第四章 魔香の伝説 4
仄香は自分の鼻を押さえ、同時に隣で目を見開いている幼馴染みの鼻も押えた。
だが、それは一瞬遅かった。
香水の主な成分は
初めは微妙な違和感だったが、やがて仄香の目の前で、黒い女が手を振りながらどんどん薄くなっていった。目に映っているのに、背景に溶け込んでいくような感覚。例えば道端の小石など、どんな物でも脳が認識しなければ視界に入っていても気付かず、記憶にも残らないが、それとは真逆の感覚だ。どんなに意識を集中しても、目の前の女が薄くなっていくのを止められない。
「あまり時間が取れなくてごめんなさいね。でも、とても楽しいお茶会だったわ。ごきげんよう……」
仄香が我に返った時、テーブルの反対側に座っていた黒い女は忽然と姿を消していた。残っているのは、口紅のついた空っぽのティーカップと千円札が二枚だけである。
人が、目の前で消える。
常識外の出来事に声を出すことも忘れ、仄香は軽く浮かせたお尻をストンと落とした。
「何が……、起きたの?」
「これも……、いや、これが『魔香』の力……」
不思議な力を持った香水。魔術で創られた香水。その効果を今、二人は目の当たりにした。
「夢でも見てたの? アタシたち……」
「イタタタッ! 痛いイタイ! つねるんなら自分の足をつねってよ!」
呆然とした表情のまま、仄香は隣で同じように呆けていた幼馴染みの腿をつねっていた。
「アタシの見間違えじゃないのね」
「そうだよ! まったく……」
仄香の手を払った郁は、痛みを散らすように自分の腿をさすっていた。
「結局、あの人の目的も分からないままだね。まあ、でも、サービス精神は旺盛みたいだ」
「サービス? 何が?」
「『十戒』の正体を教えてもらったのと、『魔香』の効果を実演してくれたじゃないか。それに対して、ボクらは何も話してない。情報交換にもなってないよ」
「それは……、まあ、確かにそうね……」
郁の言う通り、こちらが得るばかりで、仄香たちは何も提供していない。だが、それで申し訳ないとは思わなかった。
あの黒い女には黒い女なりの目的があってそうしたのだろうし、何より郁に対する馴れ馴れし過ぎる態度が気に入らなかった。とにかく気に入らない。
「……帰ろっか、郁」
「そうだね」
伝票と佳苗の残した千円札二枚を手に取り、二人はレジに向かった。
伝票を受け取ったバーテンダーが会計を始める。
「ありがとうございます。三点で二千百円になります」
百円足りなかった。
「……! あの女! 足りないじゃないの! 何が冷たいものをごちそうするわ、よ!」
「まあまあ。残りはボクが出しておくよ」
「いーえ、アタシが出す! でもって絶対にあの女から取り立ててやる!」
「小っさ!」
「うるさい!」
*
「さて、状況を整理しようか」
喫茶店を出た仄香と郁は、そのままコンビニでお菓子を買ってから調香工房へと戻ってきた。飲み物は工房の冷蔵庫に冷やしてある。
「『十戒』の行方はさておいて、まずは『十戒』について分かったことからまとめよう」
「そうね」
工房の片隅にある応接セットで、二人は買ってきたスナック菓子を広げた。コップには冷たい炭酸飲料が注いである。めいめいにスナック菓子をつまみながら、二人はこれまで分かっていることを改めて確認し始めた。
「まず、『十戒』が作られたのは十八世紀で、当時の技術ではありえない合成香料が使われている」
「そうね。その技術ってのは、馥山先輩の話だと魔術、ということになるわ」
「今でも信じられない話だけどね。でもって、『十戒』を含めた『魔香』と呼ばれる香水には、アロマテラピーなんかとは次元の違う、魔法のような効果がある」
「ようなっていうより、まんま魔法ね」
「その中で、特に『十戒』は『モーゼの十戒』をモチーフにした効果がある」
「うん。人を騙したりとか……」
「ここまでは、ボクたちも目の前で体験したことだし、疑う余地は無いと思う」
「アタシもそう思う」
「で、ここから先は馥山センパイの話が正しいとしてのことだけど、『十戒』は悪魔召喚のアイテムである……。どう思う?」
「どう……って言われてもねえ……。魔法の香水ってだけでも怪しい話なのに、悪魔とか言われても、ちょっと信じられないのが正直なところよ」
「まあ、普通はそうだろうね。でも、あれが本当に悪魔を呼び出すものかどうかってのは、それほど重要じゃないと思う」
「は? どういうこと?」
「重要なのは、あれが本当に悪魔召喚のアイテムだと思ったヤツがいるってことだよ」
「……なるほど、そいつが盗んだ犯人ってわけね」
「そういうこと」
「でも、どんなヤツが?」
「犯人は学校にいるってところまでは分かってる。そして、今のところ、『十戒』のことを知る人間はボクたちと馥山センパイ、それから犯人の四人だね。犯人が単独犯だとしてだけど」
「でも、ウチの学校で香水のことに詳しい人なんて他にいないわよ。自慢じゃないけど、一番はアタシだと思うし」
「どうかな? いや、一番は確かに仄香だとボクも思うけど、詳しい人間が他にいないってことにはならないよ。現に馥山センパイの存在を知らなかったし」
「むー」
「とはいえ、隠れた香水のスペシャリストがウヨウヨいるとも思えないからね、馥山センパイの周りを調べてみようか」
「分かったわ」
ジュースを一口含んだ仄香は、背もたれに身体を預けた。
「それにしても、どんな香りを合成したのかってのは気になるわね。合成するからには、元になる天然の香りがあると思うんだけど……」
「いきなり香りを合成するってことはないの?」
「ないわけじゃないけど、ゼロから香りを作るのって、実は意外と難しいのよ。そもそも合成香料のコンセプトって、入手の難しい天然香料の代替か、天然香料が存在しないものの香りを再現することなんだもの。元になる香りがないと、合成のしようがないわ」
「天然香料の存在しない香りなんてあるの?」
「あるわよ。フルーツ系なんかほとんどがそうね。アップルとか、ピーチとか、メロンとか。他にはバニラとかもそうね。バニラエッセンスって聞いたことがあるでしょ?」
「え、そうなの? なんだか甘くて美味しそうな匂いって、みんな合成なんだ……」
「そうねぇ、面白いところでは、かき氷のシロップね」
「黄色いレモンとか、緑色のメロンとかの?」
「そうそう。あれって、実は全部同じ味なのよ」
「ウソ!」
「ホントよ。違うのは香り、フレーバーなの。同じ味の甘い汁に、レモンとかイチゴとかの香りが付けられてるのよ。みんな香りに騙されてるのね」
「へえー……」
身につける香水はフレグランスというが、食品に添加される香料はフレーバーといい、可食香料とも呼ばれる。ジュースやガム、シロップなどに添加されているフルーツ系のフレーバーはほとんどが合成香料と聞いて、郁は素直に感心してしまった。まだまだ、世の中知らないことは多い。
「まあ、これは一例だけど、とにかく、合成するからには元になる香りがあるのが一般的ね」
「なるほど。でも、仄香も、それから薫子さんも曽田さんも、それが何の香りかが分からなかったんだよね」
「そうなのよ……」
「香りのプロが三人も集まって、元になる香りが分からない……。曽田さんの所感だと、動物性の何か……か……。動物性……、動物……。ん?」
「郁?」
仄香の目の前で、幼馴染みは何かに気付いたような顔をした。仄香にとって、それは見慣れた表情だ。難題を前にして、解答へ至る道筋を見付けた時の、鋭い表情。
仄香は、この表情がとても好きである。
だが、郁は首を横に振り、降って湧いた自分の考えを否定した。
「あー、いやいや、それは無いな。さすがに飛躍しすぎだ」
それは、あまりにも突拍子もない考えである。誰に聞いても呆れられるだろうし、一日前の自分であれば簡単に否定しただろう。しかし、黒い女から得られた知識が、郁の常識に逆らった。言葉で否定し、首を横に振っても、拭い去ることの出来ない、『まさか』という感覚。
「何よ、何か思いついたんじゃないの?」
「何でもないよ。いくらなんでもありえない」
「……ねえ、郁。昔、郁はアタシにこう言ったわよね。『勘っていうのは、あてずっぽうのコトじゃない』って」
「ああー、確かに言ったねぇ」
「話して」
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