第六章 二人の距離 8

「それからしばらく、郁は全然口をきいてくれませんでした。郁と話をしなかった事なんて、言葉を喋り始めてから一度も無かったのに……。それまでは、昼間にケンカをしても、夜にはいつも通りだったし……、そもそもケンカなんてほとんどした事は無かったし……」

 仄香の告白を、曽田はずっと黙って聞いていた。話し始めの頃は相槌を打ったり、質問を挟んだりしていたのだが、訥々と語る少女の昔話を、青年はテーブル越しにじっと聞き入っていた。

「分かっていたんです。おばあさまに言われていたから、知っていたんです。それを使ったことが知られると、使われた方はイヤな想いをするって……。でも……、アタシは耐えられなかった。郁が、他の娘と付き合うかもしれないって想像に……」

 仄香は自分の声が震えてくるのが分かった。だが、押さえる事ができなかった。

 これは罪の告白である。

 自分に好意を寄せてくれる相手に対して、その資格が自分には無いと言っているのである。

「郁と普通に話せるようになったのは、高校に入ってからなんです。中学の間は、郁に告白した娘の事もあって、クラスでは目も合わせませんでしたし、学校が終わってからも、工房に郁が現れる事はありませんでした」

「きっかけは、何だったんです?」

「さあ? テレビやマンガにあるような、ドラマチックな展開なんてありませんでしたよ。ただ……、高校受験はお互いに相談もしなかったんですけど、何故か同じ高校でした。郁ならもっと良い高校へ行けたはずだし、アタシは中学の同級生があまり行かない高校を選んだだけなんですけどね。入学式の朝、バス停でばったり会って、それからは、今と同じ感じです」

「それは……、十分にドラマチックだと思いますけどね」

「その時の郁は、おばあさまが亡くなってからの一年半が、まるで無かったみたいな……。おかしいんですよ? 久しぶりに会って最初の言葉が何だったと思います? 『おはよう、仄香』ですよ? 『久しぶり』とか『元気だった?』とかも無かったんです」

「それは……、郁くんなりの心遣いだったのでは? 本当に、無かった事にしてくれたのでは……」

「……アタシもそう思います。郁が、あの時の事を無かった事にしてくれているのは分かりました」

 そこで仄香は、大きく息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと息を吐き出す。

 大きく深呼吸した仄香は、昔に飛んでいた自分の心が、今の心と重なるのを感じていた。今の自分と幼馴染みの距離が、昔よりも少しだけ近く、でもそれ以上は近寄らない感覚。

 仄香は今の自分の気持ちを、自分を好きだと言ってくれる人に対して正直に告げる為に、決然として曽田の顔を見据えた。


   *


「あの時のボクは冷静じゃなかったんだと思う。いや、そもそも仄香と一緒にいて、自分が冷静だった時なんてあったのかなとも思うよ」

「どういう事?」

 小柄で、クラスでは小動物系にも例えられる郁は、瑞希から見て常に冷静でいるように見える。確かにそれは、地味に見えてエキセントリックな言動をしがちな仄香に比べて、落ち着いて見えるからだろう。

「仄香の使った魔法の事を考えたら、自分が仄香に信用されていなかったんだって思ってしまった」

「それは……」

「もちろん、今では分かるよ。仄香がどういう気持ちで魔法を使ったのかも。不安に思ってしまったんだろうね。不安にさせてしまったボクが悪いという事も分かる。でも、あの時は、とても冷静に仄香の気持ちなんて考えられなかったんだ。ただ、裏切られたという気持ちに……、いや違うな……、でも、それに似た気持ちで一杯だったよ」

「絶望的だった?」

「さすがにそこまで酷くは無いよ。でも、仄香とまともに話す事の出来る気分じゃなかったのは確かだね。……ああ、そうか。こういう話をしてて、今頃気付いたよ。僕は、仄香に怒っていたんだね。仄香を、信じる事が出来なくて、怒ってしまったんだ」

「今は? 今は仄香の事をどう思っているの?」

 ここまで話を聞いてくれた友人に対して、嘘を吐く事は出来ない。隠し事をする事もない。

 郁は少しだけ自嘲を込めた表情で、だが、決然として瑞希の顔を正面から見据えた。


   *


「だからアタシは、郁の前ではオンナの香水を身に着けないでいようと決めたんです。自分を飾るような、オンナを意識させてしまうような、誘う香りは使わない事に決めたんです。でも、それでも、アタシは……」


   *


「だからボクは、仄香が何をしようともついていてあげようって決めたんだ。仄香がどんな目的で香水を使おうとも気にしない。例え自分の為に香水を悪用しようとも構わない。仄香がもう一度アレを使ってボクを操ったとしても、ボクはそれを受け入れる。その行為も結果も、全てをひっくるめて、ボクは……」


   *


「アタシは、郁のことが好きなんです」

「ボクは、仄香のことが好きなんだ」


   *


 仄香の言葉に、曽田は気を飲んだような表情を返していた。手にしたコーヒーカップを動かす事もなく、少女を見つめ返している。

 と、その表情がフッと和らいだ。

「そうですか。ではやはり、僕の入る隙間は無さそうですね」

「すみません……」

「謝る事ではありませんよ。馬に蹴られたと思えば、仕方のない事です。それに、まるっきり無駄では無かったとも思いますから」

「え……?」

「少しは仄香さんの気持ちを楽に出来たかと思いますし。パフューム・ノワール……先生の魔法の事や、それを使った事なんて、他の誰にも言えなかったでしょう? 本当なら郁くんと一緒に抱えていくはずの秘密を、仄香さんが一人で抱えていたのですから」

「……!」

 これが、大人の態度というものなのだろうか。独りよがりな少女の昔話を、余裕を持って受け止めてくれている。

 確かに仄香は、今の話をこれまで誰にも言う事が出来なかった。変わらない態度で接してくれた郁のおかげで苦しさは紛れていたが、それでも心に刺さった棘は残っているのだ。いつかその棘も無くなると思いたいが、その為には、もう一度、郁と正面から話さなければならないと思っている。

 そんな仄香の秘められた苦しみを、郁以外の人に話す事が出来た。有り体に言えばガス抜きではあるが、仄香は、そのガス抜きですらする事が出来なかったのだ。

「ありがとうございました。おかげで、少しだけ気持ちが晴れたように思います」

「少しだけ、なんですね」

「すみません」

 仄香は、少し困ったような笑顔を曽田に向けた。

「これも、謝る事ではありませんよ。僕では力不足だった。それだけの事です。あとは郁くんと、気の済むまで話すのが良いと思いますよ」

「ええ。本当に、ありがとうございます」


   *


 震える手でスカートの裾を握りしめる瑞希。

「……そういうワケで、今も昔も、僕と仄香は恋人同士じゃないんだよ。……香山さん?」

 俯いたまま震える瑞樹。その表情は郁からは見えない。もしかして泣いているのだろうか? 今の話に泣くような要素は無かったはずだが、郁の目からは瑞樹が泣くのを堪えている様に見える。

「あああああっ!」

「うわっとぉ?」

 と、堪え切れなくなったのか、瑞樹は勢いよく天井へ顔を向けると、溜まったモノを吐き出すように声を上げた。

「ああっ! もうっ! 他人のノロケ話なんか聞くもんじゃないわね。仄香の為って思ったけど、聞くんじゃなかった。ああ、暑い熱い」

 見れば、瑞樹は顔を両手で覆っているが、隙間から見える頬や耳は真っ赤に染まっている。

「ええと……? 惚気?」

「そうでしょうよ! 今の昔話の間に、長谷川くん、いったい何回、仄香の事を『好き』って言ったと思ってるのよ!」

「言った……かな?」

「無自覚っ?! もう、古文の枕詞みたいに『大好きな仄香の為に』とか、『好きな娘のお願いだから』とか……、ああっ! もうっ! 言わせないでよっ! 恥ずかしい……」

「理不尽だ……。聞いてきたのはそっちじゃないか」

「ごめんなさいねっ! ……まったく余計なお節介だったわ。ホントに、長年連れ添った夫婦みたいな付き合いなのね、あなたたち。今の距離感がピッタリってのも理解したわ。これ以上近付いたら、火傷しちゃう」

「えええ? 距離感って、そういう意味で言ったんじゃないんだけどな。手をつないだ事くらいはあるけど、キ……キスもした事ないんだよ?」

「……マジで? 幼稚園の頃の遊びでも? 気に入った男の子とする、大人の真似事みたいなのでも?」

「随分と具体的だね。経験から?」

「ひゃああっ! わわわ私の事なんて、どーでも良いのよっ! とにかく! そんな過去の事なんて、今の二人を見てたら心底どーでも良いと思うわ。何かきっかけでもあれば簡単に変わるわよ」

「そうかもね」

「……長谷川くんって、けっこうイイ性格してたのね。そんなの分かり切ってるって顔してる。あー、なんかもう、こんな未来が想像出来るわ」


「ねえ郁、そろそろ結婚しない?」

「いつもながら唐突だね。分かった、来週までに式場を調べておくよ」

「ありがと、郁! 大好き!」

「その前に、ボクたち恋人じゃないけど、いきなり結婚してもいいのかな?」

「いいんじゃない? アタシは気にしないわよ」

「ボクも気にしないから大丈夫か」

「「あははははっ」」


「いやいや、いくらなんでも、そこまでノーテンキじゃないよ」

「結婚のところは全然否定しないのね。そういうところをノーテンキって言うのよ」

「おっと。これは一本取られたかな」

「はー……。ホントに聞くんじゃなかった。これで私に彼氏がいなかったら、仄香を絞め殺してるところだわ」

「先輩とは、上手くいってるの?」

「仄香のおかげでね」

「それは良かった。ボクの話でも分かったと思うけど、仄香の香水は本当に凄いんだ。だから、これは逆に、ボクからのお節介なんだけど、仄香の香水は、あまり使わない方が良いよ」

「大丈夫よ。仄香にも言われたわ。使うのはここぞって時だってね。普段は、市販の香水で仄香お薦めのを着けてるわ」

「分かってるんなら良いんだ。……香山さん」

「なに?」

「ありがとう」

「何よ、改まって。余計なお節介だったんでしょ?」

「そんな事ないよ。誰かに聞いてほしかったのは本当なんだ。香水の……黒い香水の話なんて、誰にでも話せる事じゃないからね」

「べ……別に長谷川くんの為じゃないんだからねっ!」

 場に奇妙な沈黙が降りる。

「ぶ……くくっ……あははははっ!」

「あははははっ! あー、おっかしい。一度言ってみたかったのよね、ツンデレセリフ」

「テンプレなツンデレ、ごちそうさまでした」

「お粗末さま。まーでも、火傷するくらいアツアツの二人を見てみたいってのも本心よ」

「鋭意、努力するよ」

「ふふん、ウソつき」

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フェロモンの十戒 紫陽花 @joe_k

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