕込んだトリガーとなる香り。それが伯父の心に黒い香りの効果を表したに違いない。だが、その効果は、仄香が考えているのとはまったく別の、そして激烈な効果をもたらしていた。
レシピをミスしたのだとは思えない。何故なら、繊細な香りの組み合わせは、わずかな成分のミスでも期待した効果を発揮しない。祖母の遺したノートにはそう書かれていたからだ。
そもそも、相手を意のままに操るなど、本来は不可能である。ならば薫子の黒い香りとはどのようなモノなのか。
それは思考の誘導をしたり、判断力を鈍らせたり、あるいは自失状態にしたりと、心に対する搦め手のような使い方をするのが正しい。例えば、暴れる人間をリラックスさせて落ち着かせる為、キツイ香水を嗅がせる事があるが、その香の力がより強力になったようなものと言える。
また逆に、心のタガを外して獣性や暴力性を解放したりする事も出来る。これは麻薬を使った催眠暗示に近いものだが、使い方次第では脳のリミッターを解除して、スポーツにおけるドーピングとしても使える。しかも、従来の検査では発見の困難なものだ。何故なら香りというモノは、脳に直接作用するからである。薬物によって身体機能を増加させるのではなく、脳からの命令で身体を無理矢理動かすのだから、血液検査や尿検査などで検出する事は出来ないのだ。言うなれば、自分の脳内でドーピング薬を生成しているようなものである。
仄香が祖母から聞いた最もエゲツない香りの使い方は、そのリミッターを解除して「走らせ続ける」事が出来るというものだった。走って記録を出す事を求められる人間に対して強迫観念にも似た強い効果を持つ香りは、同時に脳内麻薬のβエンドルフィンを分泌させる。走り続けなければという想いと、脳内麻薬がもたらす快感によって、例えではなく本当に死ぬまで走り続けさせる事が出来るのだ。それは、死に向かって走るランナーズ・ハイ。
薫子はその香りを『疾走』と呼んでいたが、その時に薫子が見せた深い笑顔は、仄香の幼心を震え上がらせた。そして、その笑顔を脳裏に浮かべた仄香は考えてしまった。もしかして、薫子は香りを使って人を……。
床に力無く倒れた伯父を見ながら、そんな事を思い出したのだが、仄香は頭を振って怖い考えを追い出した。今からでは確認のしようもない事である。
レシピに書かれた『蠱惑』の効果は、「狂ったように相手を求める」こと。仄香はそれを、「自分に好意を持つようになる」と解釈した。だが、どうやらそれは間違っていたらしい。
黒い香りは、本人に違和感を持たせずに意思を捻じ曲げる。違和感を持たせないという事は、そもそも本人が望んでもいない事を強制など出来ないという意味である。黒い香りに現れる行動は、元々本人が心の奥底に抱えていた願望の一つというわけである。
つまり、黒い香りを上手く使うには、相手の事を理解しないといけない。レシピには単なる調香の手順だけでなく、そそのように正しい使い方も書いてあった。
伯父の最後のセリフから想像するに、どうやら彼は、母親である薫子に歪んだ憎悪にも似た想いを抱いていたようだ。そのような心根の持ち主に、相手を狂ったように求める『蠱惑』を用いたらどうなるのか。結果は今、仄香と郁の足元に横たわっている。
そこまで考えて、仄香は、自分が調香をミスしたのではなく、香りの選び方を間違えてしまったのだと思い至った。
そして自分が、現実逃避している事にも気が付いた。他の何物にも縛られず、ただ香水の事だけを考える。普段であれば何の問題もないであろうし、何か問題があっても大好きな幼馴染みが何とかしてくれる。だから今も、自分が香水で失敗した事だけを考えていた。
冷静に、ただ香水の事だけを。
そして、冷静に考えていたのは、本当に香水の事だけだった。
仄香は、郁の肩に身体を預けたまま、床で気絶している伯父を見下ろした。仄香に襲い掛かった男は、周囲に花瓶の破片を散らばらせ、ソファとテーブルの間に肥満した身体を横たえている。
部屋の惨状を見回し、引き裂かれた胸元を抑えた仄香は、自分が襲われた事を改めて思い出した。そして、自分が香水で失敗しただけでなく、交渉そのものが完全に失敗した事にも気が付いた。
失敗した。
失敗した。
失敗した……。
自分の香りのせいで伯父が正気を失い、交渉が失敗に終わった。
こんな事になった伯父が、家や工房を諦める訳がない。
そして裁判になって家も工房も失ってしまう。
失敗した。
失敗した。
失敗してしまった……。
言い訳しようのない、そして取り返しのつかない状況に、仄香の頭がパニックになりかける。
気が強くても幼い少女の心が壊れそうになる。
不快な気分が腹の底から沸き上がり、恐怖と絶望が形になって喉奥からせり上がってくる。
そしてそれが、絶叫の塊となって喉元から噴き出そうとした、その瞬間。
「ちょっと、何? 今のすごい音は! ……きゃああっ!」
そこへ、今の騒動を聞きつけた仄香の伯母が、応接間へ飛び込んできた。
隠す間もなく、応接間の惨状が見られてしまう。
「何があったの、仄香ちゃん……! 一体、何が……」
粉々に割れた壺。友人に泣き縋る姪。そしてソファとテーブルの間に倒れている夫。
何があったのかは一目瞭然……などという事はなく、目の前の不可解な光景に、仄香の伯母は思考が止まってしまったかのようであった。
終わり。
何もかも、終わり。
溢れる。
絶望が、仄香の心から溢れる。
目の前が暗くなる。何も考えられなくなる。
奇妙な静寂が、荒れた応接間に満たされていた。
その強張った空間を、凛とした少年の声が刺し貫く。
「取引だ、オバさん!」
「と、取引?」
頼りなく自分に縋りついたままの幼馴染みの肩を抱いたまま、郁は強い口調で仄香の伯母に向かって叫んだ。
年端もいかない少年から、いきなり向けられた射抜くような鋭い眼光に、仄香の伯母はたじろいでしまう。
仄香の使った香水が原因で襲い掛かられた、というのが事実だろう。だが、香水が原因で人に襲い掛かるなど、普通はありえない。
この場をパッと見て辛うじて分かるのは、仄香の悲鳴が聞こえてから、何かが割れる音が聞こえたという事。そして事実、伯父が倒れて砕けた花瓶が散乱しているという事。
だとすれば、他人がこの状況を見て分かるのは、仄香が襲われたという事実のみに違いない。
咄嗟にそこまで考えた郁は、応接間の惨状に立ちすくむ中年女に向かって、鋭い声と視線を投げつけた。そして、郁は無造作に仄香のスカートのポケットへ手を突っ込むと、あらかじめ用意していたボイスレコーダーを取り出した。
「ちょ、ちょっと郁!」
レコーダーには赤いランプが点いており、これまでの会話が全て録音済みであったことが分かる。隠し撮りは褒められた事ではないが、民事においては十分に証拠能力を持つのだ。
「このオッサンのコトは仄香から聞いたよ。お金はある癖にお金に汚くて、親戚にも評判が悪いって。それでも、警察のお世話になるような事はこれまで無かったらしいけど、これはどうなのかな? オジさんがどんな恨みを買ってるかは知らないけど、厄介払いであっさりと警察沙汰にされるかもしれない。オバさんにも覚えがあるんじゃないの?」
「そ……それは……」
実は、そこまでヒドイ話を郁は仄香や彼女の親戚から聞いたわけではない。ただ、何もかも知っている風に話しているだけである。
「ボクらの主張は最初から同じだ。仄香の家と工房。それ以上は求めない。でも、それ以下は絶対にダメだ!」
「で、でも……、遺産の半分を持っていくなんて……」
「残り半分でも三億は下らないって聞いたよ。幸恵さんと二人で分けたとして、最低でも一億五千万って事だ。でも、それ以上の欲をかくんなら、今、ここで有った事を親戚連中にバラす」
郁はここで大きく息を吸い込んだ。そして、出来るだけ低い声で脅し文句を口にする。
「イチかゼロか。今すぐ選ぶんだ、オバさん」
「い、今なんて……、そんな……。この人が、こんな状態なのに……」
郁は無言で録音状態のボイスレコーダーを突き出した。
年増女の目に、赤い光が禍々しく映る。
「……………………」
「分かった。ゼロでいいんだね。色々と面倒な事になるけど、仄香の家と工房が無くなるよりマシだ」
無情に言い放った郁は、仄香の手を引いて応接間の入り口ドアに向かった。そしてそれ以上、仄香の伯母に目をくれることなくドアノブに手を掛ける。
「ま、待って!」
「……」
だが、郁は答えない。無言のまま、何倍も歳の離れた中年女を横目で睨みつける。
怯えた様子の中年女は、郁と夫を交互に見た。だが、ここまできて、それ以上は中々喋らない。
「はあっ……。時間の無駄みたいだね。さようなら、オバさん」
「わ、分かったわ! 半分でもいい!」
「でも……いい?」
「は……半分で、お願いするわ……」
「オバさんも大人だろ? 人にモノを頼む態度ってのを知っていると思うんだけど?」
郁は何も、仄香の伯母をやり込めたり、意地悪のつもりでこんな事を言ったりしているのではない。ここで徹底的に相手をやり込めておかないと、後で手痛いしっぺ返しを食らうと思ったのである。攻めるときは手加減無く、というのを何かで読んだ覚えがある。中途半端な攻撃では反撃を食らってしまい、何もしないよりもダメージを負う事があるという。
そして、相手から完全な言質を取らないといけない。ボイスレコーダーは、まだ起動中である。
「あっ! そうだ!」
「ひっ!」
郁はわざとらしく、思い出した風な声を上げた。
「ゴメンね、オバさん」
「な、何……?」
「ゼロじゃなくってマイナスだったよ。血の繋がった姪を襲うなんて、許しがたい犯罪行為だもんね」
「……!」
と、郁がダメ押しだと思ったセリフを突き付けた瞬間、仄香の伯母の顔から表情がストンと消え落ちた。何かに達観したかのような無表情は、血の繋がった姪に暴行しようとして気絶している夫を前にして、何の感情も表していない。さっきまでの怯えた様子は、どこかへ消え失せてしまっていた。
「……分かったわ、あなたたちの望み通りにするわ」
「本当に? この下衆なオッサンを説得できるの?」
「ええ。間違いなくするわ。でも、その為には、条件があるの」
「待ってよ、オバさん。条件なんて出せる立場だと思うの?」
そう言って、郁は赤い録画ランプが点いたままのボイスレコーダーを再び突き付けた。
しかし、仄香の伯母からは、さっきまでのオロオロとした気弱そうな雰囲気が消え失せ、何かを決めたような視線を郁に向けている。
「立場とかどうでもいいわ。あなたがいま突き付けているそれ……、録音のコピーをちょうだい」
「コピー……? これを……、証拠を消せっていうんじゃなく?」
こういった取引の場合、証拠を消す事が交換条件になることが多い。だが、倒れた夫を冷ややかに見下ろす熟年の女は、応接間にお茶を持ってきた時とは、まるで異なる雰囲気を纏わせていた。憑き物が落ちたような、あるいは何かを諦めたような、そんな表情だ。
「この人がお金に汚いのは知っているわよね。まあ、私もそれで良い思いをしてきたんだから、そこにとやかく言うつもりはないわ。でもね、この人、お金に汚いだけじゃなくって、女の人にもだらしなかったのよ」
「……」
唐突に始まった告白に、郁も仄香も答える事が出来ない。遺産相続の話だけでも、年端もいかない少年少女には荷が重い話である。それに加えて、熟年夫婦のドロドロとした男女の話など持ち出されても、咄嗟に思考が切り替わらない。
だが、ポカンとする郁と仄香を無視して、仄香の伯母は淡々と語り続けた。
「単に浮気性ってだけなら、それでも構わなかったわ。さすがに色恋でどうこうって歳でもないし。私だってこの人ひとりだけって訳でもなかったしね」
郁は、なんだか段々と居心地が悪くなってきた。ボイスレコーダーは作動したままであるが、こんな話も録音してしまって良いのだろうか。
「この人、なぜか後始末の面倒な女にばかり手をだすのよ。私も夫も、刺されかけた事が一度や二度じゃないわ。その為に、示談に使ったお金もバカにならなかったし」
そこで、伯母は大きく溜息を吐いた。それは本当に大きな溜息で、身体の中に溜まった毒を吐き出すかのようであった。
「もらうモノをもらって別れるわ。その為の武器も欲しいの」
そう言って、伯母は録音ランプが点いたままのボイスレコーダーを指さした。
「私もね、それが欲しいのよ。だから、あなたたちの悪いようにはしないわ」
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