第四章 魔香の伝説 3

 喫茶店の外は夏の陽射しで満たされていた。お店の中はクーラーが十分に効いているが、遮光スクリーン越しにも強い光が店内に降り注いでいる。

 しかし、淡い微笑みを二人に向けている黒い女は、どこか黄昏をイメージさせた。地平線の向こうに沈みゆく、力を無くした陽の光。それを見る者に、やるせなさを起こさせる寂しい風景。

「悪魔……、ですか。でも、そういう割に、やっている事は大したことないですよね。人を騙したり、カンニングしたり。まあ、殺したりとか、その……、姦淫とか、物騒なのもありますけど……」

「良いところに気付いたわね」

「え?」

「仄香さん、あなたは悪魔っていう存在に、どんなイメージを抱いているの?」

「そりゃ、魔法のような力で人を不幸にするヤツ、ですね」

「それだけ? 郁はどう?」

「……取引、ですかね。対価に応じて、人知を超えた力で願いを叶える存在、かな。まあ、ファウストとメフィストフェレスですけど」

「その通りよ。悪魔というのは、取引によって願いを叶える存在。そして、悪徳は悪魔にとっての徳。『十戒』の六から十をクリアしたものは、その内容に応じて呼び出す悪魔の格が変わるの」

「悪魔の……、格?」

「そ。大きな願いを叶えるためには、それに応じて強大な悪魔を呼び出さなければならない。そして、その為に『十戒』を使って積む悪徳も悪逆非道なものになる。逆に、叶える願いが大したものでなければ、その悪徳も簡単なもので済むのよ」

「つまり……、同じウソをつくのでも、持っているのに持っていないって言うのと、人生を破滅させるような大掛かりな詐欺とでは必要な悪徳の度合いも異なるってことですか?」

「そうよ」

 二人だけで分かったような話をしているせいか、隣の仄香から刺すような視線を感じたが、郁はそれを無視して『十戒』の効果と意味に思いを巡らせた。特に、悪徳そのものについて。

「……戒めの八は『汝、盗むなかれ』、つまり『盗め』という悪徳……。そして、実際には『十戒』を使ったカンニングという手段でテストの答えを『盗んで』いた……。堂々とカンニングをしても咎められないのか、答えが頭に勝手に浮かんでくるのか、それはちょっとわからないけど……」

「郁ってば、何が言いたいの?」

「いや、野球をやる人間には便利な道具だなって思ったんだ」

「野球?」

「そう。例えば、盗塁。あれは塁を『盗んで』いるんだよ」

「いや、それは確かにそうだけど……、そうなの?」

「他にも、アウトを取ることを刺殺って言うんだ。ランナーを『殺して』るんだね」

「で、でも、そんなの言葉遊びじゃない」

「まーね。でも、『盗め』ってのがカンニングっていう、言ってみれば概念的な行為でもOKなら、野球のプレイも有りなんじゃないかって思ったんだよ。もっとも、完全無欠な悪徳のカンニングと違って、悪魔が野球のプレイを悪徳としてカウントするかっていうと微妙だけどね。ね、センパイ? ……センパイ?」

 冗談半分、軽口のつもりで、郁は思ったことを素直に口にしたのだが、黒い上級生の反応は郁の予想と大きく違っていた。

 佳苗は大きく目を開き、テーブルの対面に座る下級生を驚きの表情で見つめていた。さっきまで見せていた余裕の微笑みは、射し込む夏の光で溶かされたように消えている。

「面白いわね……、郁。あなた、本当に面白いわ。あなたなら、もしかしたら『十戒』を使いこなせるかもしれない。悪魔を、出し抜けるかも」

「え、まさか、有りなんですか?」

「断言はできないけれど、可能性はあるわ。あなたたちは、魔法や魔術をどんなものって考えてる?」

 少し考えて、仄香が答えた。

「……何でも出来る、不思議な力、かな?」

「既存の科学とは相容れない不思議な力、というのは合っているわ。でも、何でも出来る、というのは間違いよ。デタラメに見えるけれど、魔術には魔術なりの技術体系やルールがあるの」

「つまり、『魔香』っていうのは、“魔法の香水”ではなく、“魔術的な手段で作られた香水”、ということですか?」

「そういうこと。ちなみに、魔術を英語で何て言うか、知ってる?」

「マジックでしょ? そんなの小学生でも知ってるわ」

「それは魔法、もしくは手品ね。シンデレラの魔法の馬車みたいに、本当にただの不思議な力。でも、理論と技術に裏打ちされた魔術はアート、というのよ」

魔術アート……」

「センパイは、もしかして、魔術師アーティストなんですか?」

「さて、どうかしら。残念ながら、私はタダの調香師パフューマーよ。でも、呼ばれるのなら魔女がいいわね。その方が雰囲気があるし」

 それは、目の前の黒い女の呼称としては似合いすぎていた。

「さて、今日のところはここまでね。私が教える『十戒』の知識は以上よ」

「……先輩は、あれが本当に魔術で作られた香水だと思っているんですか?」

「いいえ」

「え?」

 仄香は自分の耳を疑った。『魔香』は本当に存在するかという問いに、佳苗はYESという返事をすると期待していたのだ。むしろ、ここまで思わせぶりな話をしておいて、本人は全然信じていないなどとはありえない。もし、そうだとしたら、目の前の黒い女は、魔術師どころか稀代のペテン師になれるだろう。

 だが幸い、仄香の思いは早とちりであった。

「思っているんじゃなくて、知っているのよ」

「それじゃ、なんで学校じゃ、おそらく……なんて曖昧な言い方をしたんです?」

「だって、そんなことをいきなり断言したら、逆に私の話なんて聞かなかったでしょう?」

「うっ……、それは、まあ、確かに……」

 初対面で、「あれは魔法の香水なの!」などと言われても、普通は信じないだろう。むしろ胡散臭げに対応して、こんな場を設けることはしなかったに違いない。

「信じる、信じないは、あなた達の自由よ。私の話を与太話と思って無視するのも良し。一から十まで信じて『十戒』を取り戻すも良し。話は信じて、私のことを疑うのも良し」

 仄香はここで心底ゾッとした。滑らかな語り口と心地好い声音、そして人の心を見透かしたかのような物言い。佳苗が今言ったこと、それはまさに、黒い女にどう対処しようかと、仄香が郁と事前に話し合っていた選択肢だったからだ。ところが、それらは全て佳苗の想定内であり、そうと自覚しつつも彼女の掌から逃げることができない。まるで、孫悟空とお釈迦様のように。

 ウソは言っていないと思う。だが、全ての真実を語っているとも思えない。何も考えずに話を聞いていたら、ただ単に佳苗の話を受け入れていただろう。

 今は佳苗の言うとおり、話だけを信じて本人は疑っておこう。何より、目の前の黒い上級生の目的が分からないままだ。

 佳苗の術中に完全にハマっていることを自覚しつつ、仄香は自分の胸にふと湧き上がった疑問を口にせずにはいられなかった。

「先輩……、歳はいくつなんですか?」

 となりの郁が、ハッとした表情を向けてきた。

 高校三年生であれば、普通は十七歳から十八歳である。病気などの理由で進級が遅れていたとしても、二十歳は超えていないだろう。

「女に年齢を聞くのは失礼よ。でも答えてあげる。四百と十八歳よ」

「……なんだか、どっかの悪魔みたいですね。それならいっそ、十万と十八歳とか言えばいいのに。でも先輩、目尻のしわが厚化粧でも誤魔化しきれてないですよ」

 それは、年経た女性に対する罵倒としてはごく平凡なものであろう。そこらの四十代の女性であれば、激烈に反応したに違いない。

 だが、妖しく微笑む黒い女はそんな子供じみた挑発には乗らなかった。

「あら、今日はカワイイ子たちと会うんだから、特に念入りに化粧をしたんだけれど。もうはがれてきちゃったかしら?」

 もちろん、冗談に違いないだろう。実際、目の前の黒い上級生は、いささか大人びているものの、自分たちと同じ年代の少女にしか見えない。

「それじゃ、もうそろそろ失礼しましょうかしらね」

 そう言って、佳苗はブランド物らしいクラッチバッグに手を入れた。

 財布でも出すのだろうかと仄香は思ったが、出てきたのは銀色の小振りなアトマイザーだった。アトマイザーとは、香水を収めた携帯用の噴霧器である。細長いスティックタイプやずんぐりした小瓶タイプなどがあるが、総じて掌に収まるサイズだ。

 佳苗のそれは、精緻なデザインの施されたスティックタイプだった。銀色の鈍い光が黒い女の手の中で揺れている。高級な女性用ライターのようにも見えるそれは、そこらのブティックで売っているようなプラスチック製の安物ではない。

 黒い女は二人の見ている前で、ごく当たり前の仕草で手首と胸元に香水を吹き付けた。

 普通、香水は出掛ける前や化粧直しで中座したときなどにつけるもので、あまり人前でつけるようなものではない。

 だが、仄香にとってその光景は見慣れたものであったため、違和感に気付かなかった。そして気付いたときには手遅れだったのである。

「吸っちゃダメ! 息を止めて!」

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