第六章 二人の距離 6

「ふふ、うふふ……」

 工房の維持が決まった。

 いつもと変わらぬ日常を取り戻した仄香は、ホームルーム前の教室で、先日の事を思い返していた。

「この間の郁、カッコ良かったなあ……」

 まるで水戸黄門の印籠のごとく、伯母に対してボイスレコーダーを突き出して啖呵を切った幼馴染みは、贔屓目に見ても確かにカッコ良かった。そして、あれが決め手となって、伯父はマンション計画をあきらめたのだ。

 最終的には伯父夫婦の男女のドロドロで諦めざるを得なかったようであるが、その辺りの詳しい事情を仄香は聞いていない。仄香が伯父に襲われかけたあの日以来、仄香も母親の継美も、伯父とは直接会っていないのである。それまで伯父と同伴していたのとは別の弁護士が現れ、遺産の分割協議は仄香や継美が望んだとおりの形であっさりと締結された。それ以来、伯父とは音信不通である。

 不愉快な存在であった伯父の事など、今の仄香には本当にどうでも良い。今はただ、頼りになる幼馴染みの事が仄香の心を占めていた。

 最後の最後で、本当に頼りになる。ああいうところがあるから、仄香は郁のことが好きである。

「高砂さん」

 教室でニヤついていた仄香に、クラスメイトの一人が声を掛けてきた。

「ひゃいっ! な、何……?」

 話しかけてきたのはクラスで中心的なグループのリーダーに収まっている少女であった。後ろに、いつも一緒の取り巻きが二人と、その向こうに少し大人しめの娘がいる。

「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」

「いいけど?」

 仄香は普段の癖で郁を探したが、教室には居なかった。

 リーダーの少女に誘われ、仄香は女子トイレへと向かった。どうやら、女の子同士の話があるらしい。男子や他のクラスメイトには聞かれたくない話だろうか。なんとなく面倒くさそうな気配がしたが、別にハッキリと断る理由も無かったので、仄香は大人しくついていった。

「長谷川くんの事なんだけどさ」

「郁の?」

「彼、付き合っている娘っている?」

「……はいい? な、なんでアタシに聞くの?」

「だって、幼馴染みなんでしょ? いっつも一緒にいるし」

「えーあー、まあ、そうね……」

「で、いるの?」

「今は……いないけど……」

「そ。良かった。実はこの娘が長谷川くんの事、好きなんだって」

 そう言って、リーダーの少女は一番後ろにいた大人しい雰囲気のクラスメイトを手招きした。

「だから友達としては応援したいと思うのよ。高砂さんも、そう思うでしょ?」

 イヤな聞き方をすると、仄香は思った。

 女の子同士の圧力。孤高を気取っているわけではないが、自分の趣味が人とはかけ離れている事を承知している仄香は、クラスメイトとはあまり深い付き合いをしていなかった。それに、小学生時代の失敗もある。付かず離れず。クラスメイトと話はするが、放課後には付き合わない。仄香とクラスメイト達とは、そういう関係であった。

 だからであろうか、リーダーの少女の物言いが、有無を言わさぬもののように感じられた。

 仄香は、郁の事が好き。

 だけど、付き合っているわけではない。

 だから、郁を好きだという少女に向けて仄香の口から出た言葉は、ほんのりとした焦りが含まれていた。

「でも、あんなののどこが良いの?」

「えと……、色んな事を知ってたり、優しいところもあるし、あと多分、凄く頭が良いと思うの。成績が良いっていうのじゃなくって、試験前に色々と教えてくれるけど、多分だけど、それだけじゃなくって……、なんて言うのか何をするにも準備がしっかりしてるでしょ? 長谷川くんが忘れ物をしたところ、見た事ないし。あとそれから、運動部の男子みたいに荒っぽいところが無くって、それから……、ええと……、こんな事を私が言ったのは、絶対に秘密にしてほしいんだけど、か、可愛いと思うし……」

「可愛い……」

 それを郁が聞いたら、さすがに凹むだろうなと思いつつ、大人しい印象とは裏腹に好きなクラスメイトの美点を饒舌に語る娘に対して仄香は感心してしまった。なぜならそれらは、仄香が幼馴染みの良いところだと、普段から思っているところだったからである。それに、上辺だけの付き合いでは中々気付かないところでもある。そして、それを知っているのも自分だけという自負もあった。

「だから、私、長谷川くんが好きなんです!」

「……っ!」

 なのに、目の前のクラスメイトは、郁の良いところに気付き、そして一歩を踏み出そうとしている。

 自分よりも先に。

 仄香は、焦りを覚えた。

 仄香は、郁の事が好き。

 そして、郁も仄香の事を好き……、だと思う。

 でも、確信は持てない。

 だから仄香は、焦ってしまったのである。


 数日後、仄香はクラスの女子たちとの約束通り、郁を連れて放課後の体育館裏にやってきた。

 体育館を挟んで校庭と反対側にある裏手は、焼却炉や倉庫があるのだが、掃除の時間を過ぎれば人気はほとんどなくなる。体育会系クラブの活動する声や音が聞こえてくるが、それらはどこか遠いものに感じられて、なんとなく不思議な空間となっている。

 建物の配置のせいで風の通り道になっているのか、涼し気な風が二人の背後から、そよそよと流れてきた。

「あは、来た来た!」

 大人しめな少女を中心にして、数人の女子が集まっている。仄香は、その中心にいる少女の為に幼馴染みを連れてきたのだ。

「一体、なんなんだよ、仄香。なんか不穏な感じがするんだけど」

「別にアンタをつるし上げようとか、そう言うんじゃないわよ。あの娘が郁に話があるんだって」

 そう言いつつ、仄香は郁の目の前で握った掌を広げた。そしてそのまま自然な流れで中心にいる少女を指さす。仄香は郁の顔をチラリと見たが、今の動きを怪しんでいる様子はない。

 要領を得ないといった顔で、郁は少女に向かって行った。

「えと、話って何かな?」

 仄香は、さりげなく郁の背後に立った。

 背後から吹き付ける風が、仄香の髪を揺らす。仄香が身に着けている香りが、幼馴染みに向かって流れていく。

「は、長谷川くん!」

「はい」

「私、ずっとあなたが好きでした! 私と、付き合ってください!」

 それは、その娘にとって必死に勇気を振り絞ったものだったのだろう。健気なその様子は、対象が郁でなければ素直に応援したくなる可愛さだ。だが……。

「ゴメン、気持ちはありがたいんだけど、ボク、好きな娘がいるんだ」

「そう……なんだ……」

 仄香は内心でガッツポーズをした。自分の心が醜いのは分かっている。それでも、郁が断ったことを喜ばすにいられない。そして、今回は仄香の狙った通り、祖母の香水はその効果を上手く発揮したようだ。

「ホントにゴメンね」

「ううん、良いの。私の気持ちを伝えられただけで……」

 だが、仄香の調香の技は薫子にまだまだ遠く及ばない。薄めて使ったはずの薫子の『魔法』は、予想外に強い効果を発揮した。

 発揮してしまったのである。

「だって、ボクが好きなのは仄香だから」

「……え? 高砂……さん?」

「うん」

 そう言って、郁はクルリと仄香の方へ向き直った。

「好きだ、仄香。ボクと付き合ってよ」

 仄香は呆然としてしまった。

 郁の本当の本心を、仄香は知らない。

 しかし、今のように他の女の子が出て来なければ、分からないままでも不安は無かったであろう。郁の魅力を理解するような娘など、自分以外にいないと思っていたからだ。

 だけど、そういう娘が現れてしまった。

 そして、もしかしたら、郁は自分の事を、幼馴染み以上の目で見てはいないのかもしれない。

 だから、黒い香りを使って郁の心を自分に向けようとした。先日の伯父に使ったものと同じ、しかし、薄く淡く儚く感じられるほどの微かな香りを使って。それは、郁の心を、ほんの少しだけ自分に向ける為の、黒い香り。

 それは完璧に成功した。薫子の技を仄香は再現することが出来たのだ。

「ま、待って! ちょっと待って、郁!」

 郁が自分を好きになれば、少女の告白を受けることは無いだろう。仄香は、そういうつもりで黒い香りを使った。後で郁の方から自分に告白されるかもしれないとは思っていた。だけどまさか、今この瞬間に告白されるとは夢にも思っていなかった。

「ちょっと! 高砂さん! どういうことよ! 長谷川くんとは付き合ってるわけじゃないんじゃなかったの!」

「うん。ボクと仄香はまだ付き合ってないよ。だから今、告白したんだ。今は、その返事待ち」

「うう……、ひっく……、う……わああああん!」

 いきなりの事で全員が事態を飲み込むのに奇妙な間が空いてしまったが、郁に告白した少女は、他の女子に先駆けて泣き出してしまった。

 それは当たり前であろう。告白したその場で振られただけでなく、目の前で好きな男の子が別の女の子に告白したのだ。自分がまるで引き立て役であったかのように感じたに違いない。悲しくて、哀しくて、自分が場違いな存在のように感じられてしまう。いたたまれなくなった少女は、その場から泣きながら逃げ出してしまった。

 付き添いで居た他の女子たちも彼女の後を追う。

「ウソつき!」

 最後にリーダーの少女が投げつけた言葉が、仄香の心に突き刺さった。刺々しいその言葉は、仄香の心の柔らかい部分を抉りぬく。

 そして、体育館裏には仄香と郁の二人だけとなった。

「仄香……、ずっと好きだった。ようやく素直に言えたよ。なんだろう、不思議と自然に仄香が好きって言えるよ」

「それは……」

 おばあさまの香水のせい……。仄香は危うくその言葉を飲み込んだ。

 仄香の胸に罪悪感が広がってくる。

 この場でいきなり告白されたのは、完全に黒い香りのせいである。

 今の郁は、明らかにおかしい。仮に香水を使わず、郁が普通に少女の告白を受け入れなかったとしたら、話はそれで終わっていただろう。他に好きな娘がいる、くらいは言ったかもしれないが、自分が振った少女の目の前で他の女の子に告白するなど、普段の郁では有り得ない。万事に気の利いた言動と行動をする普段の郁であれば、同じ告白をするにしても別の時、別の場所を選ぶだろう。いきなりその場で、当事者の女の子がいる前でなどという事は、絶対に無い。

 だが、さっきの郁の行動は、相手の心情を慮る様子は欠片もなかった。まるで我慢できないといった感じで、仄香に告白をしてきたのだ。

 現に今も、泣きながら去っていった少女の事を気にしている様子は微塵も見られない。

 先日の、伯父の眼光が仄香の脳裏によみがえる。

 今の郁は正常な状態ではない。ここで告白を受け入れないと、幼馴染みがどんな反応をするか想像もつかない。

 だから仄香は、嬉しさと疚しさと戸惑いを胸に秘めつつも、郁の告白を受け入れた。

「うん……、アタシも、郁が好き……」

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