第七章 招魔の儀式 2
ストレートのロングヘア。市松人形のように整った美貌と、切れ長の目。瞳の輝きが意志の強さを窺わせている美少女である。
「キミは……、まさか……、いや、いくら何でも、十年以上も前と姿が変わらない……なんて、有り得るのか?」
「高校の卒業式以来かしら? 貴方は随分と……いえ、なんでもないわ」
「失礼なところも変わってないな。間違いなく、馥山だ」
「私の事、覚えてるのね。だったら、私がした香水の話も覚えているかしら?」
「唐突に本題に入るところも相変わらずだな。さて、あの頃は未熟だったからね。どの香水の話だか……」
曽田は香料メーカーの大手フレグランス・アンド・フレーバー・ディストリビューション・カンパニー、通称FFDCに勤めており、若くして研究室の室長を務めている。そもそも曽田の家は香道を嗜んでおり、幼い頃から芳しい香りに囲まれた生活をしてきた。その点では仄香と似たような生い立ちであり、曽田が彼女に興味と好意を抱いたのも自然な事だったのかもしれない。
かつてのクラスメイトを前にして、今の仄香と自分を重ね合わせた曽田は、過去へと思考を遡らせようとした。黒い服を着た目の前の美しい少女とは、同じ学生時代を過ごしたのだ。
だが。
「『十戒』……」
「……!」
彼女の一言が、曽田を現在へと呼び戻した。
「あら、その表情の変わりよう。良いオトコになったと思ったのだけど、色々と顔に出やすいところは変わっていないのね。……知っているんでしょう、『十戒』のコト?」
「まさか……君が、黒い女という事なのか!」
「隠そうとしても無駄よ。覚えているでしょう? 私の技」
「……この、魔女め!」
「ふふっ、面と向かって魔女と呼ばれたのは久しぶりね」
曽田の脳裏に、懐かしくて恐ろしい記憶が蘇る。黒い香りを使い、人の意識を捻じ曲げ、学校中に混乱を巻き起こした香水の魔女。彼女に救われた生徒は多いが、破滅した生徒の方が遥かに多いのだ。
咄嗟に香水瓶を取り出した曽田は、キャップを捻ると直接鼻孔に持ってきた。
香水とは、普通は手で仰いで嗅ぐものである。立ち上る香りを直接嗅ぐのは、鼻の粘膜にダメージを与えてしまう。
だが、今はそれこそが目的であった。刺激の強い香りを直接鼻腔に吸い込んだ曽田は、あまりの刺激に苦痛の呻きを上げた。
催涙弾、あるいは身近なところでは催涙スプレーというものがある。いずれも、暴力を振るう相手を鎮圧するために刺激性のガスを噴出するものだ。香辛料でもあるカプサイシンを抽出したガスは、鼻腔の粘膜を強烈に刺激する。鼻腔の粘膜は人体の中でも極めて敏感な部位の一つであり、そこを刺激する事によって、激しい苦痛をもたらすのだ。
カプサイシンほどではないにしろ、刺激の強い香水を直接嗅いだ曽田は、目尻に溢れる涙を湛え鼻血を漏らしていた。
「無茶するわね」
「君の……香りを吸うワケにはいかないからね」
だが、曽田の抵抗は意味をなさなかった。何故なら、曽田は最初から佳苗の術中にはまっていたからである。
「ふふ、私がこの公園にいたのは、ただの偶然だと思う?」
「どういう……っ! まさか、さっきのウッド系の香りは!?」
「懐かしかったでしょう? 私たちの教室の香り」
つまり曽田は、誘蛾灯に惹かれた虫のように、この公園へ誘い込まれたのである。
香りで、人を操る。
学生時代に何度も見た恐ろしい光景を、今は自分が味わっている。それを理解した曽田の背に、冷たい汗が滲んできた。
「そんなに怖い顔しなくても大丈夫よ。あの娘たちみたいな目に遭わせようってワケじゃないから。あれは、私の友達をイジメた報いなんだもの」
「それじゃ……、なんのつもりで僕に……」
「これ以上、『十戒』には関わらないでちょうだい」
「……どういう事だ? キミは『十戒』を探しているんじゃないのか? 学生時代は、あんなに幻の香水を求めていたのに」
「『十戒』はもう手に入れたわ。そして、もうすぐ私の願いも叶う。だからこれは、後始末」
「キミは……魔香を使って、何をするつもりなんだ!」
『十戒』は、魔香と呼ばれる不思議な力を持つ香水である。そして、その力は他人の不幸を元にして願いを叶える。師匠の薫子が使っていたような黒い香りとは、根本的に異なる存在なのだ。そんな妖しくて恐ろしい香水を使って、かつてのクラスメイトは何を望んでいるのだろうか。
鼻血をハンカチで押さえながら、曽田は佳苗を睨みつけた。
「大丈夫よ。私の願いなんて、本当にささやかなもの。普通の人間なら、誰でも得られるものよ」
「あんな大それた事をするヤツの言う事を信じろと?」
「別に信じてもらわなくても構わないわ。貴方に会いに来たのも、ゴールを目前にして邪魔をされたくないからだし。だから……『十戒』は捨てなさい(・・・・・)」
それは、別に強い口調ではなかった。
ただ、これまでの会話の中で、初めて発せられた【命令】であった。
それを聞いた曽田は、当たり前のように頷いた。
「……分かった。『十戒』は研究室の金庫で、誰にも触れられないよう厳重に保管してある。これから会社に行って、処分する」
「何か不幸な事があったのね。それで正解よ。あれは、人が使ってはいけない物だもの。いくら機械で分析しても成分は分からないし、香料を手に入れる事も不可能」
「まるでレシピを知っているような言い方だな」
「知っているわ。でも作れないの。だから、オリジナルを手に入れたかったのよ」
並の調香師なら、レシピと香料があれば香水を作る事が出来る。ましてや佳苗は、調香に関しては魔女の異名を持つ達人だ。その佳苗が作れないという事は、香料の入手が不可能という事である。もっとも、佳苗が曽田に魔女と呼ばれているのは、学生時代の非道な行ないによるところが大きいのだが。
「それから、これは貴方へのプレゼント。『十戒』を処分したら、これを使って何もかも忘れなさい(・・・・・)。『十戒』の事も、私の事も」
そう言って、佳苗は曽田に小瓶を手渡した。
曽田は素直にそれを受け取る。
「『忘却』か。君の悪事が露呈しなかったのも、コレのせいだったな。当事者も目撃者も忘れてしまっては、真実は暗い闇の中だ」
「忘れる事が出来るのは、幸せな事よ」
「そして、僕も君の事を忘れるのか」
「ええ」
鼻血が治まったのか、口周りをぐいっと拭いた曽田は、血塗れのハンカチをスーツのポケットにしまうと、佳苗に向かって一歩踏み込んだ。そして、懐かしさを湛えた瞳で旧い友人を見つめる。
「忘れる前に言っておくけど、あの時、僕は君に惹かれていた。好きだったとは言わないけど」
「知ってる。だから、これはオマケ」
曽田の前に立った佳苗は、かつてのクラスメイトの頬に手を添えると、軽く口付けをした。それは、本当に軽い、挨拶のようなフレンチキス。
「……あの頃にキスをもらっていたら、僕は君についていったかな」
「結果は同じよ。私は誰とも歩かない。いいえ、歩けないのよ」
「そうか……。さよなら、馥山佳苗。僕は君が好きだったよ」
「なによ、結局、言ってるじゃない」
「僕が君の事を忘れるにしても、後悔はしたくないんでね。安心してくれ。『十戒』は必ず処分して、君の事は忘れる」
佳苗に渡された小瓶を弄びながら、曽田は気安い雰囲気で請け負った。
曽田が『十戒』を処分するのは、佳苗の使った黒い香りのせいである。本人に違和感を持たれる事なく【命令】を実行させる、魔性の香りの効果である。
だが、二人の会話から、そのような不自然な様子は見られない。それこそが魔女の異名の由来なのだが、曽田の表情には懐かしさしか浮かんでいなかった。
「お願いね……」
曽田の目の前で、黒い少女の姿が薄く滲んでいく。自分の意識から消えていくかつてのクラスメイトの方を向きながら、曽田はいつまでも虚空を眺めて続けていた。
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