第四章 魔香の伝説 5

 基本的に、人間は論理的に思考する。三段論法や帰納法を持ち出すまでも無く、『AだからBである』という単純な考え方ですら論理的だ。

 だが、人間の脳は、時としてそういった論理を飛び越えて、いきなり結論を出してしまうことがある。これが『勘』と呼ばれる現象である。

 これは、普通の論理思考とは異なり、それまでに蓄積された知識と経験によって、一瞬で導き出されたものである。そして、その結論を証明するために、四苦八苦して誰にでも分かる形で論理を構築するのだ。アインシュタインの相対性理論がひらめきから証明にかかった年月や、無数の公式群をいきなりノートに書き記し、証明に百年近くかかったインドの数学者ラマヌジャンの逸話などは有名である。

 もちろん、『勘』というのは完全な論理思考の結果ではないので、百パーセントの精度があるわけではない。だが、全くの当てずっぽうということでもないのだ。

竜髯香アンバーグリス霊猫香シベット麝香ムスク海狸香カストリウム……、代表的な動物性の天然香料はこの四つだけど、『十戒』に使われているのはそのいずれでもない。そして、現在知られている動物から香料を採る努力はされ尽くしている。人は貪欲だからね。つまり、『十戒』に使われている天然香料は、未知の動物から採れると考えられる」

「未知の動物? 未発見の動物ってこと? たしかにジャングルの奥地とか深い海の底とかじゃ、未だに新種の生物が発見されてるって聞いたことがあるわね。この間もネットのニュースで、猛毒を持った新種のカエルが見つかったって記事を読んだわ。なるほど、未発見の動物か……」

「ああ、いや、そうじゃない」

 さっきまでの迷いを振り払ったような郁は、仄香の理解を否定した。

「ボクが思いついたのは違うんだ。確かに未発見の動物なんだけど……、そう、むしろそれは謎の生物と言った方がいいかな。存在は確認されていない、でも、誰もが知っている生物だよ。生物という言い方も、合ってるかどうか分からないけど……。笑ってよ、仄香。ボクは今、とっても非常識なコトを思いついたんだ」

「ちょっと……、もしかして郁が考え付いたのって……」

「うん。悪魔、……の肉体から分泌されたモノ、じゃないかな」

 仄香は笑わなかった。いつもはドヤ顔で雑学を誇る幼馴染みが、自信の無さと自嘲を込めた頼りない笑顔を自分に向けている。郁の思い付きに、感心することも笑い飛ばすことも出来ず、苦手な食べ物を無理やり飲み込むように、仄香は幼馴染みの言葉を噛みしめた。

 調香工房は、香料を温度による劣化から守るために十分な冷房を効かせている。だが、今、二人が感じた薄ら寒さは、決して工房内の冷房から得られたものではないであろう。


   *


 翌日。

 試験休み明けの答案返却日。

 返ってきた結果に仄香は心が折れてしまいそうになるが、ギリギリ赤くない点数を心から追い出した。頭を振って邪念?を追い払い、仄香は一学年上の黒い女を訪ねることにする。郁は三年C組の担任に彼女の事を聞いてみると言って教室を出ていったので、今回は仄香一人である。

「すみません、馥山先輩を呼んでもらえますか?」

 三年C組の教室の前に来た仄香は、ちょうど教室から出てきた年上の女生徒に佳苗を呼んでもらうように頼んだ。

「フクヤマ……?」

「? ええ、馥山先輩です。馥山佳苗先輩。このクラスにいるって聞いたんですけど……」

「んー……、ああ! あの転校生か!」

「転校生?」

「ええ。今年の初めに転校してきたんだけど、病弱だとかで割と休みがちなのよね。学校に来てる日の方が少ないんじゃないかしら。確か今日も休みよ」

「えー、病弱ぅ……、ですか?」

 黒い女とは数回会っただけだが、病弱といったイメージからは程遠い。病弱と聞いて、仄香は思わず変な笑いを漏らしそうになった。だが、上級生の前であるし、こちらが聞いている立場なので、表情に出るのをかろうじて堪える。

 仄香はふと、目の前の上級生が、馥山佳苗にどんなイメージを持っているか気になった。仄香が馥山佳苗に『黒い』イメージを持っているのは、彼女が黒い服装を好んで身に着けているからであるが、他の人間にはどう見えているのだろうか。

「えと、馥山先輩が香水に詳しいって聞いたんで、ちょっとお話したいなって思ったんですけど、どんな人なんですか?」

「香水……?」

「ええ、趣味で、ちょっと香水を自作してるんで」

 ウソは言っていない。

「ふうん、変わった趣味ねぇ」

「あはは……」

「えーと、馥山さん、だっけ? どんな人って言われてもね。あんまり学校に来てないからなー……。うーん……」

「?」

「話したことなんてほとんどないから、どんな人なのかはちょっと分からないかな」

 上級生のあいまいな返答に、仄香は何か妙な違和感を覚えた。

 『黒い』イメージが仄香の中で強く残っているが、それ以外にも、あの女には記憶に残る個性がある。黒い服装と対照的な色白の肌。モデルのように流れる黒いストレートのロングヘア。市松人形を思わせる整った和テイストの美貌。どれを取っても没個性とは言えないので、見た者の記憶には残るはずだ。クラスで人気の美少女、とはならないであろうが、取っつきにくいが美人、くらいの評価は得られるはずだ。積極的な男子生徒であれば放っておかないだろうし、女子生徒であればやっかみ半分の感情を抱くだろう。

 にもかかわらず、目の前の上級生は馥山佳苗がどんなクラスメイトなのか、分からないという。

「あの、ちょっとしたことでいいんですけど、見た目の雰囲気とか……」

 いきなり現れた下級生に続けて変なことを聞かれた上級生は、仄香に迷惑そうな顔を向けた。だが、真面目な性格なのか、彼女は律義に仄香の問いに答えてくれた。

「なんだか薄いヤツだわね」

「薄い?」

「そう。あんまり学校に来てないせいもあるんだろうけど、印象に残らないって言うか、記憶に残らないって言うか……」

 そんなはずはない。

「黒い服を好んで着ているって話を聞いたんですけど」

 仄香の中で、馥山佳苗はとにかく黒い印象だったから、誘導尋問的になってしまうと思いつつも聞いてみた。先日、廊下でふいに鉢合わせた時も、彼女は夏だというのに黒いカーディガンを羽織っていたから、色の印象くらいは残っていると思ったのだ。

 だが、得られた答えは満足のいくものではなかった。

「黒……? そうだったかな? でも、学校には制服で来てるんだから、普段はどんな私服を着てるのなんて分からないわ」

「ああ、それはまあ、そうですね」

「とにかく、居るのか居ないのか分からない、そんな感じよ。ホントに居ないことが多いし、居ても気付かないって感じかな」

「……すみません、ありがとうございました」

 これ以上は馥山佳苗の話を聞き出せないと思った仄香は、上級生に一礼して三年C組の教室を後にした。教室にいる他の上級生にも聞く手もあったが、おそらく無駄だろうと仄香は思った。なぜなら。

「おばあさまの黒い香りと、同じ……?」

 黒い香り。それは、仄香が祖母の薫子から教わった、香水の悪用法である。自分を飾り、人を楽しませるための香りではなく、人を欺き、傷つけるための使い方。

 どうやら、あの黒い女は薫子と同じ、香水の黒い使い方を心得ているらしい。

「それとも、これも『魔香』なの……?」

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