第六章 二人の距離 7

 仄香が好き。

 その心に偽りは無い。


 幼馴染みに告白した日の夜、郁は制服姿のままベッドに仰向けになっていた。

 いつから仄香の事が好きだったのかと問われれば、最初からと郁は答えるだろう。

 家同士の付き合いが長いせいで、仄香のことは兄妹みたいな感覚であったことは確かである。だから、幼馴染みを恋愛の対象として見ることに、訳もなく罪悪感を覚えていた頃もあった。

 しかし、今では声を大にして言うことが出来る。

 香水好きで、時折エキセントリックで、そして呆れるくらいに、おばあちゃん子な幼馴染みのことが好きである。

 だから、郁は仄香に告白したのだ。

 自分の気持ちに素直になって、幼馴染みに自分の気持ちを伝えた。

「素直に……、なって?」

 違和感はあった。

 幼馴染みを女の子として意識しだしたのは随分と昔だったが、それでも自分から積極的に男女の関係になろうとはしなかった。

 理由は特にない。

 同年代によくいる恋愛脳の女子から見れば理解できないのかもしれないが、好きなら好きと言って付き合ってしまえばいいというような、単純な気分にはなれなかったのだ。

 仄香も自分の事を好きである、という確信はあった。独りよがりな思い込みと言われれば返す言葉もないが、地味な香水オタクの少女に告白するような男子は周囲にいなかったし、チビで運動音痴な自分に言い寄ってくる女子もいるとは思えなかった。だから、自分と仄香の間に、他人が入ってくるとは想像もしていなかった。

 それが、いきなり仄香以外の女子に告白された。

 だから多分、ビックリしたのだと思う。いきなりスイッチが入ったような感覚に違和感を覚えたものの、これまで抑えていた自分の素直な気持ちだという感覚もあった。だから、我慢が出来なかったのだと思う。告白してくれた女子には悪いけれど、自分の気持ちが抑えられなかった。

 だから、すぐにその場で仄香に告白した。

 素直な気持ちになって。

「素直な、気持ち……?」

 違和感は、いつまで経っても拭えなかった。

 仄香の事が好き。

 その心にウソは無い。

 それでも、この間の告白は、自分の本当の気持ちとは思えなかった。

 それに、告白の時、仄香から感じた香り。

 仄香は普段、感じるか感じないかと言った薄い香りを身に纏っている。そもそも中学生の身では、大人が使うような香水を着けるなど許されない。色気づいた女子が背伸びして学校に着けて来る事もあったが、大抵は教師に呼ばれて怒られている。だけど仄香は、薫子から教わった自然な香りを好んで身に着けていた。それも、季節の花のフローラル・ブーケやグリーン・ノートなどの木々の緑が薫るような、嗅いだ者の心を楽しませる爽やかな香りだ。仄香の周りに薄く淡く漂う香りは、それと意識しなければ感じられない。だが、香りというモノは、確実に脳へは届いている。だから、いつも仄香の隣にいる郁は、香りと同じ爽やかな気持ちでいる事が出来たのだ。郁は、その空気が好きだった。

 だが、告白の日の香り。あれは、仄香の普段の香りに比べて、少し重く感じられた。仄香や薫子のような嗅覚を持たない郁では、香りを正確に把握する事は出来ない。出来ないなりに、仄香から普段と異なる香りを感じたのだ。確信は持てないものの、その香りは仄香の伯父の家で嗅いだものでは無かったのだろうか。思慮も分別もある、いい大人が狂乱したあの香り。

 だから郁は、確かめなくてはいけなかった。

 あの日、仄香が使った香水の事を。


   *


 告白の日から数日後の土曜日、仄香と郁は、薫子の調香工房の整理をしていた。

 伯父の件が解決したのだから工房を手放す心配は無くなったのだが、それはそれとして、主の居なくなった工房をそのままにもしておけない。自分が引き継ぐのだから、この工房の全てを把握しておこうと仄香は思ったのである。調香の手解きを受けていたとはいえ、仄香は未だ、全ての香料や原料を把握しているわけではないのだ。

 もちろん、気持ちの整理という意味もある。薫子はもういない。ケガの功名と言ってしまうと不謹慎であろうが、伯父の一件があったおかげで、仄香は自分がここを引き継ぐという事を強く意識できるようになったのだ。

 香水や香木、原料が収められたガラス製の試料瓶など、香水そのものに関するものは仄香が整理し、香水に詳しくはない郁は、薫子の蔵書や古い木箱などに仕舞われたままの資料などをチェックしていった。

 土曜の昼下がり、静かな調香工房で、二人は黙々と作業を続けている。

 仄香と郁は、お互いに自分の想いを伝えあった。

 しかし、それで二人の関係が劇的に変わったかというと、そういう事にはならなかった。幼馴染みという関係が長かったせいで、付き合っているという感覚もいまだに薄い。お互いに距離感を測りかねているといった感じである。もしもクラスメイトに恋人同士なのかと聞かれたら、仄香は反射的に「違う!」と答えてしまいそうである。

 それでも、郁が好きという心にウソは無い。だから、工房に二人きりというこの状況に、何とはなしに幸せを感じてしまっていた。

 だが、仄香の心には棘が刺さっている。郁に告白されたあの日、クラスメイトに「ウソツキ!」と罵られた事を思い返すと胸が痛む。

 郁に振られてしまった娘にも、悪い事をしたと思っている。幼馴染みを獲られたくないという自分本位なワガママが招いた結果だが、仄香が黒い香りを用いなければ、勇気を振り絞って告白した少女が泣いて逃げ出すような結末にはならなかったはずだ。そう考えること自体が、傲慢だという自覚もある。

 だから辛い。だから余計に苦しい。大好きな幼馴染みと、お互いの気持ちを確かめ合った直後だというのに。しかも、二人きりでいるというのに。

 しかしそれでも、仄香は二人の時間に幸せを感じてしまっている。嬉しさが、自分の醜い心を塗りつぶしてしまいそうになる。

 それが堪らなく苦しくて、気持ち悪い。

「仄香」

「……な、なに、郁?」

 オルガンの椅子に座って黙々と作業をしていた仄香の近くに、いつの間にか郁が佇んでいた。その表情には、いつもの優しい笑みが見られない。郁の顔は、とても愛の告白をした後の少年の表情とは思えない。

 緊張感を孕んだ幼馴染みの声が、仄香の耳に降り注いだ。

「好きだ」

「……ふえっ?!」

 真面目な顔で何を言ってくるのかと思えば、それはあまりにもストレートな言葉であった。だが、それに続く言葉は、とても直線的とは言い難かった。

「これは、ボクの正直な気持ちだ。だから、仄香も正直に答えて欲しい」

「う、うん。アタシも……」

「薫子さんの魔法」

「好……、はい?」

「香水の詳しい事はボクには分からない。香水の事で、仄香以上に理解できるとも思えない。でも、薫子さんの魔法は、ボクの想像以上に凄いんじゃないかと思う」

「え、ええ……。おばあさまの魔法は、確かに凄いわね」

「……仄香はボクに、魔法を使ったね?」

「……っ!」

 仄香の呼吸が止まった。舌は動きを止め、言葉は紡がれず、喉奥に空気の塊が詰まったようになる。

 薫子の異名である『魔法使い』。それはただ、調香の技能が神がかっていたが故に名付けられたというだけではない。それを仄香は知っている。仄香が薫子から最初に黒い香りの使い方を教わったのは小学生の頃だったが、工房を訪れる大人たちが、なぜ薫子を『魔法使い』と呼ぶのか、その時に本当の理由を知ったのだ。

 だが、郁は黒い香りを知らない。だから薫子の異名も、ただその道の達人に与えられる名誉ある称号だと思っていたはずである。

 だが……。

「なん……で……」

 かすれた声を漏らしながら、仄香は自分の身体から体温が消えていくのが感じられた。背筋を冷たいモノが滑り降り、手足に震えが走る。自分の骨が氷に代わってしまったかのように感じられ、全身が凍らされていくように呼吸が苦しくなる。

 冷たい。

 身体が震えて冷たくなる。

 郁は、黒い香りを知らないはずである。だが、それは甘い考えであった。仄香の事を何でも知っている郁が、隠し事など上手く行ったためしのない幼馴染みが、仄香の抱える秘密に気付かないはずは無かったのだ。

 今までに無いほど感情を失った幼馴染みの視線から、仄香は理解した。郁は、薫子の『魔法』がどんなものか、気付いている。そしてそれが、自分に使われたのだという事も。

 薫子の教えが脳裏に浮かび上がる。

 黒い香りは秘密にするべきもの。郁にも知られてはいけない。

 それはいったい、何故なのか。

 黒い香りが自分に使われた事実を知った時、使われた方はとてもイヤな気持ちになるからだと薫子は言った。

 人の心を操る、様々な香り。

 薫子は、仄香がそれを郁に使う事を予想していたのだろうか。

「やっぱり、そうなんだね……。ゴメン、仄香……。ゴメンね……」

「な、なんで郁が謝るの! アタシが……ま、待って、郁!」

 仄香の大好きな幼馴染みは、それ以上、何も言わずに踵を返した。そして肩を落として工房から出て行ってしまったのである。

 その後姿を目で追いながら、仄香は追いかける事も出来ずにただ見送っていた。かける言葉が思いつかなかったからである。

 土曜日の昼下がり、一人になった仄香は、静寂に満たされた工房で閉じられた扉をずっと見続けていた。

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